卒業までに、きみとシたい100のこと

 翌日の放課後。
 正式に美術部員となったイジュンを加え、俺たちは恒例のスケッチのため、江ノ島にやってきた。

 朝方ぐずついていたのが嘘のように、真っ青に晴れ渡った空。
 江ノ島へまっすぐ伸びる橋の入り口に立つと、イジュンが歓声をあげた。

「すごい! 漫画とまったく同じだ!」
 イジュンはぴょこんと飛び跳ね、スマホを取り出して撮影を始める。

 午後四時を少し回ったばかり。平日の放課後とはいえ、橋の上は観光客で賑わっている。
 石川先生が集合時間と行動範囲を説明している間も、イジュンは夢中で写真を撮り続けていた。
「キムくん。説明は聞いていましたか?」
「はい。午後六時まで島内で自由行動。集合はここ、ですよね?」
 写真を撮るのに夢中で、何も聞いていないと思っていた。
 けれど、イジュンは石川先生の説明を、一言も聞き漏らしていなかった。

「そのとおりです。頂上まで行っても構いませんが、ここへ戻るだけでも三十分ほどかかります。忘れないように」
 石川先生の説明を聞き終わると、一年生の女子が、遠慮がちに手を挙げた。

「サムエル・コッキング苑のバラが咲き始めているみたいで、できれば下描きだけでもしに行きたいのですが、集合時間に間に合いますか……?」
「他にも行きたい人は?」
 高嶺部長が、テキパキとした口調でみんなに問いかけた。
 部員のほとんどが手を挙げる。

「私が引率します。午後五時までに苑を出て、入口前の広場に集合。それなら、余裕を持って六時までにここへ戻れます」
 高嶺部長の提案に、一年生たちは頼もしげな眼差しを向けた。

「サムエル・コッキング苑って、展望灯台があるところ?」
 イジュンが瞳を輝かせ、前のめりになる。
「ああ、そうだ」
『海辺の青春100リスト』にも、サムエル・コッキング苑はたびたび登場する。
 江ノ島の頂上にある、四季折々の草花に彩られ、展望灯台『江の島シーキャンドル』がそびえる庭園だ。

「行きたい!」
 見えない尻尾をぶんぶん振って、イジュンは声を弾ませた。
「わかった。行こう」
 俺の家から江ノ島までは徒歩二十分。部活以外でもしょっちゅう来ているから、今日は全面的にイジュンの希望に付き合うつもりだ。

「じゃあ、サムエル・コッキング苑組、行きますよ」
 高嶺部長が、手を挙げる。
「あ、待って。一枚だけ。あと一枚だけ、江ノ島の写真を撮らせて!」
「もう少し進んでからのほうが、きれいに撮れるぞ。『海辺の青春100リスト』にも、橋の途中から撮った構図があっただろ」
 イジュンは俺を振り返り、大きく目を見開く。
「やった! 成瀬くん、海100リスト、読んでくれたんだ!」
「ああ。お前が、やたらと勧めるから」

 俺にとっては、読むも何もない。
 自分で描いた漫画なのだから、知らない場面なんて一つもない。
 それでも、イジュンに勧められたから読んだふりをすれば、これからは少しくらい作品の話ができるかもしれない。
 そう思っただけで、胸の奥がわずかに浮き立った。

「どうだった? すごくよくなかった!?」
 ガバッと両腕を掴まれる。
 鼻先がくっつくほど顔を近づけ、イジュンは興奮した様子で問いかけてきた。

 嬉しい。すごく、嬉しい。
 こんなにも、自分の描いたものを好きだと思ってくれる人がいることが、死ぬほど嬉しい。
 だけど——その気持ちを伝えられないことが、たまらなく、もどかしい。

「そこ、何してるの。二人とも最高学年なんだから。一年生の手本になるよう、行動を改めなさい!」
 高嶺部長の叱責が飛んできた。
 イジュンはハッとした顔で俺から手を離し、「ごめんなさい!」と部長に謝罪した。

 助かった——と思う反面、少しだけ、残念な気持ちになる。

 お前はあの話の、どこがそんなに好きなんだ?
 今の流れなら、いちばん聞きたかったことを、自然に聞き出せるかもしれない。

 そう尋ねようと口を開きかけた、そのとき。
「もー、イジュン先輩、成瀬先輩のこと、好きすぎ!」
 一年生のからかいに、高嶺部長が眉を吊り上げる。
「だから、ナマモノ掛け算禁止って、何度言えば!」

 イジュンが自然と、みんなの輪の中心になる。
 いつもなら、そういう賑やかな輪からそっと離れる俺だけれど、イジュンは俺が孤立しそうになると、さりげなく俺を呼んでくれる。

「成瀬くん、行こ!」
 振り返って、向けられた笑顔。
 ただそれだけのことなのに。
 その一瞬が、俺の心に驚くほど鮮明に焼きついた。

 ああ、そうか。
 理解できた。
 この男が、一人だけ、特別輝いて見える理由。

 顔かたちが、異次元に整っているだけじゃない。
 イジュンは、誰が相手でも態度を変えない。
 長身で、怖がられてばかりの俺にも。
 根暗だと揶揄されがちな、美術部員たちにも。
 そして、輪の外にいる人間を見つけると、当たり前のように手を差し伸べる。

 今だって、俺が追いつくまで、その場で待っている。
 急いでイジュンの隣に並ぶと、彼は満足そうに前を向いた。

 もし、この世界に本当に天使がいたら、イジュンみたいな姿をしているかもしれない。

 俺は脳内に、純白の翼を広げるイジュンを、こっそりとスケッチしてしまった。