卒業までに、きみとシたい100のこと

「これからも、二人きりで江ノ島を楽しみたくなったら、真夜中に来よう」
「別に、二人きりで楽しみたくならない」
「왜!?」
 俺の手を握るイジュンの手に、力がこもる。
「ほら、行くぞ。夜が明けちまう」
「稚児ヶ淵で、初日の出、見ようよ」
「初日の出ってのは、元旦の朝に見るものだ。一日ずれてる」
「一日ぐらい、誤差だよ!」
「それに、稚児ヶ淵からは、日の出は見えない。見るなら、中津宮からだ」
「じゃあ、中津宮から見る!」

 危ないとわかっているのに。
 結局、俺たちは手を繋いだまま、石段を登った。
 
 エスカーだけでなく、サムエル・コッキング苑も閉まっている。江島神社だけは、三社とも参拝できた。

「さすがにちょっと冷えてきたね!」
「帰るか?」
「日の出まで、あとどれくらい?」
「三時間くらい」
「成瀬くん、眠い?」
「別に眠くない。お前のしたいようにしろ。——俺は、お前のしたいようにしたい」
 絡めた指に、ぎゅっと力が入る。
「じゃあ、キスしたい」
「それはない」
「どうして!? 友だちのキスだよ!?」
「日本には、そんなキスはない! てか、韓国にはあるのか?」
「うーん……ないかも」
「じゃあなしだ」
「あったらいいの!?」
「言葉のあやだ!」

 正直、よくわからない。キスなんて、したことがないから。
 ただ、怖いんだ。もし、イジュンにキスをされて、気持ち悪いと思ってしまったら。
 そのせいで、イジュンを失うことになるのが怖い。

「仕方ない。少しずつ洗脳するしかないか」
「怖いこと言うな!」
「冗談だよ」
「やめろよ、そういうの」
「ごめんね。しないよ。成瀬くんが嫌なことは、何もしない。だから——ずっと、そばにいてほしい」
 イジュンは繋いだ手をコートのポケットから出して、唐突に、俺の手の甲に、ちゅ、と唇をつけた。
「おい! 言ってるそばからしてるじゃないか!」
「わ、ごめん。手もだめ? 唇だけ、ダメなのかと思った!」
「いい加減にしろ!」
 手を引こうとすると、慌てて謝罪された。
「ごめんなさい。二度としない。だから——許して」
 絡み合ったままの指。振り解こうと思えば、振り解けるはずなのに。
 俺はイジュンの滑らかな指を、振り解くことができなかった。
 まるで最初からその形だったみたいに、二つの手がぴったりと重なっている。

 ああ、そうか。手の大きさも、同じなんだ。
 だから、こんなにもしっくりくる。
 なるほどな、と、イジュンの手の感触を確かめながら、俺は思った。

 ちょっと、怖い。
 手の甲にキスされたとき、ちっとも気持ち悪くなかった。
 むしろ、イジュンの唇から気持ちが流れ込んでくるみたいで、なんだか無性に——。
 ダメだ。これ以上考えちゃいけない。
 俺は、頭の中に浮かんだ感情を追い払うように、大きく頭を振った。

「もし、成瀬くんが寒さ平気なら、サムエル・コッキング苑前の公園で、今までのリストの振り返りをしよう」
 イジュンは背負っていたバックパックから、タブレットを取り出した。
「振り返り?」
「うん。僕らの、『海辺の青春100リスト』コンプリートの軌跡だよ」
「まだコンプしてないだろ。大体、軌跡、なんて言葉、どこで覚えた」
「えっと……AIが教えてくれた」
「わざわざ事前に考えて、AIに翻訳させたってことか?」
「細かいことは気にしたらだめ。見て、これが今の達成状況!」
 じゃーん、と効果音付きで見せられた画面。そこには、ずらりと海100リストの扉絵が並んでいた。タブレットで見ると圧巻だ。
 ひとつめは、なんだっただろう。ああ、弁天橋から撮った、江ノ島の写真か。
 扉絵には三人が描かれているけれど、タップすると、ほとんどがイジュン一人で写った写真に変わった。
 一枚だけ、ライトアップされたシーキャンドルの前で写る、俺とイジュン、二人の写真がある。
 さっき、江島神社の境内で撮った写真をアップすれば——。
「二人の写真が、二枚になったね!」
 イジュンがあまりにも嬉しそうな顔で笑うから、俺もつられて頬が緩んだ。

「残りの分、全部、二人の写真にしたい」
「日本に、帰って来れるのか?」
 イジュンは少し考えるような仕草をした後、帽子を脱いだ。
 プラチナブロンドの髪が、さらりとこぼれ落ちる。
「黒染めしないとダメだね」
「事務所に叱られないのか?」
「大丈夫。卒業までは好きにしていいって言われてるから」
 イジュンはそう答えた後、ハッとしたように顔を上げた。
「たいへん! 成瀬くんに会えるの嬉しすぎて、すっかり忘れてた。海100リストの読み切り版の掲載、今日じゃない!?」
「だからか。さっきから、SNSの通知がぶっ壊れてる」
「掲載告知のポストとか、ちゃんとした?」
「予約投稿した」
「読もう!」
「ここでか?」
「寒い? 寒かったら僕のコートの中に入れてあげる」
「断る。大体、同じ大きさで、どうやって一緒に入るんだよ!」
「こういうときだけ、成瀬くんを縮めるスモールライトが欲しい」
「ふざけんな」
 軽くどつくと、イジュンは、嘘だよ、と笑みを深めた。
「僕は、いつだって目線の高さが合う成瀬くんが好き。きっと、キスもしやすくて便利」
「キスなんかするわけないだろ!」
 反論しながら、手の甲にキスされたのを思い出す。
 イジュンの唇が触れたそこが、じん、と熱を帯びたようだった。

 夜明け前のベンチに座って、身を寄せ合うように、タブレットを覗き込む。
「すごい、すごい、すごい! 成瀬くんの漫画、こんな有名なアプリに載ってる!」 
「いいから黙って読め」
 興奮状態から一転。イジュンは急に真顔になった。
 そして、じっとタブレットを見つめる。
 正直に言うと、反応がとても心配だ。

 『海辺の青春100リスト』
 表向きは、直斗、大毅、祐介という三人の男子高校生が、海辺で過ごす日常を描いた物語。
 だけど本当は、入学式の日に水難事故で亡くなった直斗を、大毅と祐介が悼むための物語だった。
 二人は直斗のアクスタを持ち歩き、三人で過ごすはずだった高校生活を、一つずつ実現してゆく。
 読者にはそのアクスタが『生きた人間』のように見え、直斗が亡くなっていることは、作中では語られない。
 ただ、直斗には影がない。窓ガラスにも鏡にも映らない。
 食べ物を買うときは、いつも二人分。直斗が、大毅と祐介以外の誰かと会話する場面も、一度もない。
 そんな違和感が散りばめられているのに、表面上は、三人の楽しい日々が続いてゆく。

 更新するたび、SNS上にはさまざまな考察が飛び交った。
 最終回で、すべての種明かしをする予定だった。
 三年間、直斗を悼み続けた大毅と祐介が、高校卒業と同時に、アクスタを持ち歩く日々からも卒業する。
 二人は直斗の墓にアクスタを供え、それぞれの道を歩み始めるのだ。

 今思えば、とてつもなく青くさい設定だと思う。
 だけど、これを考案した当時、十五歳の俺は、それがいちばんよい形だと思っていた。

「嘘……、直斗、死んでないの……?」
 商業版でも、直斗は水難事故に遭う。
 高校の入学式当日、溺れそうになった子どもを助け、意識不明の重体に陥るのだ。
 だけど、商業版の直斗は死なない。
 意識が戻らないまま、病院のベッドで眠り続けている。
 面会できるのは家族だけ。病室前の廊下で憔悴しきっていた大毅と祐介のもとに、天使が舞い降りるのだ。

「ちょっと待って。これ、僕!?」
 天使を指差し、イジュンが叫ぶ。
「すまん。担当編集さんに『天使キャラを出しませんか?』って提案されて、お前の顔しか、思い浮かばなかった」
 ついこの間、SIELのイラストを投下したばかりだ。
 髪型はイジュンだけれど、天使キャラには、泣きぼくろまである。このキャラデザを見て、読者は相当ざわついているはずだ。
 
 イジュン似の天使は、二人に告げる。
「清らかな魂には、一度だけ、元の体に戻るチャンスがあるんだ。——本当に戻れるかどうかは、きみたち次第。どうする? 挑戦してみる?」

 課せられた試練は、100の善行を積むこと。
 天使から与えられたリストに沿って、大毅と祐介は人助けをしてゆく。
 リストに記されたのは、どれも些細な頼み事だった。
 宝物のピアスをなくした少女と一緒にピアスを探す、とか、家出した飼い猫を見つけてあげる、とか、そんな頼み事ばかりだ。
 大毅と祐介は、直斗のアクリルスタンドと共に、必死にリストをこなしてゆく。
 そして10個目の善行を達成したとき、直斗が霊体となって二人の前に現れる。
 そこから残りの90個を、霊体の直斗と三人で叶えていく。

 人助けを一つ終えるたび、三人は助けた人と一緒に写真を撮る。その写真が、各話の扉絵になる。
 霊体の直斗も写真には写る。作中でその姿が見えるのは、大毅と祐介だけ。ただし、物語を読んでいる読者には、常に直斗の姿も見えている。
 SNS版の扉絵はいつも三人だったけど、商業版では、四人、五人、六人と、写る人数はまちまちだ。

 100の善行を終えたとき、助けた人のうち一人でも二人のことを忘れていたら、直斗の魂は戻ってこられない。
 だから、絶対に忘れられないように。大毅と祐介は、最高の形で、皆の願いを叶えようと奮闘する。

「これは、応援したくなるね。続きが見たいって心から思う」
 読み切りを読み終えた後、イジュンは、夜空を見上げて嘆息した。

「皆が、そう思っていてくれたらいい。そしたら、打ち切られずに、ちゃんとリストをコンプできる」
「きっと、できるよ! きっと、みんなの心に届く!」
 イジュンはタブレットを大切そうに抱きしめて叫んだ。

「僕、目標ができたよ! 海100リストがアニメ化したとき、主題歌を作って、僕が歌いたい。採用してもらえるくらい、すごい曲を作れるようにたくさん頑張る!」
「いや、お前のギャラ、高過ぎて無理だろ。そもそも、アニメ化とか。夢デカすぎるし!」
「でっかくないよ。成瀬くんは漫画で、世界中の人の心を揺さぶる。僕は歌で、世界中の人の心を揺さぶる。——僕らなら、絶対にできるよ!」
 イジュンの表情は、真剣そのものだった。
 照れも虚勢もなく、本気でそんな未来を、信じているみたいだ。
「やろう!」
 手のひらを差し出され、俺は反射的に、ぱんっとその手に自分の手を重ねた。
 いつだったか、イジュンにハイタッチを求められたとき、壊してしまいそうで、怖くてできなかった。
 だけど、今ならできる。イジュンは壊れない。
 俺が全力でぶつかっていったって、きっと笑顔で受け止めてくれる。
 イジュンは、そのまま俺の手を、ぎゅうう、と強く、強く握りしめた。

 気づけば、日の出の時間が迫っていた。
「しまった。急がないと……!」
 手を取り合い、石段を降りて、中津宮へと向かう。
 すっかり空が白み始めていたけれど、なんとか、朝日が昇るのを眺めることができた。

「成瀬くん、今夜のこと、リストにする?」
「したければ、しろ」
「描いてくれるの!?」
「ああ。ただ、SNS版の更新は、いったん止めろって言われてる。結末はSNSに載せないほうが、連載を読んでもらえるから」
「じゃあ、僕だけのために描いてくれるってこと?」
「そうなるな。受験の後になるだろうし、連載準備もあるから、ラフな感じになるかもだけど」
「嬉しいよ! 今回の扉絵は、中津宮で日の出を眺めながら、ファーストキス?」
「は!? 誰がそんなこと——」
 イジュンの顔が、泣き笑いみたいな笑顔になる。
「冗談だよ。困らせて、ごめん、封印するよ。成瀬くんの嫌なことは、全部封印する。——友だちで、いい。それでも、そばにいたい」
 あまりにも悲しそうな顔で言うから、放っておくことなんて、できるはずがなかった。
 腕を掴んで、引き寄せる。
 同じ高さで、視線がぶつかり合う。
 俺は小さく深呼吸して、告げた。
「さっきの。嫌じゃ、なかった。多分、エロいのじゃなければ、平気」
 イジュンの目が、大きく見開かれる。
「無理、してない……?」
「してない。まだ、ちょっと不安だ。だけど——お前のしたいことが、俺のしたいことでもあるから。俺は、お前が笑ってるところが見たい」
 それが、すべてだった。
 友情とは違う、未知の感情。イジュンの笑顔を見るためなら、それを少しずつ知っていきたい。
 きっと、理解するまでには時間がかかる。
 だけど——その相手がイジュンなら、いいと思った。
 他の誰より、イジュンがいい。

 イジュンの顔が、近づいてくる。
 こういうとき、どうしたらいいんだ?
 そもそも、俺が動くべきなんじゃないのか?
 頭ではそう思うけど、全身がこわばって、一ミリも体が動かない。
 棒立ちになった俺の唇に、イジュンは、そっと唇を寄せた。
 ほんの少しだけ触れて、すぐに離れる。
「気持ち……悪く、ない?」
 心配そうに問われ、俺は、韓国語で答えた。
「전혀 역겹지 않아(気持ち悪くない)」
 イジュンは、ぎゅっと俺を抱きしめると、「もう一度、してもいい?」と尋ねた。
 俺が頷くと、今度は、さっきよりも長く、くちづけてきた。
 一瞬、体がこわばった。だけど、逃げなかった。
 重ねた手のひらと同じ。
 まるで最初から、そこにあったみたいに、イジュンの体も唇も、俺の体や唇にぴったりだった。
 バカだな、俺たち。
 寒い中、何時間も待ち続けたのに。
 結局、たいして日の出を見ずに、抱き合って、キスを交わしてる。
 長い、長い、キス。
 ようやく唇が離れたときには、太陽は昇り切っていた。

「愛してる。成瀬くんのことが、大好きだ」
 イジュンの声が、ほんの少し、震えていた。

「아직 완전히 같지는 않아. 하지만 조금씩 네가 말하는 ‘좋아해’와 내가 말하는 ‘좋아해’가 가까워지고 있는지도 몰라.(今も、まだ完全に同じじゃない。だけど少しずつ、お前の「好き」と俺の「好き」は、近づいているのかもしれない)」

 イジュンのことを笑えない。俺だって、用意してきたのだ。
 AIで翻訳して、必死で覚えてきた。
 たどたどしく告げると、イジュンは俺を力いっぱい抱きしめた。
 
 目を閉じていてもわかるほど、朝日が眩く輝いている。

 最初に交わした握手では、手を握り返すことさえできなかったけれど。
 俺はイジュンの体に目いっぱい腕を回して、きつく、きつく、抱きしめた。