閉館後に行われる、招待客限定の『クリスマス・ナイト・アクアリウム』。
入場者の数はかなり絞られており、本当に貸し切りのような雰囲気だった。
大小さまざまな魚たちが泳ぐ、相模湾大水槽。
銀色の背をきらめかせるマイワシの巨大な群れを眺めながら、イジュンは歓声を上げた。
「すごいね! 成瀬くん、スケッチブック持ってくればよかった、って思ったでしょ」
図星を突かれ、さりげなく目をそらす。
「仕方ない。絵描きの性(さが)だ」
イジュン相手に、嘘を吐く気にはならない。
正直に告げると、「持ってきてもよかったのに」と言われた。
僕は気にしないよ、と。
「スケブ持参だと、お前は延々とモデルをさせられる羽目になるんだぞ」
「いいよ。成瀬くんに、えのすいでスケッチしてもらえるなんて。そんなに幸せなクリスマスプレゼント、他にないよ!」
クリスマスプレゼント。
しまった。プレゼントを用意してくるべきだっただろうか。
イジュンと出会うまで、友だちづきあいをしたことがなかったから、クリスマスに友だち同士でもプレゼントを交換するのかどうか、俺にはわからない。
「今日は持ってないけど、今度、持って来よう。周囲の邪魔にならない時間帯に」
イジュンの表情が、ぱぁっと明るくなる。
「そろそろクラゲ見に行く?」
「どっちでもいいぞ。好きなだけ眺めろ。俺は——」
来年も、再来年も、いつだって見に来られるんだから。
そう言いかけ、言葉を飲み込む。
イジュンが不思議そうに、俺の顔を覗き込んだ。
「成瀬くん……? どうしたの」
至近距離でじっと瞳を見つめられ、慌てて目をそらす。
「いや、なんでもない」
そのとき、不意に、嫌な視線を感じた。
「ねぇ、あれ……。イブの水族館に男同士とか、ありえなくない?」
ざわりと、紙やすりで肌を擦られたような不快さ。
イジュンのほうを見ると、今にも泣き出しそうな、青ざめた顔で立ち尽くしていた。
「イジュン?」
名前を呼ぶと、ハッとしたような顔をする。
「ごめん……。僕のせいで、やなこと言われた」
イジュンが、申し訳なさそうに視線を伏せる。
「なんでお前のせいなんだよ」
「僕が、距離感、近いから。そのせいで——」
「別に、お前のせいじゃない。というか、わざわざ聞こえるように嫌味を垂れ流すとか、最低だろ」
ハッとしたように顔をあげ、イジュンは目を見開く。
「チケットに、『恋人同士じゃないと入場できません』なんて、書いてない。俺らみたいに、友だち同士で来るやつも、普通にいる。あんなこと言うのは、どうかしてる」
自分が傷つけられることには、慣れきっている。
だけど——イジュンが傷つくのは、見ていられない。
そんなのは、絶対に嫌だ。
さっきの発言をしたカップルの、男のほうが、こっちを向いた。
睨みつけてやると、ビクッと体をこわばらせて、女の手を引いてそそくさと立ち去ってゆく。
大嫌いだった人一倍高い背も、怖がられてばかりの顔の傷も。
そのおかげでイジュンを守ることができるのだと思うと、とても誇らしい。
「成瀬くんは……やっぱり僕の天使だ」
「やめろ! 天使呼び禁止!」
イジュンの肩を軽く叩くと、イジュンはとても嬉しそうに笑ってくれた。
ずっと、怖かった。
不用意に誰かに触れてしまったら、壊してしまうと思っていた。
だけど、イジュンはこう見えて、とても頑丈だ。
俺と同じ背丈で、鍛え抜かれた体躯をしている。
安心して、触れられる。安心して、隣に立てる。
こんなにも貴重で大切な友だちを、俺は、もうすぐ失うことになる。
そんな俺の胸の内など知らず、イジュンは青い水のなかに浮かぶ、純白のクラゲたちを夢中で眺めている。
「あぁっ……ずっとここにいたい。イベント終了までいたいし、なんなら泊まりたい! だけど、イルミネーションも行かなくちゃ。あっちも、九時までだよね?」
「らしいな。今日はえのすいに全振りして、別日に出直してもいいけど」
「そうしたいのは山々だけど、イブは今日しかないんだよ?」
「別にイブじゃなくてもよくないか? なんなら、クリスマス本番は明日だ」
俺がそう答えると、なぜかイジュンは少しだけ、焦れたような顔をした。
「成瀬くんは優しくて、だけど、その鈍感さが、ちょっと残酷だ」
「なんだよ、それ。——俺、お前に残酷なこと、なんかしたか?」
一生懸命考えてみたけれど、思い当たる節がない。
「そういうとこだよ」
イジュンは俺に背を向け、大股で歩き出してしまった。
「最後にかわうそだけ見て、シーキャンドルに行こう。きっと、すごく混んでる」
「なんで混んでるってわかるんだ?」
イジュンは、くるっと振り返ると、呆れ切った顔で「だから、そういうとこ!」と言って、ちょっと拗ねたように唇を尖らせた。
イジュンの予想通り、シーキャンドルの展望台行きの列は、普段とは比べ物にならないくらい長く延びていた。
「なんだ、この行列は」
サムエル・コッキング苑自体も、驚くほど賑わっている。
「何か特別なイベントでもあるのか?」
周囲を見渡す俺を、イジュンは奇異なものを見るような目で見た。
「成瀬くんは、一度も思ったことないの? 好きな相手と、クリスマスイブを一緒に過ごしたい、とか」
あ、そうか。
非ヲタの一般人は、そういう発想をするのか。
あまりにも重度なオタクのせいで、ちっとも気づかなかった。
クリスマスイブといえば、サンタコス絵をupする日。
他の絵師さんの描いたサンタコスを、たくさん摂取できる日。
それくらいの感覚でいた。
「ない……な。強いていえば、絵がバズりやすいから、ありがたい日、とか思ってた。コメントも増えるし、ほしい物リストのプレゼントも爆増する」
「それ、僕も贈ったことあるよ」
「えっ!? アカウント名、なに? お礼しないと」
「教えない」
イジュンは、意味深そうに、にっこり微笑んだ。
やめろ、その笑顔。破壊力がありすぎて、人死にが出る。
実際に、周囲の女性たちの視線が、一斉にイジュンに集まっている。
ダメだろ。クリスマスイブにカップルでイルミネーションを見に来た女性たちの視線を独占したら。
イジュンのせいで別れる羽目になる人たちが出ないといいな、と思いつつ、俺は、イジュンにもう一度、「教えてくれ」と尋ねた。
「嫌だ」
イジュンは楽しそうに笑って、俺に背を向ける。
今日のイジュンは私服姿で、普段のダウンジャケットとは違う、仕立ての良さそうなコートを着ている。
手足が長く、モデルみたいにスタイルがいいせいで、すごく大人っぽく見える。
明るい色のマフラーが白い肌に映えて、とにかく目を惹く。
苑内はそこかしこにイルミネーションが施されていて、どこを見てもキラキラしているけれど、そんな煌びやかな場所でも、イジュンだけが一際輝いて見えるのだ。
「これ、並び続けてたら、他のイルミネーション、見られなくなっちゃうかもね」
「また来ればいい。二月までやってる」
「二月、桜も見られる?」
「ああ、見られるよ」
ただでさえ眩しいイジュンの顔が、さらに、直視するのを躊躇うくらい、眩く輝いた。
スケッチブックがないのが、本当に惜しい。
俺は心のなかに、イジュンのその笑顔を、全力で焼き付けた。
入場者の数はかなり絞られており、本当に貸し切りのような雰囲気だった。
大小さまざまな魚たちが泳ぐ、相模湾大水槽。
銀色の背をきらめかせるマイワシの巨大な群れを眺めながら、イジュンは歓声を上げた。
「すごいね! 成瀬くん、スケッチブック持ってくればよかった、って思ったでしょ」
図星を突かれ、さりげなく目をそらす。
「仕方ない。絵描きの性(さが)だ」
イジュン相手に、嘘を吐く気にはならない。
正直に告げると、「持ってきてもよかったのに」と言われた。
僕は気にしないよ、と。
「スケブ持参だと、お前は延々とモデルをさせられる羽目になるんだぞ」
「いいよ。成瀬くんに、えのすいでスケッチしてもらえるなんて。そんなに幸せなクリスマスプレゼント、他にないよ!」
クリスマスプレゼント。
しまった。プレゼントを用意してくるべきだっただろうか。
イジュンと出会うまで、友だちづきあいをしたことがなかったから、クリスマスに友だち同士でもプレゼントを交換するのかどうか、俺にはわからない。
「今日は持ってないけど、今度、持って来よう。周囲の邪魔にならない時間帯に」
イジュンの表情が、ぱぁっと明るくなる。
「そろそろクラゲ見に行く?」
「どっちでもいいぞ。好きなだけ眺めろ。俺は——」
来年も、再来年も、いつだって見に来られるんだから。
そう言いかけ、言葉を飲み込む。
イジュンが不思議そうに、俺の顔を覗き込んだ。
「成瀬くん……? どうしたの」
至近距離でじっと瞳を見つめられ、慌てて目をそらす。
「いや、なんでもない」
そのとき、不意に、嫌な視線を感じた。
「ねぇ、あれ……。イブの水族館に男同士とか、ありえなくない?」
ざわりと、紙やすりで肌を擦られたような不快さ。
イジュンのほうを見ると、今にも泣き出しそうな、青ざめた顔で立ち尽くしていた。
「イジュン?」
名前を呼ぶと、ハッとしたような顔をする。
「ごめん……。僕のせいで、やなこと言われた」
イジュンが、申し訳なさそうに視線を伏せる。
「なんでお前のせいなんだよ」
「僕が、距離感、近いから。そのせいで——」
「別に、お前のせいじゃない。というか、わざわざ聞こえるように嫌味を垂れ流すとか、最低だろ」
ハッとしたように顔をあげ、イジュンは目を見開く。
「チケットに、『恋人同士じゃないと入場できません』なんて、書いてない。俺らみたいに、友だち同士で来るやつも、普通にいる。あんなこと言うのは、どうかしてる」
自分が傷つけられることには、慣れきっている。
だけど——イジュンが傷つくのは、見ていられない。
そんなのは、絶対に嫌だ。
さっきの発言をしたカップルの、男のほうが、こっちを向いた。
睨みつけてやると、ビクッと体をこわばらせて、女の手を引いてそそくさと立ち去ってゆく。
大嫌いだった人一倍高い背も、怖がられてばかりの顔の傷も。
そのおかげでイジュンを守ることができるのだと思うと、とても誇らしい。
「成瀬くんは……やっぱり僕の天使だ」
「やめろ! 天使呼び禁止!」
イジュンの肩を軽く叩くと、イジュンはとても嬉しそうに笑ってくれた。
ずっと、怖かった。
不用意に誰かに触れてしまったら、壊してしまうと思っていた。
だけど、イジュンはこう見えて、とても頑丈だ。
俺と同じ背丈で、鍛え抜かれた体躯をしている。
安心して、触れられる。安心して、隣に立てる。
こんなにも貴重で大切な友だちを、俺は、もうすぐ失うことになる。
そんな俺の胸の内など知らず、イジュンは青い水のなかに浮かぶ、純白のクラゲたちを夢中で眺めている。
「あぁっ……ずっとここにいたい。イベント終了までいたいし、なんなら泊まりたい! だけど、イルミネーションも行かなくちゃ。あっちも、九時までだよね?」
「らしいな。今日はえのすいに全振りして、別日に出直してもいいけど」
「そうしたいのは山々だけど、イブは今日しかないんだよ?」
「別にイブじゃなくてもよくないか? なんなら、クリスマス本番は明日だ」
俺がそう答えると、なぜかイジュンは少しだけ、焦れたような顔をした。
「成瀬くんは優しくて、だけど、その鈍感さが、ちょっと残酷だ」
「なんだよ、それ。——俺、お前に残酷なこと、なんかしたか?」
一生懸命考えてみたけれど、思い当たる節がない。
「そういうとこだよ」
イジュンは俺に背を向け、大股で歩き出してしまった。
「最後にかわうそだけ見て、シーキャンドルに行こう。きっと、すごく混んでる」
「なんで混んでるってわかるんだ?」
イジュンは、くるっと振り返ると、呆れ切った顔で「だから、そういうとこ!」と言って、ちょっと拗ねたように唇を尖らせた。
イジュンの予想通り、シーキャンドルの展望台行きの列は、普段とは比べ物にならないくらい長く延びていた。
「なんだ、この行列は」
サムエル・コッキング苑自体も、驚くほど賑わっている。
「何か特別なイベントでもあるのか?」
周囲を見渡す俺を、イジュンは奇異なものを見るような目で見た。
「成瀬くんは、一度も思ったことないの? 好きな相手と、クリスマスイブを一緒に過ごしたい、とか」
あ、そうか。
非ヲタの一般人は、そういう発想をするのか。
あまりにも重度なオタクのせいで、ちっとも気づかなかった。
クリスマスイブといえば、サンタコス絵をupする日。
他の絵師さんの描いたサンタコスを、たくさん摂取できる日。
それくらいの感覚でいた。
「ない……な。強いていえば、絵がバズりやすいから、ありがたい日、とか思ってた。コメントも増えるし、ほしい物リストのプレゼントも爆増する」
「それ、僕も贈ったことあるよ」
「えっ!? アカウント名、なに? お礼しないと」
「教えない」
イジュンは、意味深そうに、にっこり微笑んだ。
やめろ、その笑顔。破壊力がありすぎて、人死にが出る。
実際に、周囲の女性たちの視線が、一斉にイジュンに集まっている。
ダメだろ。クリスマスイブにカップルでイルミネーションを見に来た女性たちの視線を独占したら。
イジュンのせいで別れる羽目になる人たちが出ないといいな、と思いつつ、俺は、イジュンにもう一度、「教えてくれ」と尋ねた。
「嫌だ」
イジュンは楽しそうに笑って、俺に背を向ける。
今日のイジュンは私服姿で、普段のダウンジャケットとは違う、仕立ての良さそうなコートを着ている。
手足が長く、モデルみたいにスタイルがいいせいで、すごく大人っぽく見える。
明るい色のマフラーが白い肌に映えて、とにかく目を惹く。
苑内はそこかしこにイルミネーションが施されていて、どこを見てもキラキラしているけれど、そんな煌びやかな場所でも、イジュンだけが一際輝いて見えるのだ。
「これ、並び続けてたら、他のイルミネーション、見られなくなっちゃうかもね」
「また来ればいい。二月までやってる」
「二月、桜も見られる?」
「ああ、見られるよ」
ただでさえ眩しいイジュンの顔が、さらに、直視するのを躊躇うくらい、眩く輝いた。
スケッチブックがないのが、本当に惜しい。
俺は心のなかに、イジュンのその笑顔を、全力で焼き付けた。

