さばさばサルベージ

 1

 お局の富田さんが「私ってサバサバしてるからさ」と言った途端、私は無性に鯖が食べたくなった。
 皮目をぱりぱりに焼いた塩鯖でもいい。生姜を利かせた味噌煮も捨てがたい。脂の乗った身を箸で割り、湯気の立つ白米へ載せたところを想像すると、午前十時を過ぎたばかりだというのに胃が動いた。私は昔から、人の言葉を意味として呑み込むより早く、食べ物へ変換してしまうことがある。「話を煮詰めよう」と言われれば煮物が浮かび、「見通しが甘い」と叱られればプリンが食べたくなる。仕事をするうえでは何の役にも立たない癖だが、嫌な話を聞き流すときには意外と重宝していた。
「それで、柚木さん。来週の鯖江、私の代わりに行ってくれない?」
 富田さんは出張申請書を私の机へ置いた。断る余地が残されているような尋ね方だったが、担当者の欄にはすでに私の名前が入力されている。
 サバサバ、そして鯖の次に鯖江が来たものだから、頭の中では早くも魚へんの漢字が大漁に泳いでいた。福井県鯖江市。眼鏡フレームの国内生産で知られる街であり、私が勤める眼鏡卸会社にとっては重要な取引先が集まる土地でもある。断じて鯖の産地という意味で名づけられた街ではない。その程度の分別は私にもあったが、理解と食欲は別問題だった。
 市内にある眼鏡フレーム工場とは長い取引があり、今回は新作の試作品について打ち合わせる予定になっていた。ただし、完成した二十本すべてが発注とは異なる色になっており、その確認と称した謝罪が出張の主な目的だった。
「発注書に違う色番号を入力したのは、富田さんですよね?」
 私が尋ねると、富田さんはあっさり頷いた。
「そこは認める。私、変に言い訳するのは嫌いだから。ただ、先方の担当者って少し細かいでしょう。私みたいなタイプとは合わないと思うの」
 自分の間違いを認めることと、その後始末を引き受けることは、富田さんの中では別の問題らしい。
「津田くんも一緒だから、何も心配することはないでしょう。試作品のことは、あの子がいちばん詳しいし」
 富田さんはそう付け足し、向かいの島へ顔を向けた。名前を呼ばれた途端、パーティションの向こうから坊主頭が勢いよく現れた。
「はい! 柚木先輩、よろしくお願いします!」
 津田岳は椅子を鳴らして立ち上がり、こちらへ深々と頭を下げた。入社二年目の彼は大学まで柔道部に所属しており、名前を呼ばれれば返事と身体が同時に動く。今日もよく通る声が営業部の端まで響き、離れた席にいた部長が何事かと顔を上げた。
「まだ行くとは言ってないよ」
 私が出張申請書を引き寄せると、津田は「ありがとうございます!」と再び頭を下げた。富田さんも満足そうに頷いたが、そのまま立ち去ろうとはせず、申請書に並んだ私たちの名前を眺めていた。
「よかったわね、柚木さん。年下の男の子と二人で泊まりがけの出張なんて、そうそうあることじゃないでしょう。津田くんは誰にでも親切だから、少しくらい世話を焼いてもらっても、自分だけは特別だなんて勘違いしないでね。柚木さんがそんな人だとは思っていないけど、年下の男性に優しくされると、舞い上がってしまう人もいるらしいから」

 富田さんは、新聞で読んだ世間話でも披露するような口調で言った。声を落とす気はないらしく、近くの席でキーボードを叩いていた社員の手がいくつか止まっている。私は突然飛躍した話についていけず、なにも言えなかった。
「はい! 僕は先輩方全員を等しく尊敬していますので、柚木先輩だけを特別扱いすることはありません!」
 津田は富田さんの忠告を額面どおりに受け取り、胸を張って答えた。私を庇うつもりも、富田さんの言葉を否定するつもりもなく、自分の職場における基本姿勢を説明しているだけらしい。
「そう。それならいいのよ。柚木さんも、何もないなら変に意識しないでね。こういうことを言われて怒る人って、たいてい自分でも何か期待しているから怒るんでしょうけど、柚木さんは違うものね」
 否定すれば図星を突かれて怒ったことになり、黙っていれば期待を認めたことになる。どちらを選んでも富田さんの望む場所へ着くように、話の行き先には最初から二本とも同じ線路が敷かれていた。
「それから津田くん、食事へ誘われても、嫌なら無理に付き合わなくていいのよ。相手が先輩だと断りにくいでしょうし、お酒が入ったあとでホテルの部屋へ呼ばれても、入らないほうがいいと思う。柚木さんがそんなことをするって言っているんじゃないの。ただ、会社として若い社員を守る意識は必要でしょう?」
 富田さんは津田へ言い聞かせた。私が反論するより先に、津田は手帳を開き、業務終了後の予定を確認した。
「ご心配ありがとうございます! 夕食は別行動にします。僕はホテルへ着いたあと、日課のジョギングで十キロ走る予定ですので、食事はそのあと一人で済ませます。飲酒の予定もありません。柚木先輩の部屋へ入る必要が生じた場合は、先にフロントへ連絡し、ロビーで用件を確認します!」
 津田は迷惑をかけまいという善意だけで、対策を一息に並べた。そこまで具体的な回答を求めていなかったらしく、富田さんは一度口を開き、何も言わずに閉じた。
「まあ、二人がそれでいいなら私は構わないけど。柚木さんも、後輩の前でいいところを見せようとして、先方へ余計な値引きや短い納期を約束しないでね。津田くんも、柚木さんが勝手なことを言いだしたら止めてあげて。この子、食べ物を見つけると仕事を忘れるところがあるし、そうでなくても出張先では普段より気が大きくなる人もいるから」
 富田さんは心配を装ったまま、今度は私の仕事の能力へ話を移した。一つの嫌味が狙ったところへ刺さらなければ、角度を変えて次の嫌味を差し込んでくる。鯖の小骨なら一本ずつ抜けば済むが、富田さんの言葉には終わりがなかった。
「はい! 値引きや納期変更には上長の承認が必要ですので、柚木先輩だけで決定することはできません。もし先輩がその場で約束しようとした場合は、社内へ持ち帰るよう僕から進言します!」
 津田は元気よく請け負った。私の決裁権がないことまで営業部全体へ宣言されたが、内容自体は正しいため、訂正するところがない。
「先方への説明も気をつけてね。わざわざ私の入力ミスだなんて言う必要はないでしょう。会社と工場のあいだで認識に行き違いがあった、くらいでいいの。正直に何でも話せば誠実だと思っているなら、少し子どもっぽいから」
 富田さんは私へ言い聞かせたあと、同意を求めるように津田へ視線を移した。
「発注書には入力者の社員番号が記録されています。工場側にも同じ記録が残っており、富田さんが色番号を一桁間違えたことは先方も把握しています! 別の原因を説明すると事実と矛盾しますので、入力ミスを認めたうえで謝罪するのが最も早いと思います!」
 津田は試作品の進行を担当していたため、間違いが発覚した経緯まで正確に記憶していた。富田さんを責めている意識はなく、問いかけられたから知っている事実を答えただけだった。周囲で止まっていたキーボードが、今度は一斉に動き始めた。だが誰も聞いていなかったことにするには、遅すぎるタイミングだ。
「津田くんは、本当に正直ね。柚木さんも、若い子を味方につけられてよかったじゃない。私が悪者になれば、自分は後輩を守る頼れる先輩に見えるものね」

 富田さんは私を見ながら、口許だけで笑った。私を射抜くような眼差しは、先程から変わっていない。
「はい! 出張には同じ会社の社員として同行しますので、柚木先輩も富田さんも僕にとっては同じ味方です!」
 津田は嬉しそうに答えた。富田さんの言葉のどこに喜ぶ要素があったのかはわからないが、彼の中では、社員同士の結束を確認されたことになったらしい。
「そういう話をしているんじゃないんだけど」
 富田さんは低い声で呟いた。
「失礼しました! ほかに注意事項があれば、すべて出張予定表へ記載します!」
 津田はボールペンを構え、次の言葉を待った。彼は富田さんと争っているのではない。出された質問に答え、指示された対策を記録し、出張前の確認事項を一つずつ処理しているだけだった。嫌味が通じない人間を相手にすると、嫌味を言った側が自分の悪意をひとつずつ説明しなければならなくなる。富田さんにも、そこまでの覚悟はなかったらしい。
「もういいわ。せいぜい楽しんでくれば」
 富田さんは話を打ち切り、自分の席へ戻っていった。
「はい! 仕事ですので、楽しむことより成果を優先します。ご指導ありがとうございました!」
 津田は遠ざかる背中へ深く頭を下げた。富田さんの足取りが一瞬だけ乱れたが、津田は気づかず、さっそく出張予定表の余白へ「業務終了後は別行動」「飲酒なし」「十キロ走」と書き込み始めた。

 その日の午後、私は鯖江の工場へ提出する説明資料を作り直していた。試作品が指定と異なる色になった経緯を時系列に並べ、追加費用と納期への影響を確認していると、倉庫から戻ってきた津田が机の脇で足を止めた。段ボール箱を運んできたため暑かったらしく、ワイシャツの袖を肘の下までまくり上げている。柔道を続けていた頃の名残なのか、露出した前腕は太く、手首から肘へ向かって筋肉の線がはっきり浮かんでいた。
「柚木先輩、こちらをどうぞ!」
 津田はコンビニの袋からアイスコーヒーを取り出し、私の机へ置いた。午前中から資料の修正を手伝ってもらった礼だという。私が普段から無糖を選んでいることまで覚えていたらしく、透明なカップの中にはガムシロップもミルクも入っていなかった。
「ありがとう。いくらだった?」
 私が財布を取り出そうとすると、津田は「必要ありません!」と大きく首を振った。
「出張を引き受けていただいたお礼です。それに、僕の資料もかなり直していただきました。コーヒー一杯では足りないくらいです!」
 津田はそう言いながら、自分の分として買ってきたスポーツドリンクの蓋を開けた。腕まくりをしたまま一気に半分ほど飲む姿を眺めていると、斜め後ろから椅子の軋む音がした。
「ずいぶん気が利くのね、津田くん。柚木さんには飲み物まで買ってきてあげるんだ」
 富田さんは椅子の背もたれへ腕を載せ、こちらを見ていた。頼まれてもいない秘密を見つけた人のような笑みを浮かべている。
「はい! 資料を修正していただいたお礼です!」
 津田はアイスコーヒーを買った理由を、先ほど私へ説明したときと同じ調子で繰り返した。
「そう。柚木さんもよかったわね。若い男の子が、自分の好みを覚えて飲み物を買ってきてくれるなんて。腕まくりまでして、ずいぶん張り切ってくれているじゃない。さっきから腕のあたりを見ていたみたいだけど、出張前からそんな調子で大丈夫?」

 富田さんは心配そうに眉尻を下げた。私が見ていたのは津田が机の上に置いたアイスコーヒーだったはずだが、違うと言えば、わざわざ何を見ていたのか弁解することになる。黙っていれば認めたと受け取られることも、これまでのやり取りですでに学んでいた。
「僕の腕まくりは、倉庫で試作品の箱を運んで暑くなったためです!」
 津田は自分の両腕を見下ろし、富田さんの疑問に答えた。
「業務中に不適切であれば、すぐに袖を戻します!」
「別に腕まくりが悪いなんて言ってないでしょう。柚木さんが嬉しそうに見ていたから、若い男の子の身体って、そんなに珍しいのかなと思っただけ。貴方が気にしていないなら、私が口を出すことじゃないけど」
 富田さんはそう言って、私へ視線を戻した。
「ただ、津田くんも気をつけたほうがいいわよ。先輩に飲み物を買ってあげるのが一度で済めばいいけど、こういうのって癖になるから。柚木さんに悪気はなくても、年下の後輩を自分専属のように使っていると周りから思われるかもしれないでしょう。出張先でも荷物を持たせて、食事を探させて、お酒の相手までさせたら、立派なパワーハラスメントよ。若い子はそういうの断りにくいんだから、年上の側が線を引いてあげないと」
 コーヒー一杯から、まだ出発してもいない出張先で私が津田を使役し、酒まで付き合わせる話へ育っていた。富田さんの想像力を正しい方向へ使えば、発注書の色番号も間違えずに済んだのではないかと思う。
「ご心配ありがとうございます! コーヒーは僕が独断で購入しました。柚木先輩から買うよう命じられた事実はありません!」
 津田はまるで軍人のように姿勢を正し、事情を説明した。
「出張中の荷物についても、自分で運ぶ予定です。先程も言いましたが、食事は別行動と決めています。お酒の相手を求められてもお断りします!」
 誰も求めていない予定まで改めて宣言され、営業部のあちこちから視線が集まった。ちらりとそちらを見ると、みんな苦笑していた。だが、津田は注目されている理由を、出張への意気込みが評価されたためだと思っているのか、ますます胸を張った。
「そこまで必死に説明しなくても、誰も二人が付き合っているなんて言ってないでしょう。二人そろってムキになるから、かえって何かあるように見えるのよ」
 富田さんは呆れたように笑った。
「僕はムキになっていません! 事実関係を報告しています!」
 津田が実直な返事を重ねる。
「それに柚木先輩とは交際していません。出張へ同行する先輩です。交際の申し込みを受けた事実も、僕から申し込んだ事実もありません!」
 営業部の空気が完全に止まった。私はこめかみを押さえたくなったが、ここで何か反応を見せれば、富田さんへ新しい材料を与えるだけだった。
「柚木さんも恥ずかしいでしょう。たかがコーヒー一杯のことで、年下の男の子にここまで説明させて。普通なら最初から自分で買うか、少なくとも代金くらい払うものじゃない?」
 富田さんはようやく、私が確実に処理できる問題を提示した。私は財布から小銭を取り出し、津田へ差し出した。
「津田くん、これで足りる?」
 私が尋ねると、津田はレシートを確認した。
「十八円多いです!」
 津田は正確な代金だけを受け取り、残りを私の手のひらへ返した。
「百八十二円、確かに受領しました! これで金銭上の貸し借りはありません!」
 津田は富田さんにも聞こえるよう、はっきり報告した。
「そういう問題じゃないんだけど」
 富田さんは低い声で呟いた。
「失礼しました! ほかに問題があれば対応します!」
 津田は返事を待ちながら、まだ袖をまくったまま直立していた。富田さんはその姿をしばらく見上げていたが、説明しなければ伝わらない嫌味を、これ以上自分の口で解説することには耐えられなかったらしい。「もういいわ」と言って、パソコンの画面へ顔を戻した。
「富田さんは、細かいところまでよく見てくださっていますね!」
 津田は感心したように言い、ようやく自分の席へ戻っていった。私は百八十二円を払ったアイスコーヒーへストローを差した。嫌味と一緒に飲み込むには味が薄い。苦味は口の中に残らず、冷たさだけが喉を通り過ぎていった。

 津田が自分の席へ戻りかけたところで、私は声を潜めて呼び止めた。
「津田くん、わざとなの?」
 私が尋ねると、津田はスポーツドリンクを手にしたまま足を止めた。
「何がですか?」
 彼の眉のあいだに皺が寄った。質問の意味を考えている顔であり、しらばくれているようには見えない。
「富田さんに、ああいう答え方をしたこと。嫌味だとわかったうえで、わざと正論を返していたのかと思って」
「言い返したつもりはありません。質問されたので、事実を答えました。どこか間違っていましたか?」
 津田は不安そうに自分の発言を振り返り始めた。夕食は別行動、飲酒の予定はなく、コーヒーは自分から買った。どれも間違いではない。事実だけを拾って並べた結果、富田さんの嫌味が勝手に身動きを取れなくなったのだ。
「内容は間違ってない。富田さんのあれが全部、私に対する嫌味だったことには気づいてる?」
 私が確かめると、津田の眉間の皺が深くなった。
「全部というのは、どこからどこまでですか?」
「年下の男に舞い上がる女もいる、というあたりから、私が津田くんの腕を見て喜んでいたというところを通って、コーヒー代を払えというところまで」
 私が説明すると、津田は富田さんの席へ視線を向けた。富田さんはこちらへ背を向け、何事もなかったようにパソコンを操作している。
「嫌味だったんですか。僕は、出張中に誤解が生じないよう、考えられる問題を教えてくださっているのだと思っていました」
 津田は本気で驚いているみたいだ。富田さんの言葉から悪意だけをきれいに取り除き、さらにそれを濾過して、残った部分を業務上の注意事項として受け取っていたらしい。これでは嫌味が通じないはずだった。
「それなら、僕の返答で富田さんを不快にさせたかもしれません。説明してきます!」
 津田はスポーツドリンクを机へ置き、富田さんの席へ向かおうとした。私はとっさに、まだまくられたままのワイシャツの袖を掴んだ。布地の下で腕が引っ張られて、津田が不思議そうに振り返った。
「行かなくていい。説明したら、もっと面倒なことになるから」
 私が止めると、津田は納得できない様子で立ち尽くした。
「では、次からはどう答えればいいですか?」
「今までどおり、聞かれたことに正直に答えて」
「それでいいんですか?」
「たぶん、それが富田さんにはいちばん効くから」
 私が答えると、津田は意味を理解しきれないまま、それでも指示として受け取ったらしく、「承知しました!」と頷いた。
「それと、富田さんにもアイスコーヒーを買えば公平でしょうか?」

 津田は新たに思いついた対応策を、真剣な顔で提案した。
「それだけはやめて」
 私が即答すると、津田はもう一度「承知しました!」と返し、ようやく自分の席へ戻っていった。私は嫌味が通じないというだけで、人はこれほど頑丈になれるのかと感心した。

2

 出張当日、新横浜駅の改札前に着くと、津田はすでに待っていた。約束の時刻より二十分も早い。紺色のスーツに四角い出張鞄を提げ、試作品の入ったケースまで足元へ揃えている姿は、駅で列車を待つ会社員というより、遠征に出発するスポーツ選手のようにみえた。

「おはようございます! 本日はよろしくお願いいたします!」
 津田は朝の改札口にも遠慮しない声で挨拶し、深く頭を下げた。周囲にいた何人かが何事かと振り返ったが、本人は気づいていない。私がもう少し声を抑えるよう頼むと、津田は「承知しました」と囁き、その囁きさえ普通の普通の会話ほどの音量だった。

 発車時刻まで二十分ほどあったため、私たちは改札内の売店へ寄った。飲み物だけ買ってホームへ向かうつもりだったが、駅弁の並ぶ一角へ差しかかった途端、先を歩いていた津田の足が止まった。
「先輩、すごいです。こんなに種類があります!」
 津田は売店の棚を見渡し、試作品のケースを足元へ慎重に置いた。焼売の入った定番の弁当、照りのある牛肉を御飯へ敷き詰めたもの、色とりどりの料理を小さな区画へ収めた幕の内。視線を右から左へ動かすたびに候補が増えていくらしく、一つを手に取っては戻し、別の一つを持ち上げて裏面まで確かめていた。
「横浜から出発するなら、やはり焼売でしょうか。こっちは牛肉の量が多いです。煮物も入っていますね。出張中も栄養が偏らないようにしなければなりませんし、魚も捨てがたいです」
 津田は私の隣で、誰に相談するでもなく、それぞれの長所を声に出して整理した。仕事なら目的と条件を確認して候補を絞り込む男が、駅弁を前にした途端、すべての長所を認めて決断できなくなっている。
「好きなものを選べばいいんじゃない?」
 私が言うと、津田は三つの弁当を順番に見比べた。
「全部好きなので困っています!」
 津田は困っているとは思えないほど嬉しそうに答えた。そのまま棚の前へしゃがみ込み、下段に並んだ弁当まで確認し始めた。新しい商品を見つけるたびに「こちらには鶏の照り焼きも入っています」「この御飯は味つきです」と報告するので、私まで売店の商品に詳しくなっていく。
「ふたつ買えば?」
 私が半分冗談で勧めると、津田は一瞬だけ真剣に考え、発車案内の時刻を確認した。
「では、ひとつは今から乗る新幹線で食べて、もうひとつは乗り換えたあとに食べられますね」
「午後は謝りに行くんだよ。満腹で眠くなったら困るでしょう」
「危ないところでした。駅弁の魅力に負けて、出張の目的を見失うところでした」
 津田は素直に反省し、二つ持っていた弁当の片方を棚へ戻した。それでも残ったひとつを両手で持つ顔には、重要な選択をやり遂げた満足感が浮かんでいる。最終的に選んだのは、焼売と焼き魚、唐揚げ、筍の煮物が一つに収まった弁当だった。

「いろいろ入っているので、最初の駅弁にはこれがいいと思います。出張へ行くときに新幹線で駅弁を食べるの、一度やってみたかったんです」
 津田は弁当を買い物籠へ入れ、もう一度棚を振り返った。選ばなかった弁当に未練はあるらしいが、それ以上に、これから自分が列車の中で駅弁を食べるという事実が嬉しくて仕方がないようだった。レジで会計を済ませると、受け取った袋を試作品のケースと同じくらい丁寧に持ち、足取りまで出勤時より軽くなった。
 私も、すぐに売り切れるという、その弁当を買いたくなったが、富田さんから食べ物のことになると周りが見えなくなると、不名誉な評価を貰ったことを思い出した。後輩と一緒になって駅弁にはしゃいでいると思われたくないという、誰に見せるでもない見栄が働き、私はたまごとハムのサンドイッチ、それから無糖のコーヒーだけを買った。
「先輩は駅弁にしないんですか?」
「朝は軽く済ませることにしてるから」
 私は出張慣れした先輩らしい顔で答えた。休日なら朝から丼飯を食べられることは、わざわざ言う必要もないだろう。

 列車が駅を離れて間もなく、津田は待ちかねていたように駅弁の袋を開けた。膝の上へ弁当を載せ、包装紙を破らないよう丁寧に外してから、蓋を持ち上げる。焼売、焼き魚、唐揚げ、蒲鉾、筍の煮物が隙間なく並んだ中身を見て、津田の顔が目に見えて明るくなった。
「写真より豪華です。御飯にも胡麻がかかっています!」
 津田は誰に頼まれたわけでもないのに、弁当の出来栄えを私へ報告した。私はサンドイッチの包装を剥がしながら、ふと思いついて尋ねた。
「津田くんは、富田さんのことをどう思ってる?」
 津田は焼売を箸で持ち上げたまま、きょとんとした顔でこちらを見た。
「仕事に厳しく、細かいところまで気づく方だと思っています」
「好意的だね」
 私が呟くと、津田は質問の意図がわからないらしく、首を傾げてから焼売を口へ入れた。しばらく噛み、満足そうに頷いている。私が数年間かけて蓄積してきた富田さんへの不満より、今は焼売の味を理解することのほうが重要らしい。
「津田くんは入社して二年だから、まだ知らないんだよ。あの人、自分のことをサバサバしてると言うわりに、一度気に入らないことがあると何年でも覚えてるから。私が一昨年の会議資料で数字を一つ間違えたことも、いまだに関係のない席で持ち出すし、自分の発注ミスは認めても、結局謝りに行くのは私たちでしょう」
 私は富田さんがこれまでにしてきたことを、思いつくまま並べた。終業間際になって急ぎではない仕事を渡し、「若い人は作業が早くて羨ましい」と残業を押しつける。自分が提案した企画が失敗すれば、会議で誰も反対しなかったせいにする。後輩へ意見を求めておきながら、自分と違う答えが返ってくると、社会人としての経験が足りないと切り捨てる。その一方で、面倒な仕事を頼むときだけは、若い感覚を信頼していると言いだす。
 津田は話の途中で唐揚げを食べ、焼き魚の骨を丁寧に外し、筍の煮物を口へ運んだ。聞き流している様子ではなく、私が言葉を切るたびに頷いているのだが、表情には怒りも呆れも浮かんでいない。
「富田さんは記憶力がいいんですね」
 津田は感心したように言った。
「それ、皮肉にしか聞こえないよ」
「失礼しました。では、あの人は嫌なことだけを選んで覚えているという意味ですか?」
「そう。しかも、本人はそれを根に持っているとは絶対に認めない。私が何か言い返せば、冗談が通じないとか、図星だから怒るんだとか言われる。黙っていればそれを認めたことにされるし、どう答えても向こうの都合のいい結論になるんだよ」

 私はいつの間にか、たまごサンドを持ったまま本格的な愚痴を聞かせていた。仕事へ向かう列車の中で後輩に同僚の悪口を並べる姿は、富田さんが言っていた「後輩の前でいいところを見せたがる先輩」からも、ずいぶんかけ離れている。
「それは、会話をする目的がわかりません」
 津田は箸を止め、心底不思議そうに眉を寄せた。
「相手の答えに関係なく結論が決まっているなら、質問をする必要がないと思います。最初から結論だけを伝えたほうが早いです」
「嫌味って、効率のために言うものじゃないからね」
「では、何のために言うんですか?」
 津田は純粋に答えを求めていた。焼売を選ぶときより真剣な目で見つめられ、私は返事に困った。相手を不快にさせるため、優位に立つため、自分の失敗から目を逸らすため。どれを答えても、津田には理解できない気がした。
「とにかく、富田さんは自分の失敗を私たちへ押しつけたうえで、出張を楽しむな、津田くんに色目を使うな、勝手な約束をするなって、私がこれから問題を起こす前提で話してたでしょう。津田くんも土俵に立たされて、あれだけ言われて、腹が立たなかったの?」
 私が尋ねると、津田はもうひとつ焼売を口へ運び、よく噛んでから答えた。
「注意事項を確認してくださったのだと思っていました」
「本当に?」
「はい。柚木先輩の部屋へ入らないことも、食事を別にすることも、事前に決めておけば問題は起こりません。値引きや納期についても、会社へ確認せず約束しなければ済みます」
「でも、今回の商談がうまくいったら、富田さんは自分が事前に注意しておいたおかげだと言うと思うよ。失敗したら、私が忠告を聞かなかったからだと言うだろうし」
 私が最後の不満を口にすると、津田は箸を止め、またきょとんとした顔になった。
「富田さんは出張に来ないので、商談を成功させることはできません」
 津田は当たり前の事実を答え、残っていた焼き魚を口へ運んだ。富田さんなら、その場にいなくても功績だけを受け取る方法はいくらでも思いつくだろう。津田には、そこまで説明しても理解できそうになかった。
「先輩、食べないんですか?」
 津田は私の手元へ視線を落とした。愚痴をこぼしているうちに、たまごサンドを持ったまま長い時間が経っていた。
「食べるよ」
 私が答えてサンドイッチへ齧りつくと、津田は安心したように頷き、筍の煮物を一つ口へ入れた。愚痴を聞かされたあとの顔とは思えないほど、嬉しそうに噛んでいる。富田さんへの不満は少しも共有されなかったが、口に出したぶんだけ、胸の中にずっと溜まっていたものは軽くなっていた。

 津田は最後の焼売を箸で摘まみかけ、何かに気づいたように手を止めた。
「おれ、たぶん、嫌味を嫌味のまま聞かなくなったんだと思います」
 それまで一度も聞いたことのない一人称が、津田の口からこぼれた。本人もすぐに気づいたらしく、焼売を箸で挟んだまま一度咳払いをした。
「すみません。学生時代のことを考えると、たまに出ます。僕は大学まで柔道部だったんですが、一年の頃は先輩たちに散々扱かれました」
 津田は焼売を弁当へ戻し、空いた手で坊主頭を撫でた。楽しかった思い出を語るときの顔ではなかったが、つらかったと訴える様子もない。ずっと前に終わった練習内容を報告するときのような声だった。
「朝は五時から走って、授業のあとに通常の稽古をして、その後は一年だけ残されました。打ち込みを何百本やったか覚えていません。腕が上がらなくなっても、先輩から終わりと言われるまでは続けました。倒れれば『寝られて羨ましい』と言われ、立ち上がれば『最初からその根性を見せろ』と言われました。大きな声で返事をすると『返事だけなら日本一だ』、声が小さくなると『やる気がないなら帰れ』です。何をしても、次に言われることはだいたい決まっていました」
 列車の振動に合わせ、弁当の中の筍が小さく揺れていた。津田が駅弁を選んでいたときの明るさは、いつの間にか顔から消えている。
「帰れと言われて、本当に帰ったことはあるの?」
 私が尋ねると、津田は首を横に振った。
「一度だけ帰ろうとした同期が、次の日から稽古に入れてもらえなくなりました。だから帰れは、帰っていいという意味ではありません。『まだ残っていろ』という意味です。休めと言われても休めませんし、好きにしろと言われても好きにはできませんでした」
「それはもう、言葉として壊れてるよ」
 私が言うと、津田は少し考えてから頷いた。
「そうかもしれません。ただ、当時はひとつずつ意味を考えていたら身体が持ちませんでした。頭が悪いと言われたら、説明された技をもう一度確認する。鈍いと言われたら、誰より早く動く。邪魔だと言われたら、掃除や道具の準備を探す。言い方の中にある悪意は捨てて、いま自分が何をすればいいのかだけを考えるになりました。そのほうが楽だったんです」
 津田は、嫌味に気づかないのではなかった。気づくより先に、役に立たない部分として切り捨てる癖がついているのだ。富田さんの言葉からも、年下の男に舞い上がる女という棘は捨て、食事は別にする、酒は飲まない、勝手な約束はしないという注意事項だけを拾い上げていた。
「その先輩たちからの扱きが正しかったとは思ってないよね?」
 私が念を押すと、津田は今度は迷わず頷いた。
「はい。強くなるために必要だった稽古と、先輩たちの機嫌を取るためだけの扱きは、別のものだったと思います。僕たちが三年になってからは、後輩を残してやらせる練習も、意味のない雑用もやめました。反発したやつとは何度も揉めましたが、試合で結果を出して、文句は言わせませんでした」
 最後の一言だけ、いつもの熱が声へ乗った。耐えることしか知らないわけではない。自分が受けたものを次の人間へ渡さないために、津田なりに闘ってきたのだろう。そして一度身についた他人が放つ言葉の捉え方は、会社員になった今も身体の中へ残っている。
「だから富田さんの話も、注意事項を教えてくださっているのだと思いました。学生時代の先輩たちと比べれば、声も穏やかでしたし、走らされたわけでもありません」
「比較する相手が悪すぎるよ」
 私が答えると、津田はまた少し考えた。
「では、嫌味だと気づいたときは、どうすればいいですか? 僕、これからの富田さんの言葉はすべて嫌味だと思ってしまいそうです」
「全部聞かなくていい。役に立つところを無理に探す必要もないし、自分が悪いのかもしれないと思う必要もない。意味のない言葉は、意味のないまま捨てればいいよ」
 私が言うと、津田はしばらく黙っていた。やがて、仕事上の大事な指示を記憶するときと同じ真剣な顔で頷いた。
「覚えておきます」
 津田は弁当へ戻していた焼売を、今度こそ口へ入れた。噛んでいるうちに表情が少しずつ明るくなり、続いて筍の煮物を摘まみ上げる。
「この筍、味がよく染みています。やっぱり先輩も駅弁にすればよかったのに」
 津田はすっかりいつもの声へ戻っていた。私は手元に残った薄いサンドイッチを見下ろし、津田の言葉に心の中で同調した。

「人の悪意も、試合で相手を投げたときみたいに、ぶっとばせたらいいのに」

 津田は空になった弁当箱を見下ろし、誰へ向けるでもなくぼやいた。普段の張りのある声ではなく、届く先のない言葉を口から転がしたような響きだった。
「試合なら、投げた手応えがあります。相手が畳へ落ちて、審判が一本を取れば、そこで終わります。負けても勝っても礼をして、畳から下りれば感情を引きずる必要はありません。でも、悪意には審判も終了の合図もないから、どこまで受ければ終わるのかわかりません」
 津田は大きな手を一度握り、すぐに開いた。本当に誰かを投げたいわけではない。ただ、形のないものへ自分の身体が通用しないことを、もどかしく思っているのだろう。
「ぶっとばせないなら、受け取らないようにするしかないね。それでも残ったぶんは、おいしいものでも食べて忘れる」
 私が言うと、津田は私の手元に残ったサンドイッチへ視線を落とした。
「でも、その方法を採用するなら、先輩の食事は明らかに足りませんね!」
 津田は真剣な顔で指摘した。私も同じことを考えていたから、ふっと笑みがこぼれてしまった。

3

 鯖江駅から工場までは、タクシーで十五分ほどだった。案内された応接室の窓から製造現場の一部が見え、白い作業着を着た職人たちが、細いフレームを手に黙々と作業している。一本の眼鏡へ費やされる時間を目の前にすると、発注書の数字一つで二十本を使えないものにした責任が、会社という曖昧な単位ではなく、確かな実感を持って私たち迫ってきた。
 テーブルには、色を間違えて仕上がった試作品が並べられていた。指定していたのは青みがかった薄い灰色だったが、完成品は濃い琥珀色をしている。形そのものに問題はなく、丁寧に磨かれた表面には曇り一つない。間違っているのは色だけであり、その色も単独で見れば、失敗作と呼ぶには惜しい仕上がりだった。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。こ、このたびは、弊社の発注書における色番号の入力、入力の誤りにより、多大なご迷惑をおかけしました!」
 津田は席を立ち、腰から深く頭を下げた。勢いがつきすぎたらしく、額がテーブルへ触れそうになり、工場長の牧野さんがわずかに身を引いた。
「工場では、弊社が指定した内容に従って、正しく製造していただいています。今回の件について、御社に非はありません。誠に申し訳ありませんでした!」
 津田は頭を下げたまま、一息で言い切った。練習してきた言葉を間違えまいとするあまり、声がいつも以上に大きい。向かいに座る営業担当の川端さんは驚いて目を瞬かせたが、津田の謝罪に言い逃れが含まれていないことは伝わったらしく、硬かった表情を少しだけ緩めた。
「まず座ってください。話はそれからにしましょう」
 牧野さんが着席を促すと、津田は「失礼しました!」と答え、今度は膝をテーブルの裏へぶつけないよう慎重に椅子へ戻った。
「弊社の入力ミスで生じた材料費と加工費は、全額こちらで負担します」
 私は部長の決裁を受けた費用負担確認書を、牧野さんと川端さんの前へ一部ずつ置いた。富田さんは「そこまで準備しなくても、行って謝れば何とかなる」と言っていたが、謝罪だけで工場の損失が消えるはずはない。出張が決まった日に経理と商品企画へ掛け合い、再試作に必要な費用の上限と、納期がずれた場合の販売計画まで確認してきた。
「そのうえで、正しい色の試作品を五本だけ先行して作っていただけないか、ご相談に参りました。二十本すべてを一度に作り直していただく必要はありません。五本の仕上がりを弊社で確認したあと、量産分と残りの試作品を同じ工程へ組み込んでいただければ、作業を分ける回数も減らせると思います」

 私が工程表を広げると、津田も用意してきた資料を取り出した。正しい色の材料がいつ入荷するか、五本を先行する場合にどの工程へ影響が出るか、工場側とのやり取りをもとにまとめたものだった。
「こ、こちらが再試作に必要な材料と工程です。現在の生産予定を動かさず、空いている時間へ五本を組み込める日を、川端さんから事前に教えていただきました。ただし、これは仮の日程です。正式には、本日ご相談したうえで決めたいと考えています!」
 津田の説明はたどたどしいが、数字と工程に入ると迷いがなくなった。川端さんは資料を受け取り、記載された内容をひとつずつ確かめた。
「よく調べてありますね。ただ、五本を先に作るとしても、当初の納期には間に合いません。ほかの取引先の仕事を後ろへずらすこともできませんから」
 牧野さんは念を押した。
「承知しています。こちらの都合で工程を詰めていただくつもりはありません」
 私は販売開始日を一週間後ろへ動かした予定表を提示した。広告の入稿と展示会用の見本だけは、五本のうち二本があれば進められる。残りは量産品の完成後でも間に合うよう、社内の計画を組み直していた。
「十営業日で五本を仕上げていただければ、販売への影響は最小限に抑えられます。それ以上かかる場合も、御社の可能な日程に合わせます。今回は、こちらがお願いする側です」
 私が伝えると、牧野さんは工程表と費用負担確認書を見比べた。謝罪に来た会社が納期だけは守れと迫ってくる事態を警戒していたのだろう。予定を押しつけるつもりがないとわかり、腕組みがほどけた。
「そこまで話がついているなら、五本を先に作ることはできます。材料が入る日も、今の予定から動かないでしょう」
 牧野さんは川端さんと日程を確認し、十営業日後に五本を完成させることで了承してくれた。最も大きな問題は片づいたが、テーブルには濃い琥珀色のフレームが二十本残っている。費用を負担すれば済むとしても、職人が仕上げたものを箱へ戻し、そのまま処分することには抵抗があった。
「一本、掛けてみてもいいですか?」
 私が尋ねると、牧野さんは「どうぞ」とフレームを差し出した。レンズの入っていない試作品を掛け、室内の鏡で確認する。企画時に想定していた涼しげな印象とは異なり、琥珀色は肌へ自然に馴染み、顔立ちを柔らかく見せた。
「この色を、失敗した二十本として処分するのではなく、追加色の候補として持ち帰らせてください」
 私が提案すると、牧野さんは眉を上げた。
「これを商品にするんですか?」
「社内の商品企画を通す必要はあります。ただ、前のモデルでは茶系のフレームが最も早く完売しました。今回は灰色で印象を変える方針だったため候補から外れましたが、この琥珀色なら、灰色とは別の客層へ提案できます。二十本は販売せず、店舗と営業担当者への見本として使います。追加色として承認された場合は、改めて正しい色名と番号で発注します。承認されなかった場合の費用と処分も、すべて弊社で負担します」
 私は持参した前モデルの販売資料を開き、色別の実績を示した。出張が決まったあと、琥珀色に近い商品を過去の記録から探しておいた。現物を見るまでは確信が持てなかったが、仕上がった色は資料にあるものより透明感があり、売り場でも十分に目を引く。
「女性向けとして企画した形ですよね。男性にも合うと思いますか?」
 川端さんはフレームを眺めながら尋ねた。
 私は向かいに座る津田へ目を向けた。小柄に近い中背ながら、首と肩が鍛えられ、坊主頭とキリッとした眉のせいか、顔の輪郭がはっきりしている。私とは印象が大きく違うため、試す相手としては都合がよかった。

「津田くん、掛けてみてくれる?」
 私が頼むと、津田は「はい!」と返事をし、両手でフレームを受け取った。琥珀色が濃い眉と坊主頭のあいだへ収まると、輪郭の強さを残したまま、表情だけが少し柔らかく見えた。女性向けに限定するより、顔幅の合う人へ広く提案したほうがよさそうだった。
「悪くないな。若い男性でもいけそうだ」
 牧野さんは津田の顔を正面と横から眺め、満足そうに頷いた。そのまま津田の首元と、スーツ越しにも張りのわかる肩へ視線を移した。
「ところで君は、やけに体格がいいが、何かやっているのか?」
 牧野さんが尋ねると、津田は眼鏡を掛けたまま背筋を伸ばした。
「はい! 大学まで柔道をやっていました。階級は六十六キロ級です。卒業後も週に二回は道場へ通い、行けない日は走るか、自宅で筋力トレーニングをしています!」
「それで、その姿勢と坊主頭か」
 牧野さんは納得したように笑った。
「髪は卒業後に伸ばしてみたこともありますが、洗う時間と乾かす時間がかかり、寝癖を直す必要もあります。鍛錬と睡眠の妨げになるため、坊主へ戻しました!」
 津田は大真面目に説明した。髪を伸ばすという行為を、生活効率を下げる不合理な選択として処理しているらしい。牧野さんと川端さんが笑い、応接室に残っていた緊張がようやく消えた。
「津田くん、そのまま正面を向いて。資料用に一枚撮ってもいい?」
 私がスマートフォンを取り出すと、津田は「もちろんです!」と答え、証明写真を撮るときのように顎を引いた。表情が硬すぎたため、先ほど駅弁を選んでいたときの顔を思い出すよう伝えると、口元が自然に緩んだ。琥珀色のフレームにも、その笑顔のほうがよく似合った。
「この写真と販売実績を使って、帰社後すぐに追加色を提案します。企画会議へ上げる資料は私が作ります」
 私が牧野さんへ伝えると、彼はテーブルに並んだ二十本を見渡した。
「そこまで使い道を考えてくれるなら、作った側としてもありがたい。番号を間違えたことは褒められませんが、出来上がったものに罪はありませんから」
「はい。間違いをなかったことにはできませんが、間違いからできたものまで無駄にする必要はないと思います」
 私は再試作の日程、追加費用の負担、琥珀色二十本の取り扱いを文書へまとめ、その場で双方の認識を確認した。津田は新しい発注書の様式を示し、色番号だけでなく見本板の画像と名称を添付し、入力者とは別の社員が照合する方法を説明した。途中で何度か言葉を噛んだものの、間違いを繰り返さないために準備してきたことは、工場側にも十分伝わった。
「最初から責任を押しつけるつもりがないとわかれば、こちらも次の話ができます。今日は来てもらってよかった」
 牧野さんは書類を揃えながら、私たちへ言った。
「ありがとうございます! 次は絶対に正しい番号で発注します!」
 津田は立ち上がり、また額がテーブルへ届きそうな勢いで頭を下げた。牧野さんは笑いながら、三回確認すれば十分だと付け加えた。
 謝罪から始まった商談は、正しい色での再試作と、誤って完成した琥珀色の活用という二つの方向へ無事に進んだ。津田の不器用な誠実さが相手の警戒を解き、私が用意した条件と提案が、解けた話を次の仕事へ結び直した。どちらか一人だけでは、ここまできれいにはまとまらなかっただろう。

 工場を出て門の前まで来ると、津田は振り返り、建物へ向かってもう一度深く頭を下げた。
「先輩、二十本を全部救いましたね!」
「まだ企画会議を通してない。救えるかどうかは、これからだよ」
 私が答えると、津田は「それなら、帰ったあとも全力で手伝います!」と親指を立ててみせた。 
 そのとき、津田の宣言を遮るように、鞄の中でスマートフォンが震えた。画面には富田さんの名前が表示されている。会社には工場を出てから報告するつもりだったが、向こうは待ちきれなかったらしい。
「ずいぶん時間がかかったのね。連絡がないから、謝り方を間違えて先方を余計に怒らせたんじゃないかと思っていたの。津田くんまで巻き込んで、二人で黙り込んでいるのかしらって心配してたところ」
 電話に出るなり、富田さんは私が失敗した場合の筋書きを一通り聞かせてくれた。第一声が商談の結果ではなく、連絡の遅さへの非難であるあたり、心配の向いている先が工場でも会社でもないことはよくわかった。
「話はまとまりました。正しい色は五本を先行して再試作してもらい、十営業日後に確認します。追加費用は事前の決裁どおり弊社で負担します。残りは量産工程へ組み込むため、販売開始の遅れは一週間程度で収まる見込みです」
 私が報告すると、電話の向こうで短い沈黙があった。富田さんが期待していた答えとは違ったらしい。
「そう。向こうが大人な会社でよかったわね。私が行かなくても、ずいぶん親切にしてもらえたみたいじゃない」
 富田さんは、報告を聞くなり、工場側が私たちを哀れんで譲歩してくれたという形に、自分の筋書きを整え直した。
「工場側に一方的な負担はお願いしていません。材料費と加工費はこちらで負担し、先方の生産予定を動かさない日程で合意しました」
「そこまで細かく説明しなくてもわかるわよ。別に柚木さんが何もしていないなんて言ってないでしょう。うまくいったなら、それでいいの。ただ、後輩の前でいいところを見せようとして、必要以上の条件を引き受けていないか確認したかっただけ」
 必要以上の条件を引き受けるなと言った直後に、細かい条件は聞いていないと言う。富田さんの会話は、進もうとするたびに床板が一枚ずつ後ろへ滑っていくみたいだ。
「それから、色を間違えた二十本はどうするの? まさか、全部廃棄することにしたんじゃないでしょうね。そこまで費用が増えたら、柚木さんだけの判断では済まないと思うけど」
「琥珀色を追加色として企画会議へ提案します。前モデルの販売実績も確認しました。承認されれば二十本は店舗と営業用の見本として活用できます。承認されなかった場合の費用負担についても、部長と商品企画へ確認済みです」
 私が答えると、また短い沈黙が流れた。
「……勝手に新色を増やす話までしてきたの?」
 富田さんの声が一段低くなった。
「工場側へ採用を約束してはいません。社内で検討するため、二十本を持ち帰ることだけ了承してもらいました。追加色として正式に発注する場合は、改めて正しい名称と番号を設定します」
「そういうの、話を大きくしたがる人の典型よね。今回は謝罪に行っただけなのに、商品企画へまで口を出して、仕事ができるところを津田くんに見せたかったのかもしれないけど。企画会議で通らなかったら、先方にも期待させただけになるでしょう」
 工場側へ期待させないため、採用を約束していないと説明した直後だった。電話越しでは、こちらの言葉が富田さんの耳へ届くまでに、ずいぶん形を変えるらしい。
「企画会議へ提出する資料には、検討段階であることを明記します。工場側にも同じ内容を伝え、了承を得ています」

「はいはい。そこまで準備したなら、私が何を言っても聞かないでしょうから、好きにすればいいんじゃない?」
 自分から確認の電話をかけてきた人が、最終的には私が話を聞かないという理由で会話を投げた。ところが、富田さんはそれで電話を切らなかった。
「まあ、その琥珀色が売れたら、結果的には私が番号を間違えたおかげでもあるのよね。間違いから新しい商品が生まれることだってあるし、何でも失敗として責めればいいわけじゃないでしょう。報告書には、そのあたりも公平に書いておいてね」
 富田さんの理屈では、自分の発注ミスでできた色を私が新商品として売れる形にしたら、その新商品を生み出したのは彼女ということになるらしい。
「発注書へ誤った色番号が入力されたこと、それにより琥珀色の試作品が二十本完成したこと、その二十本を追加色として検討することを、時系列どおり記載します」
 私が答えると、富田さんは不満そうに息を吐いた。
「本当に融通が利かないわね。誰の責任かをはっきり書くことだけが仕事じゃないでしょう。社内の人間関係まで悪くして、それが功績になるのなら、あなたはそれで満足なのかもしれないけど」
 富田さんはそう言って、ふいに話題を変えた。いまのままでは私をチクチク刺せないと考えたのかもしれない。
「それで、これから二人で食事でもするの? 商談がうまくいって気分がいいのはわかるけど、祝杯なんて言って飲みすぎないでね。工場の人にどこで見られているかわからないし、ホテルへ戻ってまで仕事の続きをする必要もないでしょう。私は二人を疑っているわけじゃないけど、誤解される行動は避けたほうがいいと思う」
「出張前にお伝えしたように、業務終了後は別行動です」
 私が事実を答えると、富田さんは「そんなにムキにならなくても」と呆れた声を出した。「商談内容をまとめた議事録は、先ほど部長、商品企画、富田さんへ送信しました。工場側にも同じものを送り、相違がないことを確認してもらいます。追加や訂正がある場合は、全員を宛先に入れたまま返信してください」
 私が伝えると、電話の向こうからキーボードを操作する音が聞こえた。やがて、議事録を開いたらしく、富田さんが小さく舌を鳴らした。
「仕事だけは早いのね。年下の男の子が一緒だと、いつもより張り切れるのかしら」
「訂正がなければ、この内容で出張報告書を作成します」
 私が答えると、富田さんは「好きにすれば」と言い残し、電話を切った。画面が暗くなるのを待ってから顔を上げると、津田が数歩離れたところで姿勢よく立っていた。通話の内容までは聞こえなかったはずだが、報告が終わるまで待っていたらしい。
「富田さんも、商談がまとまったことを喜んでいましたか?」
 津田は期待に満ちた顔で尋ねた。
「そう聞こえる部分が、一つでもあった?」
 私が聞き返すと、津田は困ったように眉を寄せた。
「電話の声は聞こえませんでした。ただ、確認のお電話をくださったということは、結果を気にかけていたのだと思います!」
 私はため息をこらえて、なにも言わずにスマートフォンを鞄へ戻し、工場の門から駅へ続く道へ向き直った。富田さんの悪意は投げ飛ばせなかったが、議事録という畳の上へ事実だけを残すことはできた。あとは腹に残っている空白を、何で埋めるかだった。
「打ち合わせが長いから失敗したと思った。まとまったと聞けば、先方が親切だっただけ。私が用意した資料で追加色を提案したのは、後輩の前でいいところを見せたかったから。売れたら、富田さんが色番号を間違えたおかげだから、報告書には彼女の功績として書け。あとは、若い男と一緒だと仕事が早い、今夜は二人で祝杯を上げて、そのまま仲良くホテルへ戻るんでしょう、だって」

 私は富田さんから浴びせられた言葉を、覚えている限りそのまま並べた。津田は途中から眉間に皺を寄せていた。
「おれが、あの局ババアに直接言ってやりますよ。自分の尻拭いを先輩にさせておいて、何様のつもりなんだって」
 彼は勢いのまま言い切り、そして突然口をつぐんだ。自分の口から衝動的に飛び出した罵倒を、一拍遅れて理解したらしい。耳から剃り上げた頭のきわまで、一気に赤くなっていく。
「……申し訳ありません。今の発言は忘れてください」
「『おれ』のほう?」
「局ババアのほうです! いえ、『おれ』もです。両方とも撤回します!」
 津田は慌ててスマートフォンをしまい、鞄を抱えたまま深々と頭を下げた。大学柔道部の先輩たちについて話したときにも一度だけ素が漏れたが、今回は一人称だけでは済まなかった。
「忘れない。かなり的確だったから」
「的確でも、口に出してはいけない言葉があります!」
 津田は自分を戒めるように言ったあと、どうしても納得できないらしく、再び眉間へ皺を寄せた。
「ただ、本当に意味がわかりません。失敗すれば柚木先輩の責任で、成功すれば富田さんの功績になるんですか。僕の前できちんと仕事をしたら、格好をつけたことになるんですか。食事が別でも、同じホテルへ戻るだけで何かあることにされるんですか。そんなの、試合の途中で相手にだけ都合よくルールが変わるようなものです!」
 津田は指を折ってひとつずつ確かめるうちに、ますます混乱していった。『純朴』という言葉がよく似合う彼も、流石に矛盾が四方から押し寄せてくれば処理しきれないのだろう。
「僕から事実関係を説明します」
「やめておきなさい。あなたが事実を十個並べたら、富田さんはそれを材料に十一個目の嫌味を作るから」
「では、どうすればいいんですか。あのつぼ……富田さんを、このままにしておくんですか」
 津田は危うく二度目の局ババアを口にしかけ、言葉を奥歯で噛み潰した。普段なら大声で返事をし、どんな理不尽にも正面から取り組もうとする顔に、今は呆れと腹立ちが半分ずつ浮かんでいる。
「自分が間違えたのに、先輩がうまく処理したら自分の手柄にするなんて、卑怯じゃないですか。それに、仕事の話へ関係のないことまで持ち込んで先輩を侮辱するのは、さすがに聞き流せません。人の悪意は投げられないと思っていましたが、今の話は投げる以前に、どこを掴めばいいのかもわかりません!」
「何もしなくていいよ。聞いてもらったら、だいぶ楽になった」
「それなら、いくらでも聞きます。ただし、さっきの発言だけは社外秘でお願いします!」
 津田は両手を太腿へつけ、もう一度きっちり頭を下げた。富田さんへの腹立ちは少しも正当化されていないのに、私はとうとう笑ってしまった。嫌味を嫌味と受け取らない津田に「あの局ババア」とまで言わせたのだから、私の感じた不快さは間違っていなかったのだろう。



 ホテルへ戻ってチェックインを済ませると、津田はかねての宣言どおり走りに出た。部屋へ荷物を置いてから五分も経たないうちに、黒いTシャツとハーフパンツへ着替え、首にタオルをかけてロビーへ戻ってきた。
「それでは、走ってきます! 柚木先輩、夜はちゃんと食べてくださいね!」
 津田は出張先とは思えない勢いで自動ドアを抜け、暮れかけた街へ駆け出していった。私の夕食まで心配できるのなら、富田さんにかき乱された感情からは立ち直ったらしい。大きく振られる腕と坊主頭が通りの向こうへ消えるまで見送り、私はエレベーターで自分の部屋へ上がった。
 ジャケットを脱いでベッドへ腰を下ろした途端、それまで身体を支えていたものが抜けた。取引先で失敗の経緯を説明しているあいだも、先方の反応を見ながら提案を組み立てているあいだも、自分が疲れているとは思わなかった。仕事中の疲労は、机の引き出しへ押し込んだ書類に似ている。見えない場所へ入れておけば片づいた気になれるが、消えてなくなったわけではない。靴を脱いだ足の裏がじんじんと熱を持ち、肩には鞄の持ち手の幅に沿って鈍い痛みが残っていた。
 同時に、空腹も一気に戻ってきた。昼に食べたサンドイッチは、とうに胃の底から姿を消している。新幹線の車内で津田が駅弁を嬉しそうに広げたとき、私も同じものを買えばよかったのだ。年下の男性社員の隣で豪華な弁当を頬張ることに、なぜあれほど抵抗を感じたのか、今となっては自分でもよくわからない。
 このまま部屋にいれば、近くのコンビニで何かを買って済ませてしまいそうだった。私は再び靴を履き、駅前へ向かった。店を調べてから出たわけではない。出張前から頭の中を泳ぎ続けている鯖を、今夜こそ捕まえてやろうと思った。

 駅前から一本入った通りに、鯖寿司と染め抜かれた白い暖簾が出ていた。看板の上では、青い背をした鯖が丸々と太った腹を見せている。今日一日の経緯を考えると、ここで立ち止まらないほうが不自然に思えた。引き戸を開けると、焼いた魚の匂いが、外の冷えた空気を押しのけるように流れてきた。
 店内には六席ほどのカウンターと、小さな二人掛けの卓が三つあった。夕食時にはまだ少し早く、先客はカウンターの端で日本酒を飲んでいる男性だけだった。私はその人から二席空けた場所へ座り、品書きを開いた。目当ての焼き鯖寿司は一番上に書かれており、その横には一本と半本の二種類があった。
「焼き鯖寿司をお願いします」
「一本は八切れありますよ。お一人なら、半分にもできます」
「一本でお願いします」
 店主の気遣いに逆らいたかったわけではない。ただ、今日は半分にする理由がなかった。なにより胃が捩れるような空腹に耐えてきたのだ。自分が食べたい量を、自分の腹具合だけで決められることが、ひどく贅沢に感じられた。
 注文を受けてから鯖を焼き始めたらしく、ほどなくして脂の弾ける音が聞こえてきた。炭火ではないようだったが、皮の焼ける香りは次第に濃くなり、酢飯の甘酸っぱい匂いと混じりながらカウンターの内側から漂ってくる。こみ上げてくる唾液を呑み込むたびに、喉の奥まで小さく鳴った。調理の様子を露骨に覗き込むのも恥ずかしく、私は手元の湯呑みへ視線を落としていたが、耳と鼻だけはすっかり厨房へ向いていた。

 やがて運ばれてきた焼き鯖寿司は、竹皮を敷いた黒い長皿の上に、切り分けられてもなお一本の魚の形を保つように並べられていた。厚い半身が酢飯を覆い、緩やかに盛り上がった皮には、銀青色を残した部分と飴色に焼けた部分がまだらに混じっている。焼き目の濃いところには細かな焦げが浮き、身からにじみ出た脂が照明を受けて、薄い膜のように光っていた。
 切り口を横から見ると、焼けた皮、淡い褐色の身、薄切りの生姜と青紫蘇、白い酢飯が、崩れずに重なっていた。鯖の身は酢飯と同じほど厚く、中央の一切れなどは箸で持ち上げるのをためらうほど大きい。焼き魚の香ばしさの奥に、酢と生姜の尖った匂いが潜み、近づいて嗅いだわけでもないのに、鼻の奥がつんと刺激された。

 八切れすべてが私のものなのだから、端から順に食べる必要はない。私は身の最も厚い中央の一切れを選び、両側から箸を差し入れた。酢飯が押し固められているぶん、見た目よりもしっかりとした重さがある。持ち上げると皮の表面から新しい脂がにじみ、焼き目の縁を伝って酢飯へ吸い込まれていった。
 ひと口で食べるには大きかった。人前なら半分に噛み切り、残りを皿へ戻したかもしれない。今は向かいに誰もいない。口元を見られる心配も、食べ方を採点される理由もない。私は箸を少し持ち替え、焼き鯖寿司を横向きにして、思い切って口を開けた。
 歯を立てると、最初に皮の薄い弾力が返ってきた。焦げた縁だけがかりりと小さく砕け、その内側から、柔らかな身が層になってほどけていく。鯖の脂は焼かれたことで甘みを増し、舌の上だけではなく、上顎にまでまとわりつくほど濃かった。塩気も強い。魚だけなら一切れで満足してしまいそうな味を、酢飯の酸味が下から押し返してきた。
 酢飯は思っていたより甘さが控えめで、酢の角も丸い。押し寿司らしく米粒同士が密着しているのに、噛むうちにひと粒ずつ離れ、鯖の脂をまとって身と一緒に溶けていった。間に挟まれた生姜が舌へ触れると、濃厚だった口の中に細い切れ目が入り、そこから青紫蘇の青い香りが抜けていく。焼き鯖、酢飯、生姜、青紫蘇のどれかが目立ちすぎれば、これほど大きなひと切れを呑み込む前に飽きていたはずだ。それぞれが次の味へ舌を渡してくれるため、最後まで口の中が重くならなかった。
 飲み込んだあとも、焼けた皮の香りは鼻の奥に残っていた。湯呑みの茶を口に含むと、舌に残った脂が熱でほどけ、鯖の旨みだけがもう一度浮かび上がった。私は息を吐き、ようやく肩から力が抜けたことに気づいた。おいしいと感じた瞬間、身体は正直に緩むらしい。口元まで緩んでいたかもしれないが、ひとりなら取り繕う必要もなかった。
 二切れ目には、尾に近い細身の部分を選んだ。中央より脂は少ない代わりに皮がよく焼けており、焦げの香ばしさと締まった身の歯応えが強い。三切れ目は腹側で、箸を入れただけで身が割れそうなほど柔らかく、噛む前から脂が酢飯へ染みていた。同じ一本の鯖なのに、場所によって食感も脂の量も違う。空腹を満たすことしか考えていなかった最初のひと口から、次第に一切れごとの差を確かめる食べ方へ変わり、箸を置く時間も少しずつ長くなっていった。

 誰かと食べるのが嫌いなわけではない。相手がいれば料理について感想を言い合えるし、自分では選ばないものを分けてもらう楽しさもある。その一方で、おいしいと口に出す頃合いや、次の料理へ箸を伸ばす速度まで、いくらかは相手と合わせなければならない。
 ひとりで食べるときには、気に入った一切れをいつまでも噛んでいられるし、まだ口の中に味が残っていても、我慢できなければ次へ手を伸ばせる。食べる順番も、間の取り方も、最後のひとつを惜しむ時間も、すべて自分のものだった。
 五切れ目を食べ終えたところで、腹の底に確かな重みが生まれた。満腹にはまだ遠いが、昼から空いていた場所へ、温かなものが順序よく収まっていく感覚がある。仕事をしていると、空腹はしばしば処理すべき不具合になる。手が止まらない程度に何かを食べ、眠くならない量で切り上げ、次の予定へ間に合うように席を立つ。
 今夜は食べ終える時刻も、そのあとの予定も気にしなくていい。私は腹を満たすためだけではなく、食べることそのものに時間を使っていた。
 最後の一切れになると、急に箸さばきが慎重になった。残しておきたいわけではない。皿から鯖寿司がなくなれば、この時間まで終わってしまうような気がしたのだ。私は湯呑みを両手で包み、口の中から先ほどの余韻が消えるまで待った。それから最後の一切れを持ち上げ、皮の焼き目、生姜の重なり、酢飯へ染みた脂をもう一度眺めてから口へ運んだ。

 最後は生姜の多い部分だった。鯖の身を噛み崩すたびに脂が広がり、そのあとから生姜の辛みが追いついてくる。青紫蘇の香りが鼻へ抜け、酢飯の酸味が舌に残った脂をさらうと、もうひと口食べたいという気持ちと、一本きれいに食べ切った満足が同時に湧いた。私は急いで呑み込まず、米粒の感触がなくなるまで噛んだ。
 皿の上には数粒の酢飯と、鯖の脂を吸って色の濃くなった竹皮だけが残った。満腹になった胃の重みが心地よく、さっきまで痛んでいた肩も、靴の中で熱を持っていた足も、今は一日の終わりを受け入れていた。
 人の言葉は、話す側の都合でいくらでも意味を変える。食べたものは、噛んで飲み込んだぶんだけ確実に自分のものになり、あとから誰かに取り上げられることもない。私は湯呑みに残った茶を飲み干し、今日という日を、誰かの言葉ではなく鯖の味で終えられることに満足していた。

 翌朝、ホテルのロビーへ下りると、津田はすでに身支度を整え、背筋を伸ばして私を待っていた。ビュッフェ形式の朝食もしっかり食べてきたらしい。
「柚木先輩、昨日は何を食べたんですか?」
 津田は私の姿を見るなり、出張の成果より先に夕食の内容を尋ねてきた。
「焼き鯖寿司。一本八切れを全部食べた」
「一本ですか! いいですね!」
 津田は自分が食べたことのように嬉しそうな顔をした。私の報告を聞いた津田も驚きこそすれ、私の食欲を値踏みするような目はしなかった。見栄を張っていたのは私ひとりで、彼は最初から、食べたい人間が食べたいものを食べることに何の疑問も持っていなかったのだろう。

 帰りの道中、津田は駅弁をまた楽しそうに選び、私は今度こそ遠慮せず、彼の隣で幕の内弁当を買った。焼き魚も煮物も入っており、蓋を開けたときに津田が向けてきたのは羨望の眼差しだった。私は彼に卵焼きをひとつ譲り、代わりに鶏の照り焼きをひと切れもらった。
 食事は別々に摂ると決めていたはずが、弁当のおかずひとつ程度なら、ひとりで食べる自由を損なうこともなかった。

 鯖江から戻って一か月後、琥珀色のフレームは商品企画会議で正式に追加色として採用された。発注と異なる色で完成した二十本は営業用のサンプルとして各店舗へ回され、予想を上回る数の予約が入ったため、初回分の追加生産も決まった。間違いから生まれた色であることに変わりはないが、もう誰もそれを失敗作とは呼ばなかった。
「柚木さん、よく立て直してくれたね。工場との調整も、販売データを使った提案も説得力があった。津田くんも、先方から感じのいい若手だったと褒められていたよ」
 課長は会議の最後に報告書を閉じ、私たち二人を順に見た。津田は椅子へ座ったまま腰を浮かせ、立って礼をするべきか迷った末に、中途半端な姿勢で頭を下げた。
「ありがとうございます! 柚木先輩が準備してくださったおかげです!」
「でも、そもそものきっかけは私の入力だったのよね。あの色番号を入れていなかったら、琥珀色は生まれていなかったわけだし」
 富田さんは会議資料へ視線を落としたまま口を挟んだ。
「はい。報告書にも、『富田さんによる色番号の入力ミスを起点として』と明記してあります」
 私は事実を確認する口調で答えた。課長は笑いを誤魔化したような咳払いをして資料へ目を落とし、商品企画の担当者は唇を噛んで俯いた。津田だけは何を堪えているのかわからないほど頬を膨らませ、坊主頭を机へ近づけている。富田さんは何か言い返そうとしたらしく口を開いたが、入力ミスと記載された報告書が目の前にある以上、否定できる部分はなかった。

「まあ、結果がよかったんだからいいじゃない。私、終わったことをいつまでも引きずらないの。サバサバしてるから」
 富田さんは椅子を引いて立ち上がり、誰より先に会議室を出ていった。扉が閉まると、津田が机へ伏せていた顔を上げた。
「柚木先輩、今の返しは、わざとですか?」
 津田は声を潜めながらも、目は期待に満ちていた。嫌味を嫌味と捉えなかった男が、ずいぶん成長したものだ。
「何のこと?」
 私は資料を揃え、何も知らない顔で会議室を出た。背後から追いついてきた津田は、廊下へ出てもまだ笑いを堪えている。
「先輩、今日の昼は何を食べますか?」
「鯖」
 答えた途端、皮目の焼けた塩鯖が浮かんだ。箸を入れれば身から脂がにじみ、湯気の立つ白米へ載せれば、塩気と脂を吸ったところだけが半透明になる。午前の会議が長引いたため、昼休みまではあと十分ほどしかない。それでも胃は、すでに鯖を迎える準備を始めていた。
「僕は生姜焼きにします! 午後も頑張りましょう!」
 津田は食べる店を決めると、足取りまで速くなった。エレベーターの前で別れ、私はひとり、会社の裏手にある定食屋へ向かった。
 琥珀色の二十本を商品へ戻したのは私と津田で、鯖江で気分が沈みかけた私を元の場所へ引き上げてくれたのは、あのときの焼き鯖寿司だ。私は、その功績を富田さんへ譲るつもりはなかった。
 定食屋の暖簾の向こうから、鯖の皮が焼ける匂いが漂ってきた。私はそれを吸い込みながら、今さらひどく単純なことに気づいた。
 
——本当に性格がサバサバしている人は、「私ってサバサバしてるから」という自己申告はしてこないよな。