「これからも、二人きりで江ノ島を楽しみたくなったら、真夜中に来よう」
「別に、二人きりで楽しみたくならない」
「왜!?」
俺の手を握るイジュンの手に、力がこもる。
「ほら、行くぞ。夜が明けちまう」
「稚児ヶ淵で、初日の出、見ようよ」
「初日の出ってのは、元旦の朝に見るものだ。一日ずれてる」
「一日ぐらい、誤差だよ!」
「それに、稚児ヶ淵からは、日の出は見えない。見るなら、中津宮からだ」
「じゃあ、中津宮から見る!」
危ないとわかっているのに。
結局、俺たちは手を繋いだまま、石段を登った。
エスカーだけでなく、サムエル・コッキング苑も閉まっている。江島神社だけは、三社とも参拝できた。
「さすがにちょっと冷えてきたね!」
「帰るか?」
「日の出まで、あとどれくらい?」
「三時間くらい」
「成瀬くん、眠い?」
「別に眠くない。お前のしたいようにしろ。——俺は、お前のしたいようにしたい」
絡めた指に、ぎゅっと力が入る。
「じゃあ、キスしたい」
「それはない」
「どうして!? 友だちのキスだよ!?」
「日本には、そんなキスはない! てか、韓国にはあるのか?」
「うーん……ないかも」
「じゃあなしだ」
「あったらいいの!?」
「言葉のあやだ!」
正直、よくわからない。キスなんて、したことがないから。
ただ、怖いんだ。もし、イジュンにキスをされて、気持ち悪いと思ってしまったら。
そのせいで、イジュンを失うことになるのが怖い。
「仕方ない。少しずつ洗脳するしかないか」
「怖いこと言うな!」
「冗談だよ」
「やめろよ、そういうの」
「ごめんね。しないよ。成瀬くんが嫌なことは、何もしない。だから——ずっと、そばにいてほしい」
イジュンは繋いだ手をコートのポケットから出して、唐突に、俺の手の甲に、ちゅ、と唇をつけた。
「おい! 言ってるそばからしてるじゃないか!」
「わ、ごめん。手もだめ? 唇だけ、ダメなのかと思った!」
「いい加減にしろ!」
手を引こうとすると、慌てて謝罪された。
「ごめんなさい。二度としない。だから——許して」
絡み合ったままの指。振り解こうと思えば、振り解けるはずなのに。
俺はイジュンの滑らかな指を、振り解くことができなかった。
まるで最初からその形だったみたいに、二つの手がぴったりと重なっている。
ああ、そうか。手の大きさも、同じなんだ。
だから、こんなにもしっくりくる。
なるほどな、と、イジュンの手の感触を確かめながら、俺は思った。
ちょっと、怖い。
手の甲にキスされたとき、ちっとも気持ち悪くなかった。
むしろ、イジュンの唇から気持ちが流れ込んでくるみたいで、なんだか無性に——。
ダメだ。これ以上考えちゃいけない。
俺は、頭の中に浮かんだ感情を追い払うように、大きく頭を振った。
「もし、成瀬くんが寒さ平気なら、サムエル・コッキング苑前の公園で、今までのリストの振り返りをしよう」
イジュンは背負っていたバックパックから、タブレットを取り出した。
「振り返り?」
「うん。僕らの、『海辺の青春100リスト』コンプリートの軌跡だよ」
「まだコンプしてないだろ。大体、軌跡、なんて言葉、どこで覚えた」
「えっと……AIが教えてくれた」
「わざわざ事前に考えて、AIに翻訳させたってことか?」
「細かいことは気にしたらだめ。見て、これが今の達成状況!」
じゃーん、と効果音付きで見せられた画面。そこには、ずらりと海100リストの扉絵が並んでいた。タブレットで見ると圧巻だ。
ひとつめは、なんだっただろう。ああ、弁天橋から撮った、江ノ島の写真か。
扉絵には三人が描かれているけれど、タップすると、ほとんどがイジュン一人で写った写真に変わった。
一枚だけ、ライトアップされたシーキャンドルの前で写る、俺とイジュン、二人の写真がある。
さっき、江島神社の境内で撮った写真をアップすれば——。
「二人の写真が、二枚になったね!」
イジュンがあまりにも嬉しそうな顔で笑うから、俺もつられて頬が緩んだ。
「残りの分、全部、二人の写真にしたい」
「日本に、帰って来れるのか?」
イジュンは少し考えるような仕草をした後、帽子を脱いだ。
プラチナブロンドの髪が、さらりとこぼれ落ちる。
「黒染めしないとダメだね」
「事務所に叱られないのか?」
「大丈夫。卒業までは好きにしていいって言われてるから」
イジュンはそう答えた後、ハッとしたように顔を上げた。
「たいへん! 成瀬くんに会えるの嬉しすぎて、すっかり忘れてた。海100リストの読み切り版の掲載、今日じゃない!?」
「だからか。さっきから、SNSの通知がぶっ壊れてる」
「掲載告知のポストとか、ちゃんとした?」
「予約投稿した」
「読もう!」
「ここでか?」
「寒い? 寒かったら僕のコートの中に入れてあげる」
「断る。大体、同じ大きさで、どうやって一緒に入るんだよ!」
「こういうときだけ、成瀬くんを縮めるスモールライトが欲しい」
「ふざけんな」
軽くどつくと、イジュンは、嘘だよ、と笑みを深めた。
「僕は、いつだって目線の高さが合う成瀬くんが好き。きっと、キスもしやすくて便利」
「キスなんかするわけないだろ!」
反論しながら、手の甲にキスされたのを思い出す。
イジュンの唇が触れたそこが、じん、と熱を帯びたようだった。
夜明け前のベンチに座って、身を寄せ合うように、タブレットを覗き込む。
「すごい、すごい、すごい! 成瀬くんの漫画、こんな有名なアプリに載ってる!」
「いいから黙って読め」
興奮状態から一転。イジュンは急に真顔になった。
そして、じっとタブレットを見つめる。
正直に言うと、反応がとても心配だ。
『海辺の青春100リスト』
表向きは、直斗、大毅、祐介という三人の男子高校生が、海辺で過ごす日常を描いた物語。
だけど本当は、入学式の日に水難事故で亡くなった直斗を、大毅と祐介が悼むための物語だった。
二人は直斗のアクスタを持ち歩き、三人で過ごすはずだった高校生活を、一つずつ実現してゆく。
読者にはそのアクスタが『生きた人間』のように見え、直斗が亡くなっていることは、作中では語られない。
ただ、直斗には影がない。窓ガラスにも鏡にも映らない。
食べ物を買うときは、いつも二人分。直斗が、大毅と祐介以外の誰かと会話する場面も、一度もない。
そんな違和感が散りばめられているのに、表面上は、三人の楽しい日々が続いてゆく。
更新するたび、SNS上にはさまざまな考察が飛び交った。
最終回で、すべての種明かしをする予定だった。
三年間、直斗を悼み続けた大毅と祐介が、高校卒業と同時に、アクスタを持ち歩く日々からも卒業する。
二人は直斗の墓にアクスタを供え、それぞれの道を歩み始めるのだ。
今思えば、とてつもなく青くさい設定だと思う。
だけど、これを考案した当時、十五歳の俺は、それがいちばんよい形だと思っていた。
「嘘……、直斗、死んでないの……?」
商業版でも、直斗は水難事故に遭う。
高校の入学式当日、溺れそうになった子どもを助け、意識不明の重体に陥るのだ。
だけど、商業版の直斗は死なない。
意識が戻らないまま、病院のベッドで眠り続けている。
面会できるのは家族だけ。病室前の廊下で憔悴しきっていた大毅と祐介のもとに、天使が舞い降りるのだ。
「ちょっと待って。これ、僕!?」
天使を指差し、イジュンが叫ぶ。
「すまん。担当編集さんに『天使キャラを出しませんか?』って提案されて、お前の顔しか、思い浮かばなかった」
ついこの間、SIELのイラストを投下したばかりだ。
髪型はイジュンだけれど、天使キャラには、泣きぼくろまである。このキャラデザを見て、読者は相当ざわついているはずだ。
イジュン似の天使は、二人に告げる。
「清らかな魂には、一度だけ、元の体に戻るチャンスがあるんだ。——本当に戻れるかどうかは、きみたち次第。どうする? 挑戦してみる?」
課せられた試練は、100の善行を積むこと。
天使から与えられたリストに沿って、大毅と祐介は人助けをしてゆく。
リストに記されたのは、どれも些細な頼み事だった。
宝物のピアスをなくした少女と一緒にピアスを探す、とか、家出した飼い猫を見つけてあげる、とか、そんな頼み事ばかりだ。
大毅と祐介は、直斗のアクリルスタンドと共に、必死にリストをこなしてゆく。
そして10個目の善行を達成したとき、直斗が霊体となって二人の前に現れる。
そこから残りの90個を、霊体の直斗と三人で叶えていく。
人助けを一つ終えるたび、三人は助けた人と一緒に写真を撮る。その写真が、各話の扉絵になる。
霊体の直斗も写真には写る。作中でその姿が見えるのは、大毅と祐介だけ。ただし、物語を読んでいる読者には、常に直斗の姿も見えている。
SNS版の扉絵はいつも三人だったけど、商業版では、四人、五人、六人と、写る人数はまちまちだ。
100の善行を終えたとき、助けた人のうち一人でも二人のことを忘れていたら、直斗の魂は戻ってこられない。
だから、絶対に忘れられないように。大毅と祐介は、最高の形で、皆の願いを叶えようと奮闘する。
「これは、応援したくなるね。続きが見たいって心から思う」
読み切りを読み終えた後、イジュンは、夜空を見上げて嘆息した。
「皆が、そう思っていてくれたらいい。そしたら、打ち切られずに、ちゃんとリストをコンプできる」
「きっと、できるよ! きっと、みんなの心に届く!」
イジュンはタブレットを大切そうに抱きしめて叫んだ。
「僕、目標ができたよ! 海100リストがアニメ化したとき、主題歌を作って、僕が歌いたい。採用してもらえるくらい、すごい曲を作れるようにたくさん頑張る!」
「いや、お前のギャラ、高過ぎて無理だろ。そもそも、アニメ化とか。夢デカすぎるし!」
「でっかくないよ。成瀬くんは漫画で、世界中の人の心を揺さぶる。僕は歌で、世界中の人の心を揺さぶる。——僕らなら、絶対にできるよ!」
イジュンの表情は、真剣そのものだった。
照れも虚勢もなく、本気でそんな未来を、信じているみたいだ。
「やろう!」
手のひらを差し出され、俺は反射的に、ぱんっとその手に自分の手を重ねた。
いつだったか、イジュンにハイタッチを求められたとき、壊してしまいそうで、怖くてできなかった。
だけど、今ならできる。イジュンは壊れない。
俺が全力でぶつかっていったって、きっと笑顔で受け止めてくれる。
イジュンは、そのまま俺の手を、ぎゅうう、と強く、強く握りしめた。
気づけば、日の出の時間が迫っていた。
「しまった。急がないと……!」
手を取り合い、石段を降りて、中津宮へと向かう。
すっかり空が白み始めていたけれど、なんとか、朝日が昇るのを眺めることができた。
「成瀬くん、今夜のこと、リストにする?」
「したければ、しろ」
「描いてくれるの!?」
「ああ。ただ、SNS版の更新は、いったん止めろって言われてる。結末はSNSに載せないほうが、連載を読んでもらえるから」
「じゃあ、僕だけのために描いてくれるってこと?」
「そうなるな。受験の後になるだろうし、連載準備もあるから、ラフな感じになるかもだけど」
「嬉しいよ! 今回の扉絵は、中津宮で日の出を眺めながら、ファーストキス?」
「は!? 誰がそんなこと——」
イジュンの顔が、泣き笑いみたいな笑顔になる。
「冗談だよ。困らせて、ごめん、封印するよ。成瀬くんの嫌なことは、全部封印する。——友だちで、いい。それでも、そばにいたい」
あまりにも悲しそうな顔で言うから、放っておくことなんて、できるはずがなかった。
腕を掴んで、引き寄せる。
同じ高さで、視線がぶつかり合う。
俺は小さく深呼吸して、告げた。
「さっきの。嫌じゃ、なかった。多分、エロいのじゃなければ、平気」
イジュンの目が、大きく見開かれる。
「無理、してない……?」
「してない。まだ、ちょっと不安だ。だけど——お前のしたいことが、俺のしたいことでもあるから。俺は、お前が笑ってるところが見たい」
それが、すべてだった。
友情とは違う、未知の感情。イジュンの笑顔を見るためなら、それを少しずつ知っていきたい。
きっと、理解するまでには時間がかかる。
だけど——その相手がイジュンなら、いいと思った。
他の誰より、イジュンがいい。
イジュンの顔が、近づいてくる。
こういうとき、どうしたらいいんだ?
そもそも、俺が動くべきなんじゃないのか?
頭ではそう思うけど、全身がこわばって、一ミリも体が動かない。
棒立ちになった俺の唇に、イジュンは、そっと唇を寄せた。
ほんの少しだけ触れて、すぐに離れる。
「気持ち……悪く、ない?」
心配そうに問われ、俺は、韓国語で答えた。
「전혀 역겹지 않아(気持ち悪くない)」
イジュンは、ぎゅっと俺を抱きしめると、「もう一度、してもいい?」と尋ねた。
俺が頷くと、今度は、さっきよりも長く、くちづけてきた。
一瞬、体がこわばった。だけど、逃げなかった。
重ねた手のひらと同じ。
まるで最初から、そこにあったみたいに、イジュンの体も唇も、俺の体や唇にぴったりだった。
バカだな、俺たち。
寒い中、何時間も待ち続けたのに。
結局、たいして日の出を見ずに、抱き合って、キスを交わしてる。
長い、長い、キス。
ようやく唇が離れたときには、太陽は昇り切っていた。
「愛してる。成瀬くんのことが、大好きだ」
イジュンの声が、ほんの少し、震えていた。
「아직 완전히 같지는 않아. 하지만 조금씩 네가 말하는 ‘좋아해’와 내가 말하는 ‘좋아해’가 가까워지고 있는지도 몰라.(今も、まだ完全に同じじゃない。だけど少しずつ、お前の「好き」と俺の「好き」は、近づいているのかもしれない)」
イジュンのことを笑えない。俺だって、用意してきたのだ。
AIで翻訳して、必死で覚えてきた。
たどたどしく告げると、イジュンは俺を力いっぱい抱きしめた。
目を閉じていてもわかるほど、朝日が眩く輝いている。
最初に交わした握手では、手を握り返すことさえできなかったけれど。
俺はイジュンの体に目いっぱい腕を回して、きつく、きつく、抱きしめた。
「別に、二人きりで楽しみたくならない」
「왜!?」
俺の手を握るイジュンの手に、力がこもる。
「ほら、行くぞ。夜が明けちまう」
「稚児ヶ淵で、初日の出、見ようよ」
「初日の出ってのは、元旦の朝に見るものだ。一日ずれてる」
「一日ぐらい、誤差だよ!」
「それに、稚児ヶ淵からは、日の出は見えない。見るなら、中津宮からだ」
「じゃあ、中津宮から見る!」
危ないとわかっているのに。
結局、俺たちは手を繋いだまま、石段を登った。
エスカーだけでなく、サムエル・コッキング苑も閉まっている。江島神社だけは、三社とも参拝できた。
「さすがにちょっと冷えてきたね!」
「帰るか?」
「日の出まで、あとどれくらい?」
「三時間くらい」
「成瀬くん、眠い?」
「別に眠くない。お前のしたいようにしろ。——俺は、お前のしたいようにしたい」
絡めた指に、ぎゅっと力が入る。
「じゃあ、キスしたい」
「それはない」
「どうして!? 友だちのキスだよ!?」
「日本には、そんなキスはない! てか、韓国にはあるのか?」
「うーん……ないかも」
「じゃあなしだ」
「あったらいいの!?」
「言葉のあやだ!」
正直、よくわからない。キスなんて、したことがないから。
ただ、怖いんだ。もし、イジュンにキスをされて、気持ち悪いと思ってしまったら。
そのせいで、イジュンを失うことになるのが怖い。
「仕方ない。少しずつ洗脳するしかないか」
「怖いこと言うな!」
「冗談だよ」
「やめろよ、そういうの」
「ごめんね。しないよ。成瀬くんが嫌なことは、何もしない。だから——ずっと、そばにいてほしい」
イジュンは繋いだ手をコートのポケットから出して、唐突に、俺の手の甲に、ちゅ、と唇をつけた。
「おい! 言ってるそばからしてるじゃないか!」
「わ、ごめん。手もだめ? 唇だけ、ダメなのかと思った!」
「いい加減にしろ!」
手を引こうとすると、慌てて謝罪された。
「ごめんなさい。二度としない。だから——許して」
絡み合ったままの指。振り解こうと思えば、振り解けるはずなのに。
俺はイジュンの滑らかな指を、振り解くことができなかった。
まるで最初からその形だったみたいに、二つの手がぴったりと重なっている。
ああ、そうか。手の大きさも、同じなんだ。
だから、こんなにもしっくりくる。
なるほどな、と、イジュンの手の感触を確かめながら、俺は思った。
ちょっと、怖い。
手の甲にキスされたとき、ちっとも気持ち悪くなかった。
むしろ、イジュンの唇から気持ちが流れ込んでくるみたいで、なんだか無性に——。
ダメだ。これ以上考えちゃいけない。
俺は、頭の中に浮かんだ感情を追い払うように、大きく頭を振った。
「もし、成瀬くんが寒さ平気なら、サムエル・コッキング苑前の公園で、今までのリストの振り返りをしよう」
イジュンは背負っていたバックパックから、タブレットを取り出した。
「振り返り?」
「うん。僕らの、『海辺の青春100リスト』コンプリートの軌跡だよ」
「まだコンプしてないだろ。大体、軌跡、なんて言葉、どこで覚えた」
「えっと……AIが教えてくれた」
「わざわざ事前に考えて、AIに翻訳させたってことか?」
「細かいことは気にしたらだめ。見て、これが今の達成状況!」
じゃーん、と効果音付きで見せられた画面。そこには、ずらりと海100リストの扉絵が並んでいた。タブレットで見ると圧巻だ。
ひとつめは、なんだっただろう。ああ、弁天橋から撮った、江ノ島の写真か。
扉絵には三人が描かれているけれど、タップすると、ほとんどがイジュン一人で写った写真に変わった。
一枚だけ、ライトアップされたシーキャンドルの前で写る、俺とイジュン、二人の写真がある。
さっき、江島神社の境内で撮った写真をアップすれば——。
「二人の写真が、二枚になったね!」
イジュンがあまりにも嬉しそうな顔で笑うから、俺もつられて頬が緩んだ。
「残りの分、全部、二人の写真にしたい」
「日本に、帰って来れるのか?」
イジュンは少し考えるような仕草をした後、帽子を脱いだ。
プラチナブロンドの髪が、さらりとこぼれ落ちる。
「黒染めしないとダメだね」
「事務所に叱られないのか?」
「大丈夫。卒業までは好きにしていいって言われてるから」
イジュンはそう答えた後、ハッとしたように顔を上げた。
「たいへん! 成瀬くんに会えるの嬉しすぎて、すっかり忘れてた。海100リストの読み切り版の掲載、今日じゃない!?」
「だからか。さっきから、SNSの通知がぶっ壊れてる」
「掲載告知のポストとか、ちゃんとした?」
「予約投稿した」
「読もう!」
「ここでか?」
「寒い? 寒かったら僕のコートの中に入れてあげる」
「断る。大体、同じ大きさで、どうやって一緒に入るんだよ!」
「こういうときだけ、成瀬くんを縮めるスモールライトが欲しい」
「ふざけんな」
軽くどつくと、イジュンは、嘘だよ、と笑みを深めた。
「僕は、いつだって目線の高さが合う成瀬くんが好き。きっと、キスもしやすくて便利」
「キスなんかするわけないだろ!」
反論しながら、手の甲にキスされたのを思い出す。
イジュンの唇が触れたそこが、じん、と熱を帯びたようだった。
夜明け前のベンチに座って、身を寄せ合うように、タブレットを覗き込む。
「すごい、すごい、すごい! 成瀬くんの漫画、こんな有名なアプリに載ってる!」
「いいから黙って読め」
興奮状態から一転。イジュンは急に真顔になった。
そして、じっとタブレットを見つめる。
正直に言うと、反応がとても心配だ。
『海辺の青春100リスト』
表向きは、直斗、大毅、祐介という三人の男子高校生が、海辺で過ごす日常を描いた物語。
だけど本当は、入学式の日に水難事故で亡くなった直斗を、大毅と祐介が悼むための物語だった。
二人は直斗のアクスタを持ち歩き、三人で過ごすはずだった高校生活を、一つずつ実現してゆく。
読者にはそのアクスタが『生きた人間』のように見え、直斗が亡くなっていることは、作中では語られない。
ただ、直斗には影がない。窓ガラスにも鏡にも映らない。
食べ物を買うときは、いつも二人分。直斗が、大毅と祐介以外の誰かと会話する場面も、一度もない。
そんな違和感が散りばめられているのに、表面上は、三人の楽しい日々が続いてゆく。
更新するたび、SNS上にはさまざまな考察が飛び交った。
最終回で、すべての種明かしをする予定だった。
三年間、直斗を悼み続けた大毅と祐介が、高校卒業と同時に、アクスタを持ち歩く日々からも卒業する。
二人は直斗の墓にアクスタを供え、それぞれの道を歩み始めるのだ。
今思えば、とてつもなく青くさい設定だと思う。
だけど、これを考案した当時、十五歳の俺は、それがいちばんよい形だと思っていた。
「嘘……、直斗、死んでないの……?」
商業版でも、直斗は水難事故に遭う。
高校の入学式当日、溺れそうになった子どもを助け、意識不明の重体に陥るのだ。
だけど、商業版の直斗は死なない。
意識が戻らないまま、病院のベッドで眠り続けている。
面会できるのは家族だけ。病室前の廊下で憔悴しきっていた大毅と祐介のもとに、天使が舞い降りるのだ。
「ちょっと待って。これ、僕!?」
天使を指差し、イジュンが叫ぶ。
「すまん。担当編集さんに『天使キャラを出しませんか?』って提案されて、お前の顔しか、思い浮かばなかった」
ついこの間、SIELのイラストを投下したばかりだ。
髪型はイジュンだけれど、天使キャラには、泣きぼくろまである。このキャラデザを見て、読者は相当ざわついているはずだ。
イジュン似の天使は、二人に告げる。
「清らかな魂には、一度だけ、元の体に戻るチャンスがあるんだ。——本当に戻れるかどうかは、きみたち次第。どうする? 挑戦してみる?」
課せられた試練は、100の善行を積むこと。
天使から与えられたリストに沿って、大毅と祐介は人助けをしてゆく。
リストに記されたのは、どれも些細な頼み事だった。
宝物のピアスをなくした少女と一緒にピアスを探す、とか、家出した飼い猫を見つけてあげる、とか、そんな頼み事ばかりだ。
大毅と祐介は、直斗のアクリルスタンドと共に、必死にリストをこなしてゆく。
そして10個目の善行を達成したとき、直斗が霊体となって二人の前に現れる。
そこから残りの90個を、霊体の直斗と三人で叶えていく。
人助けを一つ終えるたび、三人は助けた人と一緒に写真を撮る。その写真が、各話の扉絵になる。
霊体の直斗も写真には写る。作中でその姿が見えるのは、大毅と祐介だけ。ただし、物語を読んでいる読者には、常に直斗の姿も見えている。
SNS版の扉絵はいつも三人だったけど、商業版では、四人、五人、六人と、写る人数はまちまちだ。
100の善行を終えたとき、助けた人のうち一人でも二人のことを忘れていたら、直斗の魂は戻ってこられない。
だから、絶対に忘れられないように。大毅と祐介は、最高の形で、皆の願いを叶えようと奮闘する。
「これは、応援したくなるね。続きが見たいって心から思う」
読み切りを読み終えた後、イジュンは、夜空を見上げて嘆息した。
「皆が、そう思っていてくれたらいい。そしたら、打ち切られずに、ちゃんとリストをコンプできる」
「きっと、できるよ! きっと、みんなの心に届く!」
イジュンはタブレットを大切そうに抱きしめて叫んだ。
「僕、目標ができたよ! 海100リストがアニメ化したとき、主題歌を作って、僕が歌いたい。採用してもらえるくらい、すごい曲を作れるようにたくさん頑張る!」
「いや、お前のギャラ、高過ぎて無理だろ。そもそも、アニメ化とか。夢デカすぎるし!」
「でっかくないよ。成瀬くんは漫画で、世界中の人の心を揺さぶる。僕は歌で、世界中の人の心を揺さぶる。——僕らなら、絶対にできるよ!」
イジュンの表情は、真剣そのものだった。
照れも虚勢もなく、本気でそんな未来を、信じているみたいだ。
「やろう!」
手のひらを差し出され、俺は反射的に、ぱんっとその手に自分の手を重ねた。
いつだったか、イジュンにハイタッチを求められたとき、壊してしまいそうで、怖くてできなかった。
だけど、今ならできる。イジュンは壊れない。
俺が全力でぶつかっていったって、きっと笑顔で受け止めてくれる。
イジュンは、そのまま俺の手を、ぎゅうう、と強く、強く握りしめた。
気づけば、日の出の時間が迫っていた。
「しまった。急がないと……!」
手を取り合い、石段を降りて、中津宮へと向かう。
すっかり空が白み始めていたけれど、なんとか、朝日が昇るのを眺めることができた。
「成瀬くん、今夜のこと、リストにする?」
「したければ、しろ」
「描いてくれるの!?」
「ああ。ただ、SNS版の更新は、いったん止めろって言われてる。結末はSNSに載せないほうが、連載を読んでもらえるから」
「じゃあ、僕だけのために描いてくれるってこと?」
「そうなるな。受験の後になるだろうし、連載準備もあるから、ラフな感じになるかもだけど」
「嬉しいよ! 今回の扉絵は、中津宮で日の出を眺めながら、ファーストキス?」
「は!? 誰がそんなこと——」
イジュンの顔が、泣き笑いみたいな笑顔になる。
「冗談だよ。困らせて、ごめん、封印するよ。成瀬くんの嫌なことは、全部封印する。——友だちで、いい。それでも、そばにいたい」
あまりにも悲しそうな顔で言うから、放っておくことなんて、できるはずがなかった。
腕を掴んで、引き寄せる。
同じ高さで、視線がぶつかり合う。
俺は小さく深呼吸して、告げた。
「さっきの。嫌じゃ、なかった。多分、エロいのじゃなければ、平気」
イジュンの目が、大きく見開かれる。
「無理、してない……?」
「してない。まだ、ちょっと不安だ。だけど——お前のしたいことが、俺のしたいことでもあるから。俺は、お前が笑ってるところが見たい」
それが、すべてだった。
友情とは違う、未知の感情。イジュンの笑顔を見るためなら、それを少しずつ知っていきたい。
きっと、理解するまでには時間がかかる。
だけど——その相手がイジュンなら、いいと思った。
他の誰より、イジュンがいい。
イジュンの顔が、近づいてくる。
こういうとき、どうしたらいいんだ?
そもそも、俺が動くべきなんじゃないのか?
頭ではそう思うけど、全身がこわばって、一ミリも体が動かない。
棒立ちになった俺の唇に、イジュンは、そっと唇を寄せた。
ほんの少しだけ触れて、すぐに離れる。
「気持ち……悪く、ない?」
心配そうに問われ、俺は、韓国語で答えた。
「전혀 역겹지 않아(気持ち悪くない)」
イジュンは、ぎゅっと俺を抱きしめると、「もう一度、してもいい?」と尋ねた。
俺が頷くと、今度は、さっきよりも長く、くちづけてきた。
一瞬、体がこわばった。だけど、逃げなかった。
重ねた手のひらと同じ。
まるで最初から、そこにあったみたいに、イジュンの体も唇も、俺の体や唇にぴったりだった。
バカだな、俺たち。
寒い中、何時間も待ち続けたのに。
結局、たいして日の出を見ずに、抱き合って、キスを交わしてる。
長い、長い、キス。
ようやく唇が離れたときには、太陽は昇り切っていた。
「愛してる。成瀬くんのことが、大好きだ」
イジュンの声が、ほんの少し、震えていた。
「아직 완전히 같지는 않아. 하지만 조금씩 네가 말하는 ‘좋아해’와 내가 말하는 ‘좋아해’가 가까워지고 있는지도 몰라.(今も、まだ完全に同じじゃない。だけど少しずつ、お前の「好き」と俺の「好き」は、近づいているのかもしれない)」
イジュンのことを笑えない。俺だって、用意してきたのだ。
AIで翻訳して、必死で覚えてきた。
たどたどしく告げると、イジュンは俺を力いっぱい抱きしめた。
目を閉じていてもわかるほど、朝日が眩く輝いている。
最初に交わした握手では、手を握り返すことさえできなかったけれど。
俺はイジュンの体に目いっぱい腕を回して、きつく、きつく、抱きしめた。

