卒業までに、きみとシたい100のこと

 放課後、俺は約束どおり、イジュンを美術室に案内することになった。

 今日一日で、イジュンの噂は三年生だけでなく、全校生徒に広まったようだ。
 イジュンの姿をひと目見ようと、教室の外には野次馬が詰めかけていた。
 廊下を埋め尽くし、列は階段のほうまで続いている。ざっと見ただけでも、百人は超えていそうだ。

「おい、お前ら。ウチのクラスに溜まるんじゃねぇ!」
 青柳先生が怒鳴り散らしてくれたけれど、ギャラリーはちっとも減りそうにない。

「部活見学に行くんだろ? ほら、俺が堰き止めてやる。今のうちだ!」
 羽織っているジャージを脱ぐと、青柳先生は、ぶんぶんとそれを振り回し、ギャラリーを散らそうとする。

「きゃー! 汗臭い!」
「やめて! 先生、スメハラで訴えますよ!?」
「黙れ。転入生見るために見境なく押しかけてくるお前らが悪ぃんだ! こいつは芸能人じゃねぇんだぞっ」

 もしかしたらイジュンは、韓国でも、ずっとこんな生活を強いられていたのだろうか。
 ふいに、昼間タブレットに書かれた文章が蘇る。
『むずかしい むこうだと』
 この異様な光景を前に、その意味が、ほんの少しだけわかった気がした。

 容姿を褒められるのも、異性に好かれるのも、多少なら、それはありがたいことだろう。
 だけど、イジュンに向けられるそれは、正直、度を超しすぎている。

「イジュン先輩ー! こっち向いてください! 写真、写真撮らせてくださいー!」
「馬鹿野郎。撮影禁止だ! スマホ没収すんぞ!」

「行こう、イジュン。一刻も早く逃げたほうがいい」
 青柳先生が女子生徒を堰き止めてくれている間に、このカオスな状況から逃げ出さなくちゃいけない。

「美術室、どっち? こっち?」
「違う、こっち。でも——抜け道を使ったほうが安全かも。向こうから行こう」

 青柳先生のバリケードをすり抜けた女子が、一斉にイジュンに向かって駆け寄ってくる。
 俺は咄嗟に、イジュンの手を掴んで引っ張ってしまった。

 慌てて離そうとして、ぎゅっと握り返される。
「僕は行き方、わからないから。成瀬くんが教えて」
 五月といえども、今日は西日がきつい。
 イジュンのきれいな白い手を、手汗で汚してしまうんじゃないかって、心配になった。

 だけど——迷ってる場合じゃない。
 勝手に写真を撮られて、イジュンが嫌な思いをすることになったら。
 そんなのは、絶対にダメだ。

 せっかく楽しい青春を送りたくて、わざわざ海を越えて、日本に来てくれたのに。
 もう手遅れかもしれないけれど。
 できればイジュンには、日本を嫌いになってほしくない。

「こっち! 一旦、階段を降りよう!」
 本当は廊下を走ったらダメだ。それでも、途中ですれ違った先生たちは俺たちを咎めず、追ってくる女子生徒たちを叱って足止めしてくれた。

 久々の全力疾走。息が切れて、肺のあたりが痛い。
 汗だくでへろへろになった俺とは対照的に、イジュンはちっとも呼吸が乱れていない。

 それどころか——。
 イジュンの表情を見て、俺は、思わず心臓を鷲掴みにされたみたいに、動けなくなった。

 なんて顔、してるんだよ。
 どうして——そんなに楽しそうに、幸せそうに笑えるんだ。

「成瀬くん、ありがと! 逃げ切ったね。成瀬くんのおかげだ」
 
 まるで、遊園地ではしゃぐ子どもみたいに、無邪気な笑顔だ。
 真夏に咲くひまわりみたいな、眩しくて目が灼かれてしまいそうな、輝く笑顔。

 描きたい、と思った。
 極端な美形は、今まで、一度も描いたことがない。
 普通の、どこにでもいる人ばかり描いてきた俺だけれど。
 この笑顔は、いつか、絶対に描きたい。

 忘れたくない。全部。
 全部、記憶したい。
 余すとこなく、全部。

 どれくらい、そうして見つめていたのだろう。
 気づけば、イジュンの笑顔が、戸惑いに変わっていた。

「成瀬くん……?」
 名前を呼ばれ、我に返った。

「あ、ご、ごめん……っ」
 ダメだ。忘れてた。俺の顔は、怖いんだ。
 ただでさえ、目つきが悪い上に、左の眉を断ち切るように、古傷が走っている。
 こんな顔で凝視されたら、誰だって嫌な気持ちになるに決まってる。

 慌てて視線を逸らした俺に、イジュンは心配そうな声で、「大丈夫?」と尋ねてくる。
 顔を覗き込まれそうになって、咄嗟に背を向ける。
 そのとき——
「あ、いた! イジュンくんだ!」
 まずい。女子生徒に見つかってしまったみたいだ。

「成瀬くん、行こう! どっち?」
 イジュンが、俺の手を掴む。
「……この角を曲がって、突き当たりの教室」
「了解」
 さっきは俺が先導して走った廊下を、今度は、イジュンに手を引かれて走る。

 なぜだかわからないけれど。
 俺は、少しだけ泣きたい気持ちになってしまった。