事の発端は、10分前——。
クラスメイトの不用意な発言のせいだった。
放課後の教室で、もうひとりの日直・加藤と日誌を書いていた時だ。
ぺたぺたと間抜けな音をたてて近づいてくる人物が、俺の席の右横で止まった。
ここ最近で、嫌というほど聞き慣れてしまった足音。
見なくたって誰かわかる。
「来んなよ」
日誌に視線を向けたまま、書く手も止めずに言った。
すると相手が屈む気配がし、しっとりとした甘い香りが俺の鼻腔を抜けていく。
この香水も、ここ最近ですっかり嗅ぎ慣れてしまった。
「那津先輩、ひどーい」
耳に直接吹き込まれるような囁き。
戯れた声は、こいつが纏う香水のように甘ったるい。
俺は顔を顰め、日誌を書きつつ上体を左に傾けた。
「近い。うるさい。帰れ」
「わあ、3連発だ」
どこが面白いのか、弾んだ笑い声に俺の眉間の皺は深くなる。
「“春夏秋冬コンビ”は相変わらずだな」
加藤の苦笑に俺は顔を上げた。
「それやめろってば」
「それ?」
「こいつと勝手にペア扱いする変な呼び名」
初めて教室を訪ねてきた柊が俺に言った、
『俺、柊椛って言います。先輩と俺で季節コンプリートできますね』
この発言をクラスメイトの誰かが拾い、気づけば“春夏秋冬コンビ”なんて呼び名がついていた。
柊椛は「柊」と「紅葉」で、「冬」と「秋」。
俺、佐倉那津は「桜」と「夏」で、「春」と「夏」。
あまりにも安直。
ぜっんぜん面白くもない。
なのに、すっかり定着してしまった。
「え、なんで?だめ?柊も不満?」
「俺は大賛成でーす」
「だってよ」
「俺は嫌」
「えー、ひどーい」
戯れた甘い声が俺を責める。
俺を見下ろす整った顔面を睨みつけるが、
「あ、那津先輩やっと見てくれたー。嬉しい」
無邪気な笑顔で言われてしまえば、毒気を抜かれる。
素でこれだからタチが悪い。
「那津先輩、今日もかわいい。大好き」
「それ以上言ったら追い出すからな」
「えー、それはやだ。先輩と帰りたいもん」
愛嬌と人懐こさから産まれたようなこの後輩・柊椛は、気づいたら俺のクラスに通うようになっていた。
きっかけは、俺が落とした学生証だった。
『——佐倉那津、先輩?これ食堂に落ちてましたよ』
届けにきてくれた時は非常に好印象だった。
染めたことがない俺の黒髪とは違い、綺麗に染められた落ち着いた茶色の髪に、甘い顔立ち、清潔感を保ったまま程よく着崩された制服。そして人懐こい笑顔と甘く響く声。
これは女子が放っておかないな、と思った。
ついでに言えば、俺も、だけど。
『……ああ、ごめん。届けてくれてありがとう』
見た目も声も、俺の好みのど真ん中で。
こういう理想みたいな男が存在するのだと驚いた。
でも、
俺はこいつが嫌いだ……————大嫌いだ。
「あ、加藤先輩。それ新しいピアスですか?」
「お、気づいてくれた?ずっと狙ってたのセールになってさ」
柊の指摘に加藤が上機嫌で答える。
ふたりのやり取りに俺の機嫌は下降する。
ああ……また始まる。
「めっちゃいいすね。加藤先輩に似合ってるし、かっこいいですよ」
出た。
柊の褒め。
澱みなく発せられる”かっこいい“。
「マジ?イケメンの柊に言われると気分いいわー」
お世辞には聞こえないから、みんな素直に受け止める。喜ぶ。
「それ、どこで買ったんですか?俺も新しいピアスほしくて探してるんですけど、なかなかいいの見つかんなくて。加藤先輩いっつもセンス良くて、俺好みの着けてるから前から気になってて」
“好み”。
シャーペンを握る手に、無意識に力が入る。
日誌に並ぶ字がどんどん濃くなり、形も乱れていく。
心が、ざらつく。
「マジ?めっちゃ褒めてくれんじゃん。あ、なら店の情報あとでDMしとこうか?」
「え、いいんですか?めっちゃ助かります。嬉しい」
「他にもいい店何個かあるからそれも送っとくわ」
「やった。ありがとうございます」
自然に相手を褒めて懐に入る。
流れるような、テンポのいい会話。
誰が相手でも、初対面でも関係ない。
柊椛は全人類に同じ対応をする。
だから俺は、こいつが嫌いだ。
「じゃ、俺これ出してくるから」
筆記具を鞄に突っ込むと、書き終えた日誌と鞄を手に立ち上がる。
さっさとこの場を立ち去りたかった。
だけど、
「——、おい加藤っ」
俺の手から、日誌が引き抜かれてしまった。
「これは俺が出してくるって。その代わり、佐倉はその健気な後輩と一緒に帰ってやれよ」
「やだよ。だから俺が出しに行くって言ってんのに。日誌返して」
手を伸ばすも、加藤は日誌を後ろ手で背中に隠してしまった。
「折角来たのにかわいそうだろ。何をツンツンしてんのかわかんねーけど、少しは親交を深めろって」
「だからやだって——」
「じゃ、お先ー」
俺の言葉を遮って軽やかに告げた加藤が教室を出ていく。
取り残された俺と、柊椛……。
妙に大人しい柊を不審に思い横目で見れば、なにやら思案顔。
この隙に逃げよう。
俺は鞄を持ち直し、そっと席から離れようとした。
その時。
右手首に熱。
それと同時に後ろに引かれる感覚。
見れば、柊の手が俺の右手首を捕まえていた。
頬が引き攣る俺とは対照的に、柊は微笑んでいる。
「那津先輩、俺とゲームしましょ?」
すごく、嫌な予感がした。
クラスメイトの不用意な発言のせいだった。
放課後の教室で、もうひとりの日直・加藤と日誌を書いていた時だ。
ぺたぺたと間抜けな音をたてて近づいてくる人物が、俺の席の右横で止まった。
ここ最近で、嫌というほど聞き慣れてしまった足音。
見なくたって誰かわかる。
「来んなよ」
日誌に視線を向けたまま、書く手も止めずに言った。
すると相手が屈む気配がし、しっとりとした甘い香りが俺の鼻腔を抜けていく。
この香水も、ここ最近ですっかり嗅ぎ慣れてしまった。
「那津先輩、ひどーい」
耳に直接吹き込まれるような囁き。
戯れた声は、こいつが纏う香水のように甘ったるい。
俺は顔を顰め、日誌を書きつつ上体を左に傾けた。
「近い。うるさい。帰れ」
「わあ、3連発だ」
どこが面白いのか、弾んだ笑い声に俺の眉間の皺は深くなる。
「“春夏秋冬コンビ”は相変わらずだな」
加藤の苦笑に俺は顔を上げた。
「それやめろってば」
「それ?」
「こいつと勝手にペア扱いする変な呼び名」
初めて教室を訪ねてきた柊が俺に言った、
『俺、柊椛って言います。先輩と俺で季節コンプリートできますね』
この発言をクラスメイトの誰かが拾い、気づけば“春夏秋冬コンビ”なんて呼び名がついていた。
柊椛は「柊」と「紅葉」で、「冬」と「秋」。
俺、佐倉那津は「桜」と「夏」で、「春」と「夏」。
あまりにも安直。
ぜっんぜん面白くもない。
なのに、すっかり定着してしまった。
「え、なんで?だめ?柊も不満?」
「俺は大賛成でーす」
「だってよ」
「俺は嫌」
「えー、ひどーい」
戯れた甘い声が俺を責める。
俺を見下ろす整った顔面を睨みつけるが、
「あ、那津先輩やっと見てくれたー。嬉しい」
無邪気な笑顔で言われてしまえば、毒気を抜かれる。
素でこれだからタチが悪い。
「那津先輩、今日もかわいい。大好き」
「それ以上言ったら追い出すからな」
「えー、それはやだ。先輩と帰りたいもん」
愛嬌と人懐こさから産まれたようなこの後輩・柊椛は、気づいたら俺のクラスに通うようになっていた。
きっかけは、俺が落とした学生証だった。
『——佐倉那津、先輩?これ食堂に落ちてましたよ』
届けにきてくれた時は非常に好印象だった。
染めたことがない俺の黒髪とは違い、綺麗に染められた落ち着いた茶色の髪に、甘い顔立ち、清潔感を保ったまま程よく着崩された制服。そして人懐こい笑顔と甘く響く声。
これは女子が放っておかないな、と思った。
ついでに言えば、俺も、だけど。
『……ああ、ごめん。届けてくれてありがとう』
見た目も声も、俺の好みのど真ん中で。
こういう理想みたいな男が存在するのだと驚いた。
でも、
俺はこいつが嫌いだ……————大嫌いだ。
「あ、加藤先輩。それ新しいピアスですか?」
「お、気づいてくれた?ずっと狙ってたのセールになってさ」
柊の指摘に加藤が上機嫌で答える。
ふたりのやり取りに俺の機嫌は下降する。
ああ……また始まる。
「めっちゃいいすね。加藤先輩に似合ってるし、かっこいいですよ」
出た。
柊の褒め。
澱みなく発せられる”かっこいい“。
「マジ?イケメンの柊に言われると気分いいわー」
お世辞には聞こえないから、みんな素直に受け止める。喜ぶ。
「それ、どこで買ったんですか?俺も新しいピアスほしくて探してるんですけど、なかなかいいの見つかんなくて。加藤先輩いっつもセンス良くて、俺好みの着けてるから前から気になってて」
“好み”。
シャーペンを握る手に、無意識に力が入る。
日誌に並ぶ字がどんどん濃くなり、形も乱れていく。
心が、ざらつく。
「マジ?めっちゃ褒めてくれんじゃん。あ、なら店の情報あとでDMしとこうか?」
「え、いいんですか?めっちゃ助かります。嬉しい」
「他にもいい店何個かあるからそれも送っとくわ」
「やった。ありがとうございます」
自然に相手を褒めて懐に入る。
流れるような、テンポのいい会話。
誰が相手でも、初対面でも関係ない。
柊椛は全人類に同じ対応をする。
だから俺は、こいつが嫌いだ。
「じゃ、俺これ出してくるから」
筆記具を鞄に突っ込むと、書き終えた日誌と鞄を手に立ち上がる。
さっさとこの場を立ち去りたかった。
だけど、
「——、おい加藤っ」
俺の手から、日誌が引き抜かれてしまった。
「これは俺が出してくるって。その代わり、佐倉はその健気な後輩と一緒に帰ってやれよ」
「やだよ。だから俺が出しに行くって言ってんのに。日誌返して」
手を伸ばすも、加藤は日誌を後ろ手で背中に隠してしまった。
「折角来たのにかわいそうだろ。何をツンツンしてんのかわかんねーけど、少しは親交を深めろって」
「だからやだって——」
「じゃ、お先ー」
俺の言葉を遮って軽やかに告げた加藤が教室を出ていく。
取り残された俺と、柊椛……。
妙に大人しい柊を不審に思い横目で見れば、なにやら思案顔。
この隙に逃げよう。
俺は鞄を持ち直し、そっと席から離れようとした。
その時。
右手首に熱。
それと同時に後ろに引かれる感覚。
見れば、柊の手が俺の右手首を捕まえていた。
頬が引き攣る俺とは対照的に、柊は微笑んでいる。
「那津先輩、俺とゲームしましょ?」
すごく、嫌な予感がした。



