愛してるよ、大嫌い

 下駄箱まで辿り着くと、俺はその場にしゃがみ込んだ。
 慣れない全速力に呼吸が乱れ、息をするたび肺が痛む。
「……はあっ、は……っ、ここまで、くれば……平気か……」
 大きく二度深呼吸をし、少し落ち着いたところで、よろよろと立ち上がった。
 柊が追いかけてきている感じもなかったし、きっと一軍女子たちに捕まっているのだろう。
 ここからはゆっくり帰ろ——
「那津先輩っ‼︎」
 …………は?
 声がした方へ顔を向ければ、柊がこちらに走ってきているのが見えた。
 俺は慌てて下駄箱からローファーを取り出し、履き替えた。
 だけど——、
「……っなんで、逃げん、ですか……?」
 ——捕まってしまった。
「…………っ」
 身体を強制的に柊の方に方向転換させられる。
 上から柊の荒い呼吸が降ってくる。
 俺は顔が上げられず、柊の胸元辺りで視線を彷徨わせた。
 ……なんで、こいつ追いかけてきてんだよ。俺のことなんて放っておけばいいだろ。
 困惑と苛立ちと、でもそれ以上に誤魔化しきれない嬉しさが募る。
「……せんぱい、なんで?」
 思ったより、弱々しい問いかけ。
 俺はそっと視線を上げた。
「ねえ、答えて」
 切羽詰まったような、傷ついたような、切実な表情をした柊が俺を見ていた。
 ……なんでそんな顔すんだよ。
 思ってもみない表情だった。
 初めて、柊のこんな顔を見た。
「……別に。ただ帰ろうとしただけだっつの」
「なら、なんで走んの」
「……用事、思い出しただけ。つか、離せよ」
 肩に置かれた柊の手を払い除けた。
 思いの外、簡単にその手は俺の肩から去っていった。
 ……抵抗、されるかと思ったのにな……。
 名残の熱が俺の心に小さな傷を作る。
「……じゃ、俺帰るから」
 俺は踵を返し、その場から立ち去ろうとした。
 だけど、柊は俺の前に立ち塞がった。
「まだ、ゲームの途中でしょ」
「……は?」
 見下ろして、不機嫌そうに言われた言葉に、俺は顔を顰めた。
 今それを出してくるのか?
 あのゲーム、そんな大事か?
「那津先輩、まだ途中だった」
「それなら、俺の負けでいいよ」
 どうせ、もう一回やたところで俺は言えない。
 結果が見えているゲームなんてやるだけ無駄だ。
「なら、罰ゲーム。今、俺の言うこと一個聞いてください」
 ずい、と距離を詰められる。
 いつも笑顔を浮かべている美形の真顔は、迫力と圧がすごい。
 つい、たじろいでしまう。
「……い、今?明日でもいいだろ、別に」
「だめ。今」
 さらに一歩詰められ、俺は後ろに一歩下がる。
 これは……俺が頷かないとだめ、か。
 不承不承、俺は柊の“言うこと”を促すことにした。
「……じゃあ、なに」
「俺が今から言う質問に、正直に答えてください。嘘は、絶対にだめだから」
「……わかったよ」
 視線を落として大人しく頷けば、柊の両手が俺の頬を挟み込み、そのまま顔を上げさせられた。
 不安げに揺れた薄茶色の瞳が、俺を観察するように見つめてくる。
「那津先輩……——本当に俺のこと嫌い?」
「は……?」
 なに、言ってんだ……こいつ。
「俺のこと、嫌いですか?」
 再度繰り返された問いに、俺は唇を引き結ぶ。
「正直に、答えて」
 縋るような声色に、俺の心は酷く揺さぶられた。
 こんなことを聞いてくる柊の気持ちがわからない。
 答えたくなんかない。
 ……でも。
 頷いてしまったから。
 負けを認めてしまったから。
 俺は正直に、答えなくちゃいけない。
「………………嫌いだ」
 視線を合わせたまま、俺は呟くようにして答えた。
 瞬間、薄茶色の双眸が傷ついたと言わんばかりに形を歪めた。
「そっか……そうなんですね」
 柊は力なく、ぎこちない微笑みを浮かべた。
 俺の頬から滑り落ちていく柊の手を、俺は両手で捕まえた。
「……そうだ。嫌いだよ。誰彼構わず愛想振り撒いて“好き”だのなんだの言いまくってるやつなんて」
 吐き捨てるように言えば、柊は薄っすら残っていた微笑みさえ消して、その綺麗な顔を強張らせる。
 正直に、そう俺に注文したのはお前だからな、柊。
 お望み通り、全部言ってやるよ。
 俺は柊を掴む手に力を込めた。
「……それを横で聞いてる俺の気持ち考えたことあんのかよ」
 柊の双眸がみるみる動揺に染まっていく。
 言うと決めたら、奥底に仕舞い込んでいた気持ちが、一気に溢れ出す。
 怒りも嫉妬も好意も、その全部が混ざった激しくて重いもの。
 その全部を剥き出しにする。
「好きな男が他のやつに“好き”なんて言ってたら気分悪いだろうが……!」
「……え?」
「お前が言う度に、傷ついてんだよ……こっちは。そのくせ、俺には“大好きだ“なんて言ってきて……毎日情緒滅茶苦茶だよ。必死に耐えて、我慢してる俺の気持ちも知らないで、『本当に俺のこと嫌いですか?』なんて聞くなよ!」
 言葉ではどうしようもできない感情が、涙となって表に出て来ようとする。
 目を丸くして、黙って俺の言葉を聞いている柊に、俺は最後の”正直“を全力でぶつけた。
「……お前のことなんて好きに決まってんだろうがっ!」
 叫ぶと同時に、俺の瞳から堪えきれなかった涙が零れ落ちた。
 掴んでいた柊の手を離し、俺は乱雑に目元を拭った。
「……俺は正直に言ったからな。だから、もう」
「——ごめん、那津先輩……っ」
 言葉を遮られると同時に、柊に抱きしめられた。
 甘い香水の香りが、温かくも、冷たい。
「……離せよ」
 これから振る相手のことなんて、抱きしめるなよ。
 胸を押し返すも、さらにきつく抱き竦められる。
「俺、那津先輩に言ってた『好き』は、いつも本気だったよ」
 必死さの滲む声が耳許で告げてくる。
「——……は?」
 柊が……俺を、本気で……?
 何かの間違い、だろ……?
 衝撃で動けなくなった身体の代わりに、心臓だけが鼓動を早めて走りだす。
 柊は俺を拘束する腕にさらに力を込めてきた。
 痛いくらい、強く。
「でも、先輩に重いって思われたくなくて、引かれたくなくて……」
「だから……なん、だよ」
「深い意味のない『好き』を那津先輩の前で言ってれば、那津先輩への『好き』も少しは重みが緩和されて伝わるかもって思って……。傷つけてしまって、ごめんなさい」
「なら……柊は……俺のこと、」
 絞り出した声は掠れていた。
 まだ、先走ってはいけない。
 浮かれちゃいけない。
 そう思っても、湧き出る期待を止められない。
 柊の背後から差す西陽が、より一層強くなり、辺り一面をオレンジ色に染め上げた。
 柊が、小さく息を溢すように笑った。
「うん。俺は那津先輩のことが好きです。誰よりも——愛してるから」
 俺が負けを認めたから。
 もう、ゲームは終わっている。
 今与えられた「愛している」は台詞じゃない。
 温かさと重みが宿る本当の“それ”は、酷く心地いい。
「……俺だって、愛してるよ」
 縋るように抱きしめて。
 台詞では言えなかった言葉も、今は簡単に口から滑り出す。
 ——これからは「大嫌い」なんて言わない。
 その代わり、「愛してる」を何度でも。