卒業までに、きみとシたい100のこと

 その夜、イジュンは一度も、俺の電話に出なかった。
 翌朝かけると、電源が入っていないという無機質なアナウンスが流れた。
 
 散々悩んだ結果、俺は、登校前にイジュンを迎えに行った。
 オートロックのマンション。部屋番号を入力し、呼び出しボタンを押したけれど、何の応答もなかった。

 その日、イジュンは学校に来なかった。
 今日は終業式だ。明日から冬休み。
 このまま連絡がつかなかったらどうしよう。
 不安な気持ちに押しつぶされそうになりながら、俺は、ひたすらイジュンの番号に電話をかけ続けた。

 メッセージも送った。
 だけど、既読にさえならなかった。
 何か事件に巻き込まれたんじゃないかって、死ぬほど不安になった。
 美術部のみんなに聞いてみた。けれども、誰も、何も知らなかった。
 石川先生も、青柳先生も、何も知らないようだった。

 どうしよう。事故に遭ったのかもしれない。
 江ノ島のどこかで、倒れているかもしれない。

 島内やイジュンの家までの道を、何度も探した。
 警察にも相談に行った。
 最初のうちは、何も教えてもらえなかった。
 何度も交番に足を運ぶうちに、「少なくともうちの管内で、君の話に当てはまりそうな事故は起きていないよ」と、若い制服のお巡りさんが、こっそり耳打ちしてくれた。

 俺のせいだ。
 あの時追いかけていたら、きっとこんなことにはならなかった。

 連絡がつかないまま、何日も過ぎた。
 気づけば、大晦日になっていた。

 いっそ、俺に愛想を尽かして、韓国に帰ってくれていたらいい。
 そう思い、ブラウザに、『SIEL』と入れて検索してみた。
 実は、この名前で検索をかけるのは、初めてだ。
 イジュンは俺に、正体を隠していた。
 勝手に検索するのは、あいつの隠したがっていたものを暴くみたいで、なんだか気が進まなかった。
 最初に画面に現れたのは、事務所の公式サイトと思しきものだった。

「え……。これが、イジュン……?」
 嘘だろ。
 そこに写っているのは、顔かたちこそ似ているものの、別人のような男だった。
 いや、血の通った生身の人間にさえ見えない。

 美しい。
 恐ろしく、美しい。
 肩まで伸びた、プラチナブロンド。青いカラーコンタクト。
 軽くメイクまでして、人間離れした美貌を見せつけるみたいに、こちらを睨んでいる。
 
 黒髪で、いつだって大型犬みたいにコロコロ笑ってる、明るいイジュン。
 顔のかたち以外、完全に別人だ。
 今のイジュンを見て、『SIELだ!』って叫んだやつ。いったいどこを見て、これと似ていると思ったんだ……?
 心底不思議に思うくらい、印象がまるで違う。

「イジュン……」
 サイトの下のほうに、SNSが埋め込まれている。
 イジュンが他のメンバーと共に、画面に向かってピースサインしている。
 ピースサインなのに。目は死んでる。
 なんだよ、これ。嘘だろ。
 髪、どうしたんだ。
 カツラなのか? それとも、過去に撮った写真?
 SNSでも、SIELと検索してみる。
 すると、すぐにSIELの個人アカウントを見つけることができた。
 
 最新のポストは、今日。
 そこには、他のメンバーと一緒にいるイジュンの短い動画が添えられていた。

 よかった。ちゃんと、生きてる。
 それだけで、ようやく息ができた気がした。

 怪我してない。
 死んでない。
 それだけで——心の底から安堵する。

 どうやらSIELは、他のメンバーと共に、年越しのカウントダウンイベントに、飛び入り参加するらしい。
 その模様は、インターネットを通して、全世界に生配信されると書かれていた。

 あまりにもホッとしすぎて、俺はスマホを手にしたまま、その場にへたり込んでしまった。
 イジュンが、生きてる。
 ちゃんと、生きてる。

 改めて実感が湧いてきて、涙が止まらなくなる。

「配信、何時からだ? 22時? えっと、韓国との時差は——」
 時差はないと知り、急いでノートパソコンを用意する。
 配信開始まで、あと四時間。
 どうしよう。
 試験勉強、しなくちゃいけないのに。
 全然集中できそうにない。

 俺は、タブレットを引っ張り出してきて、イジュンの絵を描いた。
 いや、イジュンじゃダメだ。
 SIELを描かなくちゃ。
 背景は、湘南の宝石。
 キラキラした光に彩られた、ファンタジー世界みたいな小径だ。
 そこで、楽しそうに笑っていたイジュンの姿。
 髪と瞳を、SIELに変える。
 写実的な絵じゃない。
 海100リストの絵で、それを描いた。
 そして、それを海100リストのアカウントに投下する。

 すると、あっという間にたくさんのコメントで埋め尽くされた。

『ええええええ!? SIEL!? どうして!? 先生、ファンなんですか? 私も大好きですー!!!』
『珍しいコラボ! あの三人以外の絵、初めて見ました! 最高!!』

 ほら、来いよ。
 イジュン。反応しろ。
 見てるんだろ。このアカウントを。
 それとも——愛想を尽かして、見るのをやめたのか。
 なあ。見ろよ。
 見て、コメントをくれ。
 約束通り、ちゃんと描いたぞ。
 遅くなったけど、俺からのクリスマスプレゼントだ。
 
 絵には、メッセージを添えた。
『네 목소리를 듣고 싶어(お前の、声が聞きたい)』
 
 生配信を楽しみに待ち侘びるファンのふりをして、イジュンに送ったメッセージだ。
 返事しろ。
 電源、入れてくれ。
 そういう、意味だ。

 本番が近いから、スマホを見ていないのだろうか。
 それとも——もう、このアカウントは、ブロックしてしまったのか。
 焦れた気持ちで、待ち続ける。
 配信まで、あと、三十分。
 読者からのコメントだけが増え続けてゆく。

 そして——イジュンらしきやつからのコメントがないまま、生配信が始まってしまった。

 イジュンのパフォーマンスは、とてつもなく素晴らしかった。
 六人組のアイドルグループのうち、今回は二人だけで特別参加したようだった。
 イジュンがダンスの授業を拒否していた理由がよくわかる。
 こんなの、高校の体育の授業で踊ったら、とんでもないことになる。
 いや、アイドルのダンスとしてだって、こんな凄まじいパフォーマンス、今まで一度も見たことがない。
 十歳から親元を離れて、ひたすら鍛錬を積んできた。
 人生の半分近くをそれだけに費やしてきた男の、鬼気迫る熱演だった。
 歌も、半端なく上手い。
 『音楽で、心を動かしたい』
 あいつの語っていた夢。
 イジュンの作った曲じゃないのかもしれない。
 それでも、声だけでちゃんと、心を動かしてる。
 すごいよ、お前は。
 こんなにも素晴らしい能力を持ちながら、たくさんのファンを抱えながら。
 それでもお前は、全部、捨てようとした。
 日本に留まって、SIELではなく、キム・イジュンとして生きようとした。

 もちろん、俺だけが原因じゃ、ないと思う。
『普通の生活を送りたい。海100リストみたいな青春を経験したい』
 それが、根底にあるのだと思う。

 韓国では、絶対に得られないもの。
 アイドルをしていたら、絶対に経験できないこと。
 
 あの男はそれを、渇望していたんだ。
 だけど——なあ、本当にそれは、アイドルを辞めなくちゃできないのか?
 全部捨てなくちゃ、叶えられないのか。
 SIELとイジュン。どちらも捨てずに、両立することはできないのか。

 ちょっと眉を下げて情けない顔で笑うイジュンも。
 感情なんて微塵も感じさせないパーフェクトな美しさで踊るSIELも。
 俺は同じくらい、輝いていると思った。
 どちらも、同じくらい尊い。
 
 タブレットを引っ掴んで、さっきの絵に加筆する。
 クールなSIELの隣に、まっすぐわんこなイジュン。
 なあ、どっちもお前だろ。
 どちらか一方を消すとか、ダメだろ。
 いや。俺は、芸能界のことを何も知らない。
 死ぬほどプレッシャーかけられまくって、酷使されて、心も体もすり減って、その結果の逃避なのかもしれない。
 だとしたら、逃げたほうがいい。
 だけど——そうじゃないなら。
 原因が、海100リストみたいな青春と、俺の隣にいることなら。
 それは、どちらも叶えられるんじゃないのか。
 SIELを残したままでも。

『どっちも、最高に推せる!!!』
 イジュンのノリを真似て、書き添える。
 既読のつかないイジュンのメッセージアプリに、俺はその画像を投下した。

『話がしたい。イジュンと。SIELと。ずっと、待ってる』

 送信ボタンを押して、もう一度、SNSの画面を開く。
 すると——最古参の読者から、ダイレクトメッセージが届いていた。
 俺の絵を見るたびに、真っ先にメッセージをくれていた人だ。

 急いでタップすると、そこには、こう書かれていた。

『인프린팅이 아니야(インプリンティングじゃないよ)』
 
 一瞬、頭が真っ白になる。
 この読者からのダイレクトメッセージは、いつも日本語だった。
 だから、勝手に日本人だと思い込んでいた。

 だけど——

『イジュン?』
『ハズレ』『今は、SIEL』

 びっくりした。
 ずっと前から、俺を支えてくれていた読者。
 いつだって、俺の絵を理解してくれていた読者。

 その正体が、イジュンだった。
 そんな偶然って——ありえるか?

『イジュン、ごめん。お前を傷つけた』
『平気。振られることは、最初からわかってた』
『振ってない』
『振られた』
『返事する前に、逃げられた』
『勘違いだって、言った!』
『ごめん。あれは、訂正する。びっくりしすぎて、おかしくなってた』
『ごめん』
『謝るな。お前は悪くない。俺は——』
 しばらく考えてから、続きを打つ。

『生まれてこの方、女からも男からも一度も告白されたことのない陰キャだぞ。いきなり告られたら、相手が男でも女でも、関係なくビビる』
『男だから、やだったんじゃないの?』
『違う』
『本当に?』
 男だから。友だちだから、驚いたのは本当だ。だけど、嫌だったわけじゃない。

『ごめん。話したい。音声通話、いい?』
『いいよ』
 すぐに、音声通話の着信があった。

「나루세 군. 너무 보고 싶어. 정말, 보고 싶어. 며칠 못 봤을 뿐인데 미칠 것 같아!」
 早口で一気に捲し立てられた。
「わからない。日本語で言え」
「言えないよ! 恥ずかしすぎる」

「じゃあ、アプリで訳す。今の、覚えたから」
「やめて!」

『成瀬くん。ものすごく会いたい。本当に、会いたい。数日会えなかっただけなのに、おかしくなりそう』

 翻訳アプリに表示された文章。
 なんか妙に、頬が熱くなってきた。
 こんな熱烈な言葉を俺に向かって吐く人間は、きっと、後にも先にも、この男しかいない。

「俺も、お前がいないと、困る。だけど——正直に言って、お前と同じ熱量で、同じような感情を返せるかどうかは、自信がない」
「わかってる。友だち以上の感情は、持てないって意味だよね?」

「違う。恋愛っていうのが、わからない。今まで、一度もしたことがないから」
「無理、しなくていいよ」
「無理、してない。事実だ。友だちも、よくわからなかった。お前が、初めてだったから。ずっと手探りで、お前が教えてくれたから、少しずつ理解できた」

「恋も、僕が教えたら、理解できる?」
「わからない。だけど——一つだけ、わかることがある」

「何?」
「俺は、お前がいないと無理だ。数日、連絡が取れなかっただけで、心配で死ぬかと思った。そこらじゅう探し回って、色んな人に聞き回って。お前のいない世界を、生きていける気がしない」

「僕に、会いたい?」
「会いたい。書いただろ、『声が聞きたい』って。なんで、既読すらつけてくれなかったんだ」
「怖かったんだよ。連絡を取ったら、もっとはっきり拒絶されるんじゃないかって思って——たまらなく怖かったんだ」
「お前を不安にさせたのなら謝る。だけど——俺は、拒絶なんかしてない。ちゃんと話し合おうとした。頼むから、勝手に決めつけて話を打ち切らないでくれ」
「ごめん……」

「いいから、お前の声、ちゃんと聞かせろ」
「声、聞けたね。満足?」
「満足なわけないだろ。ふざけんな。まだ——リストコンプしてない。桜、見るんだろ。まだ、卒業してない。戻ってこい。戻ってこられるなら。あと、二ヶ月だけでいい。俺と、海100リストをしてくれ」

「二ヶ月後は、いらなくなる?」
「なるわけない」
「じゃあ——」
「やめるな。夢なんだろ。音楽は、やめるな。アイドルも、過労死するとか、ストレスMAXで死にそうとかでないなら、続けろよ。さっき、調べた。韓国と日本って、飛行機で二時間ちょっとだろ。東京と大阪を行き来するのと変わらない。いつだって会える。会いにいける」

 声が、途切れた。
 しばらく、何の音もしなかった。

 長い無音の後、涙まじりの嗚咽みたいな声が、漏れ聞こえてきた。

「안 돼. 너를 포기할 수 없어……」
「日本語で言え」
「嫌だ」

「『無理。きみを諦められないよ』か」
「翻訳アプリ使うのやめて! 恥ずかしい!」
「じゃあ、アプリなしでも理解できるように、もっと真剣に韓国語を習う。——そっち行くとき、話せないと不便だし」

 電話の向こうから、泣き声が聞こえてきた。
 号泣しながら何か叫んでるけど。あまりにも泣きじゃくりすぎて、何を言ってるのかわからない。翻訳アプリも、『解読不能』と白旗を上げた。

「イジュン」
「뭐?」
 目の前のタブレットに日本語を打ち込んで、韓国語に訳してもらう。
 カタカナ表記も出してもらって、俺は、それを読み上げた。

「내가 말하는 ‘좋아해’와 네가 말하는 ‘좋아해’는, 엄밀히 말하면 의미가 다를지도 몰라. 하지만 나도 너를 좋아해. 정말 좋아해. 가능하다면 계속 함께 있고 싶어.」

 打ち込んだ文章は、
『俺の言う「好き」と、お前の言う「好き」は、厳密に言えば意味が違うかもしれない。だけど、俺もお前が好きだ。本当に好きだ。できるなら、ずっと一緒にいたい』

 発音が心配だったけれど、ちゃんと伝わったみたいだ。

「どんな『好き』でもいい! 成瀬くんの、そばに、いたい。ずっと、いたい。——成瀬くんの、いちばんになりたい」
 
 嗚咽混じりに、聞こえてきた言葉。

「今も、お前が一番だよ。イジュン」
 日本語で言った後、韓国語でも、同じ言葉を告げた。

「早く、日本に行きたい。今すぐ、成瀬くんに会いたい!」
「無理だな。飛行機、もう飛んでないだろ」
「明日の朝イチの便で行く!」
「元旦だぞ。飛行機飛んでんのか?」
「飛んでる、と思う。取れるかどうかは、怪しいけど。何ならチャーターして……」
「やめてくれ! そんな無駄遣い。しかも事故が心配だ。ちゃんと普通の便で帰ってこい。俺は、どこにも逃げないから」

「嫌だ。やっぱり今すぐがいい!」
「やめろ! ほら、通話なら、ちゃんとできるから。お前の気持ちが落ち着くまで、切らないでいるから」
「本当に? 電池切れるまで話し続けるよ?」
「好きにしろ」
「やったぁ!」
 久々に、やったぁ、が出た。なんだかちょっと懐かしい。

「イジュン」
「何?」
「日本に来てくれて、ありがとな。俺の、漫画を見つけてくれて、ありがとな。——お前に出会えて、本当に嬉しい」
「ずるい! 普段はそんなこと、絶対に言ってくれないのに! やっぱり今すぐ行く!」
「来るな! 来ても絶対に会わないからな!」
「酷い!」
「わかれよ。お前が事故に遭ったら、マジで、俺も死にそう」

 電話の向こうから、悲鳴が聞こえてきた。
「나루세 군, 좋아해. 정말 좋아해. 사랑해!!!」

 イジュンが連呼し続けるせいで、訳さなくてもわかるようになってしまった。
「成瀬くん、好き。本当に大好き。愛してる!!!」

 いつか、俺は、その言葉を同じ熱量で、イジュンに返してやることができる日が来るのだろうか。

 わからない。
 わからない——けれど。
 今はただ、こうしてイジュンの声を聞いて、互いに笑っていられることが、俺には嬉しくてたまらなかった。