卒業までに、きみとシたい100のこと

 翌朝、イジュンからメッセージが届いた。
『最終便だから、帰るの深夜になっちゃうけど。キャンセルが出て、羽田行きの便、取れたよ!』

 少し考えてから、『새해 복 많이 받으세요(あけましておめでとう)』と送る。

『あいさつ忘れてた! あけましておめでとうございます』
『あけましておめでとう←友だちならこっち』
 出会ったばかりの頃の会話を思い出しながら、そう返す。

『새해 복 많이 받아 ←恋人候補に送るなら、これ!』
 よくわからない返事が送られて来た。
 
『成瀬くん。明日、忙しい? 受験勉強、大変?』
『いや、別に平気』
『あいたい』
 漢字に変換する時間さえ、惜しかったのだろうか。秒でひらがなの返信が来た。
 転入初日、黒板に書かれたひらがなの名前を思い出して、思わず頬が緩む。

『初詣、行こう。海100リスト、補完しないと』
『やったぁ!!!!!』
 わんこがくるくる回るスタンプが送られてきた。
 どうやらイジュンは、仕事中らしい。
 待ち合わせの時間が決まると、『またね!』とメッセージを締め括った。

 その日の夜、俺は、こっそり羽田空港の第3ターミナルに向かった。
 こんなことをしたら、引かれるかもしれない。
 そう思いながらも、一刻も早くイジュンの無事な姿を、見たくてたまらなかった。

 画面越しに、無事は確認していた。
 カウントダウンの映像は、日本のSNSにもたくさん流れてきたから。
 だけど、それだけじゃダメだ。
 ちゃんと生身のイジュンを見るまで安心できない。
 
 焦れた気持ちで、待ち続ける。
 時計の針は、深夜一時をまわっている。
 不安になりかけたそのとき、到着口から、帽子を目深に被った背の高い男が姿を現した。
 イジュンだ。スーツケースは持っておらず、通学時に使っているバックパックを背負っている。

 驚く顔が見たくて、そっと近づく。
 イジュンはヘッドフォンをしていて、ぶつかりそうな距離に立っても気づかなかった。
 軽く、肩を叩く。
 すると、イジュンはビクッと体をこわばらせて顔を上げ、絶叫した。

「왜!? 나루세 군이 왜 여기 있어!?(どうして成瀬くんがここにいるの!?)」
「——一刻も早く会いたかったから」
 言い終わる前に、抱きしめられた。

「わ、ばか、やめろっ……! 盗撮されたらどうするんだ!?」
「問題ない。学校の友だちと再会の喜びを分かち合ってたって言えば済むよ!」
 ぎゅうう、と俺の身体にしがみつきながら、イジュンは答えた。

「離せ」
「嫌だ」
「離さないと嫌いになるって言っても?」
 イジュンは、ぱっと俺から離れた。

「ごめん……許可なく触れるなんて、絶対にしちゃいけないことだった。成瀬くんがサプライズで迎えに来てくれたのが、あまりにも嬉しすぎて……」
 しゅんとした顔で謝罪され、俺は答える。
「最初に許可なく触ったのは、俺だ」
「成瀬くん、何時からここにいたの? もう、終電ないよね?」
「ないな。タクシーで帰るのか?」
「うん。そのつもり。夕飯食べる時間なかったから、体に良くないけど、ちょっと何か食べてから帰ろうかなって思ってた」
「こんな時間に空いてる店なんて、あるのか?」
「あるよ。空港の中に。あ、でも、成瀬くんは、もう眠い?」

 心配そうに、イジュンは俺の顔を覗き込む。
 正直に言えば、さっきまで少し眠かった。
 だけど、イジュンの顔を見た瞬間、眠気が吹っ飛んだ。そんなこと言ったらまたしがみついてきそうだから、絶対に口には出さないけれど。

「平気だ。なんなら、ついでに初詣回、回収してもいい」
「ほんとに!? やったぁ!!!!」
 イジュンは大袈裟に喜んだかと思うと、ハッとした顔で俺を見つめた。
「無理してない?」
「してない。行くぞ。腹減ってんだろ?」
「うん!」
 
 空港内にある二十四時間営業のラーメン屋で飯を食い、やたらと距離感の近いイジュンをなんとか引き剥がしながら、タクシー乗り場に向かう。
 後部座席に並んで座ると、二人とも背が高いせいで、ちょっと窮屈だ。
 それなのに、なぜかイジュンは、終始嬉しそうに笑っている。
 一週間ちょっと離れていただけなのに。
 その笑顔が、ひどく懐かしく感じられた。

「寝てていいよ。着いたら起こすから」
「別に、平気」
 そう答えたものの、車窓を流れる等間隔の光を眺めていたら、いつの間にか眠りに落ちていた。
 イジュンも同じように、眠ってしまっていたらしい。
 俺たちは、タクシーの運転手のおじさんに起こされた。

「うぅ、もったいないことした。せっかく、成瀬くんと過ごせる貴重な時間なのに!」
 とんでもない金額のタクシー代をカードで支払いながら、イジュンはしょんぼりと項垂れた。

「そういうことを人前で言うな」
 そう言いかけ、言葉を飲み込む。
 
 俺は、受け入れると決めたのだ。イジュンと一緒にいることを。
 イジュンの想いに応えられるかどうかはわからない。
 それでも、いると決めた。
 だから、イジュンの想いを蔑むようなことを、俺自身が口にしたらダメだ。

「わぁ、人、全然いないね!」
 タクシーが走り去ると、誰もいない弁天橋を見渡し、イジュンが歓声を上げる。
「午前三時だからな」
「初詣って夜中にするんじゃないの?」
「大晦日から元日にかけての参拝が人気だな。それ以降は、夜中にわざわざ来るやつはいない」
 ごく稀に、俺たちのような変わったやつがいるくらいだ。

「わくわくするね! 世界が滅びて、成瀬くんと二人きりになったみたい!」
「そんな世界は嫌だ」
「どんな世界でも、僕は成瀬くんと二人なら、幸せになれる気がする」
 イジュンは振り返って、にっこり微笑む。
 その笑顔があまりにも純真そのもので、ちょっとだけ怖くなる。
 人のことは言えないけれど、イジュンも、どこか少し壊れてる。
 幼い頃から親元を離れ、厳しいレッスンに明け暮れる日々。
 まともに学校にも通えなかった境遇のせいかもしれない。
 
 心のどこかが欠けているのに、怖いくらいまっすぐで、きれい。
 その欠落を、できることなら、少しでもいいから埋めてやれたらいいと思う。
 そんなたいそれたこと、俺なんかにできるかどうか、わからないけれど。

「成瀬くん、手、繋ぐ? 寒いよね」
「繋がない」
「大丈夫。誰も見てないよ!」
「そういう問題じゃない」
 伸ばされた手を突っぱねた後、これもイジュンの叶えたい夢の一つなのだと気づく。

 キスしたい、とか。
 セックスしたい、とか言われても、正直、無理だ。
 だけど、手を繋ぐだけなら、前にもしたことがある。

「お前が寒いなら、仕方がないから、繋いでやる」
 覚悟を決めて、俺が手を差し出すと、イジュンは大きく目を見開いた。
 少し泣きそうな顔で俺の手をぎゅっと握りしめると、そのまま大切そうに、自分のコートのポケットにしまう。

「ごめんね。成瀬くんの、優しさに付け込んでる」
「どこで覚えたんだよ、そんな日本語」
「海100リスト!」
 俺の手を握りしめながら、イジュンは楽しそうにはしゃぐ。

 こら。繋いでいいとは言ったけど、恋人繋ぎをしていいなんて言ってない。
 振り解いてやりたかったけれど、絡め取られた指は、びくともしない。
 細っこい指をしているくせに、握力は、やたらとあるのだ。

「石段は、危ないから手を離すぞ」
 エスカー乗り場を素通りして、険しい石段の前に立つ。
「わかった。上り切ったら、また繋いでいい?」
「好きにしろ」

 静まり返った、夜の江ノ島。
 木々の狭間にあるお気に入りのスポットからは、まばらなネオンが輝いている。
 都心ほどの眩さはない。だけど、そんなところも、俺はすごく気に入っている。
 色々なことがあったけれど、この街を嫌いにはなれなかった。

「ねえ、もしあんたが転校したいって思ってるなら、母さん今の病院やめたっていいよ。どこでも働き口がある。それが、看護師の強みなんだから」

 例の事件があった後、母はそう言ってくれた。
 だけど俺は、引っ越したいとは言わなかった。
 今になって思えば、引っ越さなくて本当によかった。
 引っ越していたら——海100リストは生まれなくて、イジュンにも出会えなかっただろうから。

「成瀬くん……?」
 心配そうに、イジュンが俺の顔を覗き込む。
「なんでも……ない」
 そう答えたけれど、「なんでもなくなさそう」と、優しい声で言われた。

「ごめんね。僕、成瀬くんの噂、聞いたよ。——どうして学校で、みんなが成瀬くんのことを怖がってたのか。成瀬くんと同じ中学だったって子が、わざわざ打ち明けに来て……」
 ちくりと、心が痛む。

「噂、というか、本当のことだ。小学校の頃、同じクラスのやつを、病院送りにした。だから、みんなに怖がられてた」

 小学三年生の春。同じクラスの男子数人が、浜辺で、海鳥をエアガンで撃つ遊びをしていた。
 一羽だけ、逃げ遅れた鳥がいた。奴らは、傷ついて飛べなくなったその鳥に、弾をぶつけ続けた。
 海辺の生き物が大好きな俺は、それを見ていられなかった。助けなくちゃ。それしか考えられなかった。
「やめろ! それ以上やったら死んじまう!」
「は? だからなんだよ。別に、鳥なんか死んだって誰も困らないだろ」
「ああ、そっか。お前んち、母親しかいないから、貧乏でおもちゃ買ってもらえなくて悔しいんだろ。ほら、撃ちたければ撃てよ。貸してやる」
 エアガンを差し出され、頭の中で、何かが切れた。
 気づいたときには、エアガンを取り上げようと飛びかかっていた。
「やめろ! 離せ!」
 すると、五人がかりで飛びかかられた。エアガンで顔や体をぶん殴られ、額から流れた血が目に沁みた。
 それでもなお、ひとりが鳥を攻撃しようとした。俺はそいつの腕を掴み、放り投げた。
 怪我を負わせるつもりはなかった。鳥を守ろうとした咄嗟の行動だった。

「何をしてるの!」
 そのとき、大人の叫び声がした。
 駆け寄ってきた誰かに腕を掴まれ、地面に引き倒された。

「おばさん、こいつが、こいつが友だちに暴力を……!」
 他の同級生たちが、一斉に泣き真似をし始めた。
 俺が投げ飛ばした同級生は骨折し、全治三ヶ月と診断された。
 俺は、教師とそいつの保護者からこっぴどく叱られ、『同級生を病院送りにした乱暴な子』というレッテルを貼られることになった。

 当時のことが一気に蘇り、指先が震えた。
 次の瞬間——その指先を、冷たくて滑らかな手が、そっと包んだ。

「成瀬くんが、一方的に暴力を振るうなんて、あり得ない。そもそも、成瀬くんも、傷ついたんだよね? その、額の傷」

 何ひとつ話していないのに。
 なぜか、イジュンはそう言ってくれた。
 
「僕も、過去に友だちを怪我させちゃったこと、あるんだ。舞台の稽古で。戦闘シーンの練習をしていて。ちょっと押したつもりが、小柄な相手が吹っ飛んで、捻挫しちゃった。その子は、その舞台に出られなかった。どうしてもその役をやりたくて、ずっと頑張って練習してたのに……」
 
 大きすぎる体を、何度呪ったかわからない。
 イジュンは、俺が長年抱え続けてきたのと同じ気持ちを、震える声で吐露した。
 
 イジュンの場合、きっと、背の高さだけじゃない。
 この、どこにいても人目を引く容姿のせいで、ずっと、どこにも馴染めずに生きてきたのだろう。

「安心しろ。お前が多少暴れた程度じゃ、俺は、びくともしない」
 ぎゅっと、イジュンの手を握りかえす。
「その言葉、そっくりそのまま、成瀬くんに返すね」
 イジュンも、俺の手を握り返した。
 さりげなく指を絡め、わざわざ恋人繋ぎにし直して。