片瀬海岸と江の島を結ぶ歩行者専用の橋、江の島弁天橋。
その本土側のたもとには、『名勝及史蹟江ノ島』と刻まれた大きな石碑が立っている。
俺たち地元民にとっては、見慣れすぎた光景で、何の感慨もない。
けれども、生まれて初めて江ノ島に来るイジュンにとって、それは特別なものに見えるようだ。
「와, 대박! 海100リスト6に出てくる石碑だ!」
イジュンは韓国語混じりの歓声を上げ、石碑に駆け寄った。
スマホを取り出し、めいっぱい腕を伸ばして自撮りしている。
けれども、江ノ島と石碑、それに自分自身の姿を、うまくフレームに収めることができないようだ。
必死で角度を調整する姿を、放っておけなかった。
「貸せ」
俺は、イジュンのスマホに手を伸ばした。
「え、成瀬くんも、写真に入ってくれるの?」
イジュンが、大きく目を見開く。
「違う。お前を撮ってやる」
素早くスマホを取りあげ、イジュンにレンズを向ける。
聖地巡礼なら、作品と同じ構図で撮ってやったほうがいいだろう。
「イジュン、もう少し左。そう、そこ。——撮るぞ」
「日本では『ハイ・チーズ』って言うんだよね?」
「言うやつもいる。俺は、言わない」
カシャオ、と、独特の電子音が響く。
画面には、どこかのグラビアとしか思えない、超美麗な写真が映し出された。
「ほら、行くぞ。みんな、待ってる」
イジュンにスマホを返す。
イジュンは、出来上がった写真を見て、韓国語で何かを叫んだ。
「말도 안 돼! 완전 똑같아!」
何と言っているのかは、よくわからない。
「あなたたち、何してるの」
高嶺部長に叱られ、目を見開いたままスマホを凝視しているイジュンの制服の袖を掴む。
「来い。置いていかれる」
イジュンは俺の顔を凝視して、唖然とした顔で呟いた。
「成瀬くん、記憶力すごいね。これ、リスト6と、まったく同じ構図!」
「昨日読んだばっかだからな」
ぶっきらぼうに答える。
本当は、違う。
『海辺の青春100リスト』は、短いモノクロ漫画と、登場人物たちが撮影した写真を模した扉絵のカラーイラストで構成されている。
リスト6のカラーイラストは、何度も悩んで決めた構図だ。
忘れるはずがない。
身バレしたら困る、という感情以上に、イジュンを喜ばせてやりたい、という衝動が勝ってしまった。
「すごいね! カメラアイ?」
「そんな大層なものじゃない」
大興奮状態のイジュンと他愛のない話をしながら、橋を歩いてゆく。
橋を渡り終えると、醤油の焦げる香ばしい匂いが漂ってきた。
「あれは! リスト7の磯焼きのお店!?」
瞳を輝かせて歓声を上げるイジュンに、部長が冷ややかに告げた。
「課外活動中の買い食いは禁止よ。食べたければ、別の機会になさい」
しゅん、と見えない尻尾が垂れ下がる。頭にぺしょんと垂れた耳まで幻視してしまい、俺は自分のオタク度合いに、微妙な気分になった。
「イジュン先輩、お休みの日に、成瀬先輩に連れてきてもらったらいいじゃないですか」
後輩の一人が、勝手にそんな提案をする。
「いいの!?」
今にも飛びかかってきそうな勢いで、イジュンが前のめりに問いかけてくる。
こんなにも瞳をキラキラさせながらねだられ、断れる人間がいたら、教えてほしい。
「構わないが、この時期、休日は死ぬほど混むぞ」
「大丈夫! 混雑には慣れてるから。——ん、あれは! 甚平の回に出てきたやつ! リスト14」
青銅の鳥居を指差し、イジュンが歓声を上げる。
「あぁあああ、アイスもなかのお店! あっちはたこせんべい!!!」
参道を歩くたび、イジュンは作品内に出てきた店を指差しては、大はしゃぎしている。
そのたびに、みんなの列から遅れていく。
腰に手を当てた高嶺部長が、くるりと振り返る。
苦言を呈される前に、俺は、軽く手を上げて、彼女の言葉を遮った。
「このままだと、スケッチの時間が取れなくなる。先に行ってくれ。こいつの面倒は、俺が見る」
「そういうわけには——」
責任感の強い部長は、反論しようとしたけれど、二年の後輩が、それを遮った。
「イジュン先輩、江ノ島に来るのは初めてみたいですし、ゆっくり見て回りたいんだと思います。行きましょう。大丈夫ですよ。成瀬先輩がついていれば」
「じゃあ、任せたわ。何かあったらグループLINEにメッセージして」
「了解」
「グループLINE? いいな。部活のグループLINEがあるの?」
「後で教える」
羨ましそうな顔をするイジュンに、短く告げる。
高嶺部長は後輩たちを連れて、参道を足早に歩いていった。
「ごめん。僕のせいで」
「いや。——俺も、初めて来たときは、見るもの全部、珍しくて。親に呆れられるくらい、はしゃいで走り回ったから」
イジュンの目が、大きく見開かれる。
「成瀬くんでも、はしゃぐこと、あるの?」
「子どもの頃はな」
母子家庭で、親に迷惑をかけないようにしよう、という気持ちの強い子どもだった。
だけど——この顔の傷ができたあの事件までは、俺も、それなりに子どもらしい子どもだったように思う。
「見てみたいな。はしゃぐ成瀬くん」
同じ高さの目線でまっすぐ見据えられ、照れくささに耐えきれず、目を伏せる。
ほぼすべての人を、いつも見下ろす形になるから。
まっすぐ視線が合う相手なんて、ここ数年、ほとんどいなかったから。
「はしゃぐ、なんて単語、よく知ってるな」
照れくさくなって、話題をそらす。
「知ってるよ。『海辺の青春100リスト』で覚えたからね」
なんだかすごく、変な感じだ。
海を渡った国の人にまで、俺の描いた物語が届き、愛されていたなんて。
「大好きな物語の世界に入れたみたいで、すごく、嬉しい」
鳥居の下に立ったイジュンが、目を閉じて、大きく深呼吸する。
「ずっと、ずっと憧れていた世界だ。——普通に学校に通って、友だちができて、部活動に参加して。嬉しすぎて、ちょっと、おかしくなりそうだよ」
イジュンの声が、少し、泣いてるみたいに、いびつに歪んだ。
心配になって、その顔に視線を向けると、ぱちりと、まぶたが開いた。
澄んだ大きな黒目が、まっすぐ俺を見据える。
目をそらそうとして、うまくそらせなかった。
誰かの瞳に自分の姿が映っているのを、初めて見た気がした。
絵ではたまに、描くけど。
本当にこんなふうに映るんだって、少し感動してしまった。
ああ——そうか。こんなふうにじっと見なければ、相手の目に自分が映っているかどうかなんて、普通は気づけないんだ。
「成瀬くん?」
不思議そうな声で名前を呼ばれ、慌てて視線をそらす。
「行こう。この先にも、たぶん、お前の見たいもの、たくさんあるから」
「もしかしたら、卒業までに、海100リストの聖地巡礼、コンプできるかな?」
「やろうと思えば、できるんじゃないか」
イジュンが、握りしめた拳を天に突き上げる。
出てきた言葉は韓国語ではなく、「やったぁ!」だった。
今回も、ちょっと大げさで、アニメのセリフでしか聞かないような言い方だ。
ガキみたいに無邪気なその声に、俺は少しだけ、吹き出してしまった。
その本土側のたもとには、『名勝及史蹟江ノ島』と刻まれた大きな石碑が立っている。
俺たち地元民にとっては、見慣れすぎた光景で、何の感慨もない。
けれども、生まれて初めて江ノ島に来るイジュンにとって、それは特別なものに見えるようだ。
「와, 대박! 海100リスト6に出てくる石碑だ!」
イジュンは韓国語混じりの歓声を上げ、石碑に駆け寄った。
スマホを取り出し、めいっぱい腕を伸ばして自撮りしている。
けれども、江ノ島と石碑、それに自分自身の姿を、うまくフレームに収めることができないようだ。
必死で角度を調整する姿を、放っておけなかった。
「貸せ」
俺は、イジュンのスマホに手を伸ばした。
「え、成瀬くんも、写真に入ってくれるの?」
イジュンが、大きく目を見開く。
「違う。お前を撮ってやる」
素早くスマホを取りあげ、イジュンにレンズを向ける。
聖地巡礼なら、作品と同じ構図で撮ってやったほうがいいだろう。
「イジュン、もう少し左。そう、そこ。——撮るぞ」
「日本では『ハイ・チーズ』って言うんだよね?」
「言うやつもいる。俺は、言わない」
カシャオ、と、独特の電子音が響く。
画面には、どこかのグラビアとしか思えない、超美麗な写真が映し出された。
「ほら、行くぞ。みんな、待ってる」
イジュンにスマホを返す。
イジュンは、出来上がった写真を見て、韓国語で何かを叫んだ。
「말도 안 돼! 완전 똑같아!」
何と言っているのかは、よくわからない。
「あなたたち、何してるの」
高嶺部長に叱られ、目を見開いたままスマホを凝視しているイジュンの制服の袖を掴む。
「来い。置いていかれる」
イジュンは俺の顔を凝視して、唖然とした顔で呟いた。
「成瀬くん、記憶力すごいね。これ、リスト6と、まったく同じ構図!」
「昨日読んだばっかだからな」
ぶっきらぼうに答える。
本当は、違う。
『海辺の青春100リスト』は、短いモノクロ漫画と、登場人物たちが撮影した写真を模した扉絵のカラーイラストで構成されている。
リスト6のカラーイラストは、何度も悩んで決めた構図だ。
忘れるはずがない。
身バレしたら困る、という感情以上に、イジュンを喜ばせてやりたい、という衝動が勝ってしまった。
「すごいね! カメラアイ?」
「そんな大層なものじゃない」
大興奮状態のイジュンと他愛のない話をしながら、橋を歩いてゆく。
橋を渡り終えると、醤油の焦げる香ばしい匂いが漂ってきた。
「あれは! リスト7の磯焼きのお店!?」
瞳を輝かせて歓声を上げるイジュンに、部長が冷ややかに告げた。
「課外活動中の買い食いは禁止よ。食べたければ、別の機会になさい」
しゅん、と見えない尻尾が垂れ下がる。頭にぺしょんと垂れた耳まで幻視してしまい、俺は自分のオタク度合いに、微妙な気分になった。
「イジュン先輩、お休みの日に、成瀬先輩に連れてきてもらったらいいじゃないですか」
後輩の一人が、勝手にそんな提案をする。
「いいの!?」
今にも飛びかかってきそうな勢いで、イジュンが前のめりに問いかけてくる。
こんなにも瞳をキラキラさせながらねだられ、断れる人間がいたら、教えてほしい。
「構わないが、この時期、休日は死ぬほど混むぞ」
「大丈夫! 混雑には慣れてるから。——ん、あれは! 甚平の回に出てきたやつ! リスト14」
青銅の鳥居を指差し、イジュンが歓声を上げる。
「あぁあああ、アイスもなかのお店! あっちはたこせんべい!!!」
参道を歩くたび、イジュンは作品内に出てきた店を指差しては、大はしゃぎしている。
そのたびに、みんなの列から遅れていく。
腰に手を当てた高嶺部長が、くるりと振り返る。
苦言を呈される前に、俺は、軽く手を上げて、彼女の言葉を遮った。
「このままだと、スケッチの時間が取れなくなる。先に行ってくれ。こいつの面倒は、俺が見る」
「そういうわけには——」
責任感の強い部長は、反論しようとしたけれど、二年の後輩が、それを遮った。
「イジュン先輩、江ノ島に来るのは初めてみたいですし、ゆっくり見て回りたいんだと思います。行きましょう。大丈夫ですよ。成瀬先輩がついていれば」
「じゃあ、任せたわ。何かあったらグループLINEにメッセージして」
「了解」
「グループLINE? いいな。部活のグループLINEがあるの?」
「後で教える」
羨ましそうな顔をするイジュンに、短く告げる。
高嶺部長は後輩たちを連れて、参道を足早に歩いていった。
「ごめん。僕のせいで」
「いや。——俺も、初めて来たときは、見るもの全部、珍しくて。親に呆れられるくらい、はしゃいで走り回ったから」
イジュンの目が、大きく見開かれる。
「成瀬くんでも、はしゃぐこと、あるの?」
「子どもの頃はな」
母子家庭で、親に迷惑をかけないようにしよう、という気持ちの強い子どもだった。
だけど——この顔の傷ができたあの事件までは、俺も、それなりに子どもらしい子どもだったように思う。
「見てみたいな。はしゃぐ成瀬くん」
同じ高さの目線でまっすぐ見据えられ、照れくささに耐えきれず、目を伏せる。
ほぼすべての人を、いつも見下ろす形になるから。
まっすぐ視線が合う相手なんて、ここ数年、ほとんどいなかったから。
「はしゃぐ、なんて単語、よく知ってるな」
照れくさくなって、話題をそらす。
「知ってるよ。『海辺の青春100リスト』で覚えたからね」
なんだかすごく、変な感じだ。
海を渡った国の人にまで、俺の描いた物語が届き、愛されていたなんて。
「大好きな物語の世界に入れたみたいで、すごく、嬉しい」
鳥居の下に立ったイジュンが、目を閉じて、大きく深呼吸する。
「ずっと、ずっと憧れていた世界だ。——普通に学校に通って、友だちができて、部活動に参加して。嬉しすぎて、ちょっと、おかしくなりそうだよ」
イジュンの声が、少し、泣いてるみたいに、いびつに歪んだ。
心配になって、その顔に視線を向けると、ぱちりと、まぶたが開いた。
澄んだ大きな黒目が、まっすぐ俺を見据える。
目をそらそうとして、うまくそらせなかった。
誰かの瞳に自分の姿が映っているのを、初めて見た気がした。
絵ではたまに、描くけど。
本当にこんなふうに映るんだって、少し感動してしまった。
ああ——そうか。こんなふうにじっと見なければ、相手の目に自分が映っているかどうかなんて、普通は気づけないんだ。
「成瀬くん?」
不思議そうな声で名前を呼ばれ、慌てて視線をそらす。
「行こう。この先にも、たぶん、お前の見たいもの、たくさんあるから」
「もしかしたら、卒業までに、海100リストの聖地巡礼、コンプできるかな?」
「やろうと思えば、できるんじゃないか」
イジュンが、握りしめた拳を天に突き上げる。
出てきた言葉は韓国語ではなく、「やったぁ!」だった。
今回も、ちょっと大げさで、アニメのセリフでしか聞かないような言い方だ。
ガキみたいに無邪気なその声に、俺は少しだけ、吹き出してしまった。

