全力疾走のまま、美術室に駆け込む。
勝手に侵入されないよう、念のため鍵をかけ、ようやくひと呼吸ついた。
「はぁ……はぁ、大丈夫、か? イジュン」
ぜぇぜぇと乱れた呼吸。膝に手をついた情けない姿勢で、イジュンを振り返る。
「大丈夫だよ。ごめんね、成瀬くんまで付き合わせちゃって」
ぐったりと脱力しかけたそのとき、周囲の視線が、思いきり俺たちに集中していることに気づいた。
「成瀬先輩……。いつの間に、こんなかっこいい彼氏ができたんですか!?」
「はぁ!? な、何をっ……」
慌てふためく俺に代わって、イジュンが、トンデモ発言をした二年生の後輩に、やんわりと笑顔を向ける。
「ああ、ごめん。誤解しちゃうよね。いきなり手を繋いで駆け込んできたら。僕と成瀬くんは、クラスメイト。友だちだよ」
「友だち同士で、手を……。尊い……!」
眩い太陽の光を直視したかのように、数名の女子部員が、くらりと倒れる。
「ちょっとアンタたち。ナマモノで掛け算しない! オタクとして最低限のマナーよ!」
美術室の隅で黙々と作業をしていた高嶺部長が、メガネのブリッジを押し上げ、険しい顔で部員たちを叱り飛ばす。
「高嶺部長。彼、入部希望者です。韓国からの転入生で、キム・イジュン」
よろめいていたはずの女子部員たちが、急に前のめりになった。
「入部!? ウチの部に入ってくれるんですか!? ええっ!? 成瀬先輩とのツーショ描き放題!?」
大騒ぎしているけれど、誰もスマホを取り出したりはしない。
「みんなは……イジュンに、勝手にカメラ向けたりしないんだな」
思わずこぼした俺の言葉に、部員たちは眉を釣り上げる。
「当然じゃないですか! 無許可撮影は、絶対に許されない行為です! いえ、あの、撮らせていただけるなら、もちろん撮りたいですけども。できれば成瀬先輩とセットで!」
「不許可! アンタたち、成瀬が写真嫌いなこと、知ってるでしょ」
高嶺部長が、スマホをポケットから取り出しかけた部員たちを、険しい声でたしなめる。
「成瀬くん、写真、嫌いなの?」
イジュンが不思議そうな顔をした。
「——俺なんかの写真、撮ったって、誰も得しないだろ」
美の化身のようなイジュンと違い、俺の写真には、何の価値もない。
無駄にデカくて、顔に傷があって、それを隠そうとするせいで前髪が目にかかるくらい長い。
そんなやつの写真がカメラロールに混入していたら、呪われたような気分になるに決まっている。
「そんなことないと思うけどな……」
イジュンは少し考えるように首を傾げたあと、みんなに問いかけた。
「写真って言えば、みんなは『海辺の青春100リスト』っていう漫画知ってる? 僕、あの作品が好きで、この学校を選んだんだけど——」
わ、待て。頼むからここで、その名前を出さないでくれ……!
俺があの作品の作者であることは、部員たちにも隠し続けている。
もしバレてしまったら、きっと、ここにはいられなくなってしまう。
「あー、知ってます! SNSでよくバズるやつですよね! 私もあれ大好きですー!」
「私も! 尊いですよね! 私は断然、大毅×直斗派です!」
自キャラを使ったカップリング話が始まりそうになり、頭を抱えたくなったそのとき、後輩の一人がイジュンに向き直った。
「イジュン先輩は、どのカップリングが好きですか?」
「僕は、三人の友情物語として読んでるよ。あんな友だちがいたらいいなって、ずっと憧れてたんだ」
イジュンの言葉に、ぎゅっと胸が痛くなる。
「江ノ島、聖地巡礼しました?」
「実はね、昨日日本に着いたばかりなんだ。引っ越しで身動きが取れなかったし、まだ行けてないんだけど……」
「そんなイジュン先輩に朗報です! 明日、ちょうど江ノ島スケッチの日なんですよ」
「江ノ島スケッチ?」
「ウチの部の恒例行事で、月に一度、江ノ島にスケッチをしに行くんです」
「어어어어!? 진짜!? それ、僕も参加できるの?」
何と叫んだのだろう。興奮のあまり、前半が韓国語になっている。
「入部してくれたら、もちろん参加できますよ! 部員なら、誰でも参加できるんです」
後輩の答えに、イジュンは、勢いよく俺を振り返る。
「成瀬くんも行く?」
イジュンの目が、驚くほどキラキラと輝いている。
瞳のなかに星を描く古典技法を発明した人は、こんな目を実際に見たことがあったのかもしれない。
「ああ……」
勢いに気押されるように、ぎこちなく頷く。
俺が参加するとわかった途端、イジュンは、両の拳を頭上へ勢いよく突き上げ、その場で大きく跳びはねた。
「超絶美形なのに中身が無邪気系わんこ……。なんなんですか、この死ぬほど可愛い生き物は!」
俺の脳内に浮かんだツッコミを、一年の女子がそのまま口にした。
「どうしよう。すごく楽しみ……!」
見えない尻尾をぶんぶん振りながら、イジュンが声を弾ませた。
「ものすごく期待してるみたいだけど、そんなに大きな島じゃないし、そこまで特別な場所でもないぞ」
江ノ島を描くとき、どうしたって俺は、エモさを盛りすぎてしまう節がある。
あまりにも期待しすぎて、がっかりしてしまったらかわいそうだ。
「そこがいいんだよ! 大きな島とか、特別きれいな場所を期待してるわけじゃない。こぢんまりしてて、ノスタルジックな感じが絵から伝わってきて、そこにすごく惹かれるんだ」
自分が江ノ島に感じている魅力。
それを、そっくりそのまま言い当てられ、ドクンと心臓が跳ねる。
「それ、ちゃんと絵に表れてるか?」
思わずそう尋ねそうになって、慌てて言葉を飲み込む。
そんな質問をしたら、自分が作者だと暴露しているようなものだ。
聞きたい。
『海辺の青春100リスト』について、イジュンと、いろんなことを語り合いたい。
だけど、そんなこと、できるはずがなくて。
俺は、ぎゅっと拳を握りしめて俯くことしかできなかった。
今どき、漫画やアニメが好きだと公言すること自体は、珍しくもなんともない。
教室でも、好きな作品や推しの話を堂々としているやつは大勢いる。
イジュンだってそうだ。
オタクだと明かした途端、引かれるどころか、級友との距離が縮まった。
だけど、俺の場合は違う。
ただ漫画を読んでいるんじゃない。女子に人気のある漫画を、匿名で描いている。
自分では友情を描いているつもりでも、周囲からはBLだと思われている。
作者が男だと知られれば、現実の性的指向まで勝手に詮索されかねない。
画面の向こうで何を言われても、匿名でいる限り、現実の俺とは切り離しておける。
だけど、『海辺の青春100リスト』と成瀬岳の名前が、一度でも結びついたら。
俺にはもう、逃げられる場所がなくなる。
「参加するためには、正式な入部が必要です。まずは入部届を石川先生に提出してください。今の時間なら、職員室にいますから」
高嶺部長が、冷静な口調でイジュンに告げた。
この美貌を前にして、一ミリも表情が崩れていない。
その凛々しさに尊敬の念を抱きつつ、俺は一歩前に出た。
「イジュンを外に出すのは危険だ。石川先生を呼んでくる。部長。イジュンを頼みます。俺、向こうから出ますんで」
美術室の扉の前に、まだ複数の人の気配がある。
俺は高嶺部長にイジュンを託し、美術準備室を経由して、こっそりと職員室に向かうことにした。
準備室に入る直前、何となく振り返る。
部員たちと談笑するイジュンと、まっすぐ目が合った。
イジュンは嬉しそうに笑って、俺に向かって小さく手を振る。
ほんの少し離れるだけなのに。
なぜか俺も、振り返さずにはいられなかった。
勝手に侵入されないよう、念のため鍵をかけ、ようやくひと呼吸ついた。
「はぁ……はぁ、大丈夫、か? イジュン」
ぜぇぜぇと乱れた呼吸。膝に手をついた情けない姿勢で、イジュンを振り返る。
「大丈夫だよ。ごめんね、成瀬くんまで付き合わせちゃって」
ぐったりと脱力しかけたそのとき、周囲の視線が、思いきり俺たちに集中していることに気づいた。
「成瀬先輩……。いつの間に、こんなかっこいい彼氏ができたんですか!?」
「はぁ!? な、何をっ……」
慌てふためく俺に代わって、イジュンが、トンデモ発言をした二年生の後輩に、やんわりと笑顔を向ける。
「ああ、ごめん。誤解しちゃうよね。いきなり手を繋いで駆け込んできたら。僕と成瀬くんは、クラスメイト。友だちだよ」
「友だち同士で、手を……。尊い……!」
眩い太陽の光を直視したかのように、数名の女子部員が、くらりと倒れる。
「ちょっとアンタたち。ナマモノで掛け算しない! オタクとして最低限のマナーよ!」
美術室の隅で黙々と作業をしていた高嶺部長が、メガネのブリッジを押し上げ、険しい顔で部員たちを叱り飛ばす。
「高嶺部長。彼、入部希望者です。韓国からの転入生で、キム・イジュン」
よろめいていたはずの女子部員たちが、急に前のめりになった。
「入部!? ウチの部に入ってくれるんですか!? ええっ!? 成瀬先輩とのツーショ描き放題!?」
大騒ぎしているけれど、誰もスマホを取り出したりはしない。
「みんなは……イジュンに、勝手にカメラ向けたりしないんだな」
思わずこぼした俺の言葉に、部員たちは眉を釣り上げる。
「当然じゃないですか! 無許可撮影は、絶対に許されない行為です! いえ、あの、撮らせていただけるなら、もちろん撮りたいですけども。できれば成瀬先輩とセットで!」
「不許可! アンタたち、成瀬が写真嫌いなこと、知ってるでしょ」
高嶺部長が、スマホをポケットから取り出しかけた部員たちを、険しい声でたしなめる。
「成瀬くん、写真、嫌いなの?」
イジュンが不思議そうな顔をした。
「——俺なんかの写真、撮ったって、誰も得しないだろ」
美の化身のようなイジュンと違い、俺の写真には、何の価値もない。
無駄にデカくて、顔に傷があって、それを隠そうとするせいで前髪が目にかかるくらい長い。
そんなやつの写真がカメラロールに混入していたら、呪われたような気分になるに決まっている。
「そんなことないと思うけどな……」
イジュンは少し考えるように首を傾げたあと、みんなに問いかけた。
「写真って言えば、みんなは『海辺の青春100リスト』っていう漫画知ってる? 僕、あの作品が好きで、この学校を選んだんだけど——」
わ、待て。頼むからここで、その名前を出さないでくれ……!
俺があの作品の作者であることは、部員たちにも隠し続けている。
もしバレてしまったら、きっと、ここにはいられなくなってしまう。
「あー、知ってます! SNSでよくバズるやつですよね! 私もあれ大好きですー!」
「私も! 尊いですよね! 私は断然、大毅×直斗派です!」
自キャラを使ったカップリング話が始まりそうになり、頭を抱えたくなったそのとき、後輩の一人がイジュンに向き直った。
「イジュン先輩は、どのカップリングが好きですか?」
「僕は、三人の友情物語として読んでるよ。あんな友だちがいたらいいなって、ずっと憧れてたんだ」
イジュンの言葉に、ぎゅっと胸が痛くなる。
「江ノ島、聖地巡礼しました?」
「実はね、昨日日本に着いたばかりなんだ。引っ越しで身動きが取れなかったし、まだ行けてないんだけど……」
「そんなイジュン先輩に朗報です! 明日、ちょうど江ノ島スケッチの日なんですよ」
「江ノ島スケッチ?」
「ウチの部の恒例行事で、月に一度、江ノ島にスケッチをしに行くんです」
「어어어어!? 진짜!? それ、僕も参加できるの?」
何と叫んだのだろう。興奮のあまり、前半が韓国語になっている。
「入部してくれたら、もちろん参加できますよ! 部員なら、誰でも参加できるんです」
後輩の答えに、イジュンは、勢いよく俺を振り返る。
「成瀬くんも行く?」
イジュンの目が、驚くほどキラキラと輝いている。
瞳のなかに星を描く古典技法を発明した人は、こんな目を実際に見たことがあったのかもしれない。
「ああ……」
勢いに気押されるように、ぎこちなく頷く。
俺が参加するとわかった途端、イジュンは、両の拳を頭上へ勢いよく突き上げ、その場で大きく跳びはねた。
「超絶美形なのに中身が無邪気系わんこ……。なんなんですか、この死ぬほど可愛い生き物は!」
俺の脳内に浮かんだツッコミを、一年の女子がそのまま口にした。
「どうしよう。すごく楽しみ……!」
見えない尻尾をぶんぶん振りながら、イジュンが声を弾ませた。
「ものすごく期待してるみたいだけど、そんなに大きな島じゃないし、そこまで特別な場所でもないぞ」
江ノ島を描くとき、どうしたって俺は、エモさを盛りすぎてしまう節がある。
あまりにも期待しすぎて、がっかりしてしまったらかわいそうだ。
「そこがいいんだよ! 大きな島とか、特別きれいな場所を期待してるわけじゃない。こぢんまりしてて、ノスタルジックな感じが絵から伝わってきて、そこにすごく惹かれるんだ」
自分が江ノ島に感じている魅力。
それを、そっくりそのまま言い当てられ、ドクンと心臓が跳ねる。
「それ、ちゃんと絵に表れてるか?」
思わずそう尋ねそうになって、慌てて言葉を飲み込む。
そんな質問をしたら、自分が作者だと暴露しているようなものだ。
聞きたい。
『海辺の青春100リスト』について、イジュンと、いろんなことを語り合いたい。
だけど、そんなこと、できるはずがなくて。
俺は、ぎゅっと拳を握りしめて俯くことしかできなかった。
今どき、漫画やアニメが好きだと公言すること自体は、珍しくもなんともない。
教室でも、好きな作品や推しの話を堂々としているやつは大勢いる。
イジュンだってそうだ。
オタクだと明かした途端、引かれるどころか、級友との距離が縮まった。
だけど、俺の場合は違う。
ただ漫画を読んでいるんじゃない。女子に人気のある漫画を、匿名で描いている。
自分では友情を描いているつもりでも、周囲からはBLだと思われている。
作者が男だと知られれば、現実の性的指向まで勝手に詮索されかねない。
画面の向こうで何を言われても、匿名でいる限り、現実の俺とは切り離しておける。
だけど、『海辺の青春100リスト』と成瀬岳の名前が、一度でも結びついたら。
俺にはもう、逃げられる場所がなくなる。
「参加するためには、正式な入部が必要です。まずは入部届を石川先生に提出してください。今の時間なら、職員室にいますから」
高嶺部長が、冷静な口調でイジュンに告げた。
この美貌を前にして、一ミリも表情が崩れていない。
その凛々しさに尊敬の念を抱きつつ、俺は一歩前に出た。
「イジュンを外に出すのは危険だ。石川先生を呼んでくる。部長。イジュンを頼みます。俺、向こうから出ますんで」
美術室の扉の前に、まだ複数の人の気配がある。
俺は高嶺部長にイジュンを託し、美術準備室を経由して、こっそりと職員室に向かうことにした。
準備室に入る直前、何となく振り返る。
部員たちと談笑するイジュンと、まっすぐ目が合った。
イジュンは嬉しそうに笑って、俺に向かって小さく手を振る。
ほんの少し離れるだけなのに。
なぜか俺も、振り返さずにはいられなかった。

