「わ、成瀬くん、大丈夫!?」
真っ先に駆け寄ってきたのは、イジュンだった。
俺が動くより早くしゃがみ込み、転がった水筒を拾い上げる。
「はい」
差し出された水筒を受け取ろうとしたけれど、うまく手が動かなかった。
イジュンは不思議そうに眉を下げると、水筒を俺の机の上にそっと置いた。
頭がぼーっとする。
心臓がバクバク暴れて、お礼の言葉さえ出てこない。
「えー、『海辺の青春100リスト』ってなに?」
「俺も知らない。なんだ、それ。知ってるやつ、いる?」
長浜が教室を見渡したけれど、誰も手を挙げなかった。
「江ノ島の近くの高校が舞台の漫画で、すっごく面白いんだよ。僕はその漫画が大好きで、同じように海の見える高校に通いたくて、この学校を選んだんだ」
「えっ、もしかしてイジュンって、そんなにイケメンなのに、漫画オタクなの?」
ダメだ、イジュン。
オタクだってバレたら、きっと肩身の狭い思いをすることになる。
違うって言え。
俺の心の声は届かず、イジュンは迷いのない笑顔で肯定してしまった。
「うん。オタクだよ。漫画もアニメも、大好き!」
「えー、意外。どういうのが好きなの? ジャンプとかも読む?」
あれ……。
なんでだ。
全然、引いてない。
むしろ、みんな、イジュンの周りに集まってる……?
「読むよ! 今のジャンプだとね、あれが好き。日本刀のやつ」
「え、俺も! あれ、めちゃくちゃ面白いよな!」
男子の一人が声を上げると、その隣からも「あれなら俺も読んでる」と声が飛んだ。
なんだ、それ。
美術部を、根暗だって馬鹿にしていたくせに。
オタクを、キモいって思ってるくせに。
どうして——イケメンだと、許されるんだよ。
ダメだ。
イジュンは、何も悪くない。
それなのに、胸の奥に生まれたモヤモヤは、消えるどころか、どんどん大きくなってしまう。
「おーい、お前ら。なに騒いでんだ?」
青柳先生が、勢いよく教室の扉を開けた。
「昼休み終わり! 教科書開け。早速当てんぞ! 答えられなかったやつ、居残りな」
青柳先生が、ドンッと教卓を叩くと、蜘蛛の子を散らすように、みんな自分の席に駆け戻ってゆく。
イジュンも、俺の隣の席に腰を下ろす。
そして、タブレットに何かを書いて、俺に見せてきた。
『なるせくんは しってる?』
ドクン、と、心臓がひときわ大きく跳ね上がる。
『海辺の青春100リスト』
それは、江ノ島の近くにある高校に通う男子高校生三人の、ゆるっとした日常を描いたSNS上の連載漫画のことだ。
二年前の春、三人が入学するところから始まり、海辺の街で過ごす、なんでもない日々が描かれている。
知らないわけがない。
だって、その作品の作者は、俺なんだから。
知らないわけがないけれど——
誰にも、明かすわけにはいかない。
友だちが一人もいない俺が作り上げた、理想の友情物語。
主人公は、小柄で優しい顔立ちの少年。
小動物みたいに愛らしくて、誰からも怖がられない。
ちょっとヤンチャだけど気のいい陽キャな友人と、世話焼きで真面目な友人。
そんな二人に囲まれて、いつも楽しそうに過ごしている。
ある意味、イマジナリーフレンドだ。
現実では誰とも友だちになれない俺が、架空の世界で、自分とは正反対の小さくて愛される少年になって、欲しかった青春を送り続けている。
ものすごく気持ち悪いことをしている、という自覚はある。
だから、絶対にバレるわけにはいかない。
たとえ相手が、優しそうに見えるイジュンであっても。
『知らない』
そう書くボールペンの先が、少し震えた。
ノートの端に書いた文字を見せると、イジュンは見るからに残念そうな顔をした。
『すごく いいよ よかったら よんでみて』
『ぼくの たからもの』
『あんなふうにすごしたくて にほんに きたんだ』
涙が、溢れてしまいそうになった。
確かにフォロワーは多い。
でも、コメント欄で目立つのは、三人のうち誰と誰がくっつくのかを予想する言葉ばかりだ。
『友情のまま終わるなんてもったいない!』
『早く本当の気持ちに気づいて』
そんなコメントを読むたび、少しだけ寂しくなる。
自分の描いた漫画を読んでもらえて、好きになってもらえるのは、とてもありがたい。
だけど俺は、恋が始まる前段階として、三人の友情を描いているわけじゃない。
三人が仲のいい友だちでいること自体が、俺の描きたい、いちばん大切な物語なのだ。
そんななか、三人の友情そのものを大切に読んでくれる人が、一人だけいる。
顔も年齢も性別も知らない。
それでも、更新するたび、誰より早く感想をくれる。
俺が描いた細かな背景や何気ないセリフに込められた意図まで見つけてくれる、いちばん信頼している読者だ。
けれど、その人からさえ、こんなふうに漫画の中の暮らしそのものに憧れたと言ってもらったことは、一度もない。
漢字だと読めないかもしれないと思い、ひらがなで書いてみる。
『かんこくにも、たくさんともだちいるだろ? たのしくすごせてたんじゃないの?』
イジュンが目を伏せると、長いまつ毛が白い肌に影を落とした。
少し考えたあと、タブレットにペン先を走らせる。
『むずかしい むこうだと』
どうして? とは、聞けなかった。
人には、きっと事情がある。
それは、安易に踏み込んだらダメな部分だ。
『すぐ できる もう できたんじゃない?』
『なるせ ともだち?』
俺に向けられるイジュンの目があまりにも期待に満ち溢れていて。
『もう長浜たちと友だちになっただろ』とは、書けなかった。
何か事情があって、母国では友だちが作れなかったのだろうか。
誰でもいいから、一人でも多く友だちが欲しいだけなのかもしれない。
『おれでよければ』
ノートに書いた文字は、情けないくらい震えていた。
本当は、俺なんかと友だちになりたいわけじゃないのかもしれない。
それでも、勘違いして笑われる方が、イジュンを不用意に傷つけるよりずっといい。
『やったぁ!』
イジュンはタブレットいっぱいに、びっくりするほど大きな字でそう書いた。
胸の奥で、何かが弾けた。
笑われなかった。
勘違いでもなかった。
『なるせくん にてる』
『だれに?』
返事を書いたそのとき、手元のノートを奪われた。
見上げると、目の前に、恐ろしい顔をした青柳先生が仁王立ちしていた。
「おい、お前ら。授業中に何してんだ?」
「すみません。僕が日本語でわからないことを成瀬くんに聞いてました」
イジュンは素早く立ち上がると、青柳先生に真剣な表情で謝罪した。
「ったく——。わからねぇときはな、教師の俺に聞け。いいか? いつでも、何度でも、どんな些細なことでもいいからな。聞きにくかったら、授業が終わったあとでもいい。わかったか?」
「はい!」
身体はごついし、顔も怖い。けれど、青柳先生はとても面倒見がいい。
「よし。わかったら、もうほかのことすんなよ」
よかった。奥のページまでは見られずに済んだみたいだ……。
青柳先生は、俺のノートをパタンと閉じて、返してくれた。
没収されたら、一大事だ。
このノートには、『海辺の青春100リスト』のネームやプロットが書かれている。普段は人目に触れないよう隠しているのに、今日は筆談に夢中で、すっかり無防備になっていた。
あと一枚めくられていたら、終わっていた。
今日、帰りに新しいノートを買おう。
今までのノートは、全部封印する。
せっかくできた初めての友だちを、失わないために。
真っ先に駆け寄ってきたのは、イジュンだった。
俺が動くより早くしゃがみ込み、転がった水筒を拾い上げる。
「はい」
差し出された水筒を受け取ろうとしたけれど、うまく手が動かなかった。
イジュンは不思議そうに眉を下げると、水筒を俺の机の上にそっと置いた。
頭がぼーっとする。
心臓がバクバク暴れて、お礼の言葉さえ出てこない。
「えー、『海辺の青春100リスト』ってなに?」
「俺も知らない。なんだ、それ。知ってるやつ、いる?」
長浜が教室を見渡したけれど、誰も手を挙げなかった。
「江ノ島の近くの高校が舞台の漫画で、すっごく面白いんだよ。僕はその漫画が大好きで、同じように海の見える高校に通いたくて、この学校を選んだんだ」
「えっ、もしかしてイジュンって、そんなにイケメンなのに、漫画オタクなの?」
ダメだ、イジュン。
オタクだってバレたら、きっと肩身の狭い思いをすることになる。
違うって言え。
俺の心の声は届かず、イジュンは迷いのない笑顔で肯定してしまった。
「うん。オタクだよ。漫画もアニメも、大好き!」
「えー、意外。どういうのが好きなの? ジャンプとかも読む?」
あれ……。
なんでだ。
全然、引いてない。
むしろ、みんな、イジュンの周りに集まってる……?
「読むよ! 今のジャンプだとね、あれが好き。日本刀のやつ」
「え、俺も! あれ、めちゃくちゃ面白いよな!」
男子の一人が声を上げると、その隣からも「あれなら俺も読んでる」と声が飛んだ。
なんだ、それ。
美術部を、根暗だって馬鹿にしていたくせに。
オタクを、キモいって思ってるくせに。
どうして——イケメンだと、許されるんだよ。
ダメだ。
イジュンは、何も悪くない。
それなのに、胸の奥に生まれたモヤモヤは、消えるどころか、どんどん大きくなってしまう。
「おーい、お前ら。なに騒いでんだ?」
青柳先生が、勢いよく教室の扉を開けた。
「昼休み終わり! 教科書開け。早速当てんぞ! 答えられなかったやつ、居残りな」
青柳先生が、ドンッと教卓を叩くと、蜘蛛の子を散らすように、みんな自分の席に駆け戻ってゆく。
イジュンも、俺の隣の席に腰を下ろす。
そして、タブレットに何かを書いて、俺に見せてきた。
『なるせくんは しってる?』
ドクン、と、心臓がひときわ大きく跳ね上がる。
『海辺の青春100リスト』
それは、江ノ島の近くにある高校に通う男子高校生三人の、ゆるっとした日常を描いたSNS上の連載漫画のことだ。
二年前の春、三人が入学するところから始まり、海辺の街で過ごす、なんでもない日々が描かれている。
知らないわけがない。
だって、その作品の作者は、俺なんだから。
知らないわけがないけれど——
誰にも、明かすわけにはいかない。
友だちが一人もいない俺が作り上げた、理想の友情物語。
主人公は、小柄で優しい顔立ちの少年。
小動物みたいに愛らしくて、誰からも怖がられない。
ちょっとヤンチャだけど気のいい陽キャな友人と、世話焼きで真面目な友人。
そんな二人に囲まれて、いつも楽しそうに過ごしている。
ある意味、イマジナリーフレンドだ。
現実では誰とも友だちになれない俺が、架空の世界で、自分とは正反対の小さくて愛される少年になって、欲しかった青春を送り続けている。
ものすごく気持ち悪いことをしている、という自覚はある。
だから、絶対にバレるわけにはいかない。
たとえ相手が、優しそうに見えるイジュンであっても。
『知らない』
そう書くボールペンの先が、少し震えた。
ノートの端に書いた文字を見せると、イジュンは見るからに残念そうな顔をした。
『すごく いいよ よかったら よんでみて』
『ぼくの たからもの』
『あんなふうにすごしたくて にほんに きたんだ』
涙が、溢れてしまいそうになった。
確かにフォロワーは多い。
でも、コメント欄で目立つのは、三人のうち誰と誰がくっつくのかを予想する言葉ばかりだ。
『友情のまま終わるなんてもったいない!』
『早く本当の気持ちに気づいて』
そんなコメントを読むたび、少しだけ寂しくなる。
自分の描いた漫画を読んでもらえて、好きになってもらえるのは、とてもありがたい。
だけど俺は、恋が始まる前段階として、三人の友情を描いているわけじゃない。
三人が仲のいい友だちでいること自体が、俺の描きたい、いちばん大切な物語なのだ。
そんななか、三人の友情そのものを大切に読んでくれる人が、一人だけいる。
顔も年齢も性別も知らない。
それでも、更新するたび、誰より早く感想をくれる。
俺が描いた細かな背景や何気ないセリフに込められた意図まで見つけてくれる、いちばん信頼している読者だ。
けれど、その人からさえ、こんなふうに漫画の中の暮らしそのものに憧れたと言ってもらったことは、一度もない。
漢字だと読めないかもしれないと思い、ひらがなで書いてみる。
『かんこくにも、たくさんともだちいるだろ? たのしくすごせてたんじゃないの?』
イジュンが目を伏せると、長いまつ毛が白い肌に影を落とした。
少し考えたあと、タブレットにペン先を走らせる。
『むずかしい むこうだと』
どうして? とは、聞けなかった。
人には、きっと事情がある。
それは、安易に踏み込んだらダメな部分だ。
『すぐ できる もう できたんじゃない?』
『なるせ ともだち?』
俺に向けられるイジュンの目があまりにも期待に満ち溢れていて。
『もう長浜たちと友だちになっただろ』とは、書けなかった。
何か事情があって、母国では友だちが作れなかったのだろうか。
誰でもいいから、一人でも多く友だちが欲しいだけなのかもしれない。
『おれでよければ』
ノートに書いた文字は、情けないくらい震えていた。
本当は、俺なんかと友だちになりたいわけじゃないのかもしれない。
それでも、勘違いして笑われる方が、イジュンを不用意に傷つけるよりずっといい。
『やったぁ!』
イジュンはタブレットいっぱいに、びっくりするほど大きな字でそう書いた。
胸の奥で、何かが弾けた。
笑われなかった。
勘違いでもなかった。
『なるせくん にてる』
『だれに?』
返事を書いたそのとき、手元のノートを奪われた。
見上げると、目の前に、恐ろしい顔をした青柳先生が仁王立ちしていた。
「おい、お前ら。授業中に何してんだ?」
「すみません。僕が日本語でわからないことを成瀬くんに聞いてました」
イジュンは素早く立ち上がると、青柳先生に真剣な表情で謝罪した。
「ったく——。わからねぇときはな、教師の俺に聞け。いいか? いつでも、何度でも、どんな些細なことでもいいからな。聞きにくかったら、授業が終わったあとでもいい。わかったか?」
「はい!」
身体はごついし、顔も怖い。けれど、青柳先生はとても面倒見がいい。
「よし。わかったら、もうほかのことすんなよ」
よかった。奥のページまでは見られずに済んだみたいだ……。
青柳先生は、俺のノートをパタンと閉じて、返してくれた。
没収されたら、一大事だ。
このノートには、『海辺の青春100リスト』のネームやプロットが書かれている。普段は人目に触れないよう隠しているのに、今日は筆談に夢中で、すっかり無防備になっていた。
あと一枚めくられていたら、終わっていた。
今日、帰りに新しいノートを買おう。
今までのノートは、全部封印する。
せっかくできた初めての友だちを、失わないために。

