文化祭に合わせ、俺は、長かった前髪をばっさりと切った。
前髪をピンで留めていた間は、ピンを外せばいつでも元の自分に戻れると思っていた。
だけど今の俺は、元の自分に戻りたいなんて、一ミリも考えてない。
イジュンに出会う前と、イジュンに出会ってから。
俺の人生は、完全に別のものになってしまった。
髪を切ったその日に、俺は、長らく返信を先延ばしにしていた編集者の女性に、メッセージを送った。
すぐに返事が来て、直接会いたいと言われた。
見知らぬ大人と一人で会うことに、少し不安があった。
親に打ち明けるのは、まだ怖かった。
だから、美術部顧問の石川先生に相談し、返信の文章を一緒に考えてもらった。
『文化祭で、美術部の展覧会があります。もし、時間があれば、来ていただけませんか』
『進路に関わることなので、できれば、部活の顧問の先生と一緒に話を伺いたいです』
ほどなく、編集者から返信が届いた。
『ぜひ、お伺いいたします!』
待ち合わせは、文化祭当日の十六時に決まった。
そして迎えた文化祭当日。
編集者との面談の前に、ミスターコンがある。
俺はイジュンと、在廊当番を除く美術部員たちとともに、会場である屋外特設ステージに向かった。
ミスターコンに出場するには、クラスか部活動から推薦を受けなくてはならない。
笹野さんが進めていたエントリーを、美術部のみんなが正式に後押ししてくれたため、俺は部の代表として参加することになった。
「文化部から出場するなんて、珍しいね」
「美術部? え、ちょっと待って。ねえ、あれって——」
参加者は、それぞれ一人の推薦者と共に壇上へ上がる。
俺の後ろには、このステージ上で最も輝きを放つ男、イジュンが立っている。
「えぇっ!? どうしてイジュン先輩が、推薦者なの!? ミスターコン参加者じゃなくて!?」
イジュンの姿に気づいた観客の間にどよめきが起こる。
驚く気持ちは、とてもわかる。
俺だって、ありえないと思う。
だけど、壇上に並ぶ『普通の高校生』たちを眺めると、やっぱりイジュンが出たらダメだとわかる。
プラスチックのビーズの中に、一粒だけダイヤモンドが混ざるような、とんでもない不均衡が生まれてしまう。
「それでは、本年度のミスターコンテストを始めます! まずは、全参加者の顔ぶれをご覧ください。ステージ左から、一年一組代表——」
参加者は総勢十七人。美術部代表の俺は、最後に名前を呼ばれた。全員の紹介が終わると、俺たちはいったんステージ裏へ戻った。
一組ずつ、参加者が二分以内のパフォーマンスを披露し、そのあと推薦者が三十秒間のアピールをする。
ダンスや歌、お笑いなどが続き、次第に会場の空気がダレていくのがわかった。スマホを眺めている観客もいる。
「この状況でパフォーマンスするの、しんどいな」
思わずこぼした俺に、イジュンはまっすぐステージを見つめたまま答えた。
「どんな状況でも、ステージに上がるのはしんどいよ。もちろん、嬉しいことや楽しいことも、たくさんあるけど。いつだってプレッシャーはついて回るんだ」
イジュンの目は、いつになく真剣だった。
その眼差しは、ここではないどこかを眺めているようだった。
「プレッシャーに押しつぶされそうになったとき、お前には、何か、お守りみたいなものはあるのか?」
俺がそう尋ねると、イジュンは、弾かれたように俺を振り返った。
「なかった……けど、これからは、あるよ」
イジュンはにっこりと微笑み、制服のベルトループに提げている、クラゲのマスコットを軽く持ち上げた。
「きっと、これがあれば、いつだって心強い」
なぜだかわからないけれど、少しだけ、泣けてしまいそうになった。
イジュンの十八年間の人生のなかで、この街で過ごした時間は、たったの四ヶ月だ。
その短い間に得たマスコットが、唯一の支えだなんて。
「もっと、増やそう。それだけじゃ、ダメだ。抱えきれないくらい、たくさん、思い出も、宝物も増やそう」
そう伝えたくて、一生懸命、韓国語に変換した。
「더 많이 만들자. 그것만으로는 안 돼. 다 안을 수 없을 만큼, 추억도 보물도 잔뜩 만들자」
間違っているかもしれない。伝わらないかもしれない。
たどたどしい俺の韓国語を聞き終わると、イジュンは、なぜか俺に飛びついてきた。
ぎゅうっとハグされ、イジュンの爽やかな匂いが、鼻腔いっぱいに広がる。
「なんだよ、突然」
「ごめん。我慢、できなかった。やっぱり——成瀬くんは、世界でいちばん優しくて、かっこいい男だね」
イジュンは、パッと俺から体を離すと、そんなふうに言って笑った。
「お世辞言っても、何も出ない」
「出てるよ。いっぱい。成瀬くんは、もう、抱えきれないくらいたくさん、僕に宝物をくれた」
ちゃんと、伝わっているんだ。
そう思うと、なんだかすごく嬉しかった。
「まだ全然だ。もっと、増やすぞ」
半年は、短い。
海100リストにある出来事も、それ以外の思い出も。
一つでも多く、作ってやりたい。
「まずは、このコンテストで勝って、僕にトロフィー頂戴」
「なんだよ。欲しいなら——」
自分で出ればよかっただろ。そう言いかけて、それが叶わないことだと思い至った。
正体を隠さず文化祭のステージに立てば、学外からも大勢の人が押し寄せる。きっと今まで、こうした学校行事には、まともに参加できなかったのだろう。
「わかった。獲るぞ、トロフィー」
イジュンが欲しいもの。
イジュンのしたいこと。
俺なんかで実現できるのなら。叶えられるものすべてを、叶えてやりたい。
さっきまで、あんなにも緊張していたのに。
イジュンの話を聞いたら、緊張よりもやる気が勝って、指先の震えも収まっていた。
前髪をピンで留めていた間は、ピンを外せばいつでも元の自分に戻れると思っていた。
だけど今の俺は、元の自分に戻りたいなんて、一ミリも考えてない。
イジュンに出会う前と、イジュンに出会ってから。
俺の人生は、完全に別のものになってしまった。
髪を切ったその日に、俺は、長らく返信を先延ばしにしていた編集者の女性に、メッセージを送った。
すぐに返事が来て、直接会いたいと言われた。
見知らぬ大人と一人で会うことに、少し不安があった。
親に打ち明けるのは、まだ怖かった。
だから、美術部顧問の石川先生に相談し、返信の文章を一緒に考えてもらった。
『文化祭で、美術部の展覧会があります。もし、時間があれば、来ていただけませんか』
『進路に関わることなので、できれば、部活の顧問の先生と一緒に話を伺いたいです』
ほどなく、編集者から返信が届いた。
『ぜひ、お伺いいたします!』
待ち合わせは、文化祭当日の十六時に決まった。
そして迎えた文化祭当日。
編集者との面談の前に、ミスターコンがある。
俺はイジュンと、在廊当番を除く美術部員たちとともに、会場である屋外特設ステージに向かった。
ミスターコンに出場するには、クラスか部活動から推薦を受けなくてはならない。
笹野さんが進めていたエントリーを、美術部のみんなが正式に後押ししてくれたため、俺は部の代表として参加することになった。
「文化部から出場するなんて、珍しいね」
「美術部? え、ちょっと待って。ねえ、あれって——」
参加者は、それぞれ一人の推薦者と共に壇上へ上がる。
俺の後ろには、このステージ上で最も輝きを放つ男、イジュンが立っている。
「えぇっ!? どうしてイジュン先輩が、推薦者なの!? ミスターコン参加者じゃなくて!?」
イジュンの姿に気づいた観客の間にどよめきが起こる。
驚く気持ちは、とてもわかる。
俺だって、ありえないと思う。
だけど、壇上に並ぶ『普通の高校生』たちを眺めると、やっぱりイジュンが出たらダメだとわかる。
プラスチックのビーズの中に、一粒だけダイヤモンドが混ざるような、とんでもない不均衡が生まれてしまう。
「それでは、本年度のミスターコンテストを始めます! まずは、全参加者の顔ぶれをご覧ください。ステージ左から、一年一組代表——」
参加者は総勢十七人。美術部代表の俺は、最後に名前を呼ばれた。全員の紹介が終わると、俺たちはいったんステージ裏へ戻った。
一組ずつ、参加者が二分以内のパフォーマンスを披露し、そのあと推薦者が三十秒間のアピールをする。
ダンスや歌、お笑いなどが続き、次第に会場の空気がダレていくのがわかった。スマホを眺めている観客もいる。
「この状況でパフォーマンスするの、しんどいな」
思わずこぼした俺に、イジュンはまっすぐステージを見つめたまま答えた。
「どんな状況でも、ステージに上がるのはしんどいよ。もちろん、嬉しいことや楽しいことも、たくさんあるけど。いつだってプレッシャーはついて回るんだ」
イジュンの目は、いつになく真剣だった。
その眼差しは、ここではないどこかを眺めているようだった。
「プレッシャーに押しつぶされそうになったとき、お前には、何か、お守りみたいなものはあるのか?」
俺がそう尋ねると、イジュンは、弾かれたように俺を振り返った。
「なかった……けど、これからは、あるよ」
イジュンはにっこりと微笑み、制服のベルトループに提げている、クラゲのマスコットを軽く持ち上げた。
「きっと、これがあれば、いつだって心強い」
なぜだかわからないけれど、少しだけ、泣けてしまいそうになった。
イジュンの十八年間の人生のなかで、この街で過ごした時間は、たったの四ヶ月だ。
その短い間に得たマスコットが、唯一の支えだなんて。
「もっと、増やそう。それだけじゃ、ダメだ。抱えきれないくらい、たくさん、思い出も、宝物も増やそう」
そう伝えたくて、一生懸命、韓国語に変換した。
「더 많이 만들자. 그것만으로는 안 돼. 다 안을 수 없을 만큼, 추억도 보물도 잔뜩 만들자」
間違っているかもしれない。伝わらないかもしれない。
たどたどしい俺の韓国語を聞き終わると、イジュンは、なぜか俺に飛びついてきた。
ぎゅうっとハグされ、イジュンの爽やかな匂いが、鼻腔いっぱいに広がる。
「なんだよ、突然」
「ごめん。我慢、できなかった。やっぱり——成瀬くんは、世界でいちばん優しくて、かっこいい男だね」
イジュンは、パッと俺から体を離すと、そんなふうに言って笑った。
「お世辞言っても、何も出ない」
「出てるよ。いっぱい。成瀬くんは、もう、抱えきれないくらいたくさん、僕に宝物をくれた」
ちゃんと、伝わっているんだ。
そう思うと、なんだかすごく嬉しかった。
「まだ全然だ。もっと、増やすぞ」
半年は、短い。
海100リストにある出来事も、それ以外の思い出も。
一つでも多く、作ってやりたい。
「まずは、このコンテストで勝って、僕にトロフィー頂戴」
「なんだよ。欲しいなら——」
自分で出ればよかっただろ。そう言いかけて、それが叶わないことだと思い至った。
正体を隠さず文化祭のステージに立てば、学外からも大勢の人が押し寄せる。きっと今まで、こうした学校行事には、まともに参加できなかったのだろう。
「わかった。獲るぞ、トロフィー」
イジュンが欲しいもの。
イジュンのしたいこと。
俺なんかで実現できるのなら。叶えられるものすべてを、叶えてやりたい。
さっきまで、あんなにも緊張していたのに。
イジュンの話を聞いたら、緊張よりもやる気が勝って、指先の震えも収まっていた。

