卒業までに、きみとシたい100のこと

 夏休みが始まると、俺は、毎日イジュンの家に行くようになった。
 まずは歌の練習をして、そのあと、イジュンはダンスや歌のトレーニング、筋トレなどをして過ごした。俺はその間、持参したタブレットでオンライン学習サービスの夏期講習を受け、受験に備えた。
 
 昼飯は、休憩がてら二人で作った。
 俺は韓国料理の、イジュンは和食のレパートリーが増えた。
 
 歌を教えてもらう代わりに、俺はイジュンに絵を教えた。
 絵の腕前は、なかなか上達しなかった。だけど、配色やレイアウトのセンスは、やっぱり抜群にいい。
「成瀬くん、タイトル入れるの、ここのほうがいいと思う」
 イジュンがタブレットを操作すると、扉絵が見違えるほどよくなった。
「今度から、扉絵のタイトルロゴ、お前に相談してもいいか? 時間のあるときだけでいいから」
「いいの!? やりたい! なんなら、SNSの告知用画像も毎回作るよ!」
 それ以来、海100リストの扉絵は、俺が絵を描き、イジュンがタイトルロゴを入れて、二人で仕上げるようになった。

 夕方になって集中力が切れてくると、人の多い東浜や西浜を避け、腰越より先の浜まで足を伸ばして泳いだりもした。

「いいなあ、海の近くに住めるの」
 気持ちよさそうに背浮きしながら、イジュンが言った。
「住んでるじゃないか、お前も」
「今はね。——成瀬くんは、この先も、ずっとここに住んでる?」
「出てく理由もないしな」

 都内までは電車で一時間。
 進学しても就職しても、ここから通える。わざわざ離れる理由はない。
 海のない街で生活する未来を、俺は、想像することができなかった。

「そっか……」
 イジュンの笑顔が、なぜだか曇った。
「お前の暮らしてた街には、海はないのか?」
「ないよ。地下鉄で一時間くらい離れた場所には、あるけど」
 都心の高層ビルに囲まれて暮らすイジュンを想像し、なんとなくイジュンには、この街の方が似合うんじゃないかって、よくわからないことを考えた。

「海が恋しくなったら、いつでも、帰ってくればいい」
 イジュンが、大きく目を見開く。
「진짜?!」
 聞き取れるぞ。これは、「本当に!?」だ。
「ああ。정말이야(本当だよ)」
 イジュンは、くるんときれいに回転して、背浮きから立ち泳ぎの姿勢になった。

 すっかり日が傾き、海は夕焼けに染まっている。水面の向こうに、暮れなずむ江ノ島が見える。
 沖まで出ているから、近くには誰もいない。
 イジュンは片手でスカーリングしながら、もう片方の手で俺に小指を差し出してきた。

「やくそく」

 わざわざ日本語の発音で、イジュンは言った。

「약속(やくそく)」

 俺は、韓国語の発音を真似て、同じ言葉をかえす。
 どちらも漢字の『約束』からきているから、発音が似ているのだ。
 
 互いに立ち泳ぎのまま、小指を絡め合う。
 イジュンは指を絡めたまま、泣き笑いみたいな表情を浮かべた。

「あと半年しかないなんて。すごく、つらい」

 イジュンにとって、この街で過ごす時間は、長い夏休みのようなものなのかもしれない。
 十歳で親元を離れ、芸能界に飛び込んだイジュン。
 こいつの部屋に通うようになって、どれだけストイックな暮らしを送っているのか、嫌になるくらい思い知らされた。
 
 透き通るように白い肌も、引き締まった体躯も、生まれ持ったものだけじゃない。
 並ならぬ努力によって、磨き込まれ、維持されているものだ。
 夕暮れ時にしか泳がないのも、日差しを気にしているからだろう。

「半年の間に、お前のしたいこと、全部しよう」
 韓国語で、伝えてやれたらよかった。
 勉強不足の俺は、自信がなくて日本語でしか伝えられなかった。

「ありがとう。すごく嬉しい……!」
 イジュンはそう言って、ぎゅっと俺の手を握ってくれたけれど。
 その顔は、さっき以上に、今にも泣き出してしまいそうだった。
 
 **

 高校生活最後の夏休みは、あっという間に終わってしまった。
 二学期が始まると、文化祭の準備や受験勉強で、クラスの誰もが忙しそうだ。

 長浜のイジュンに対する嫌がらせは、相変わらず続いている。
 イジュンに残された時間の少なさを思うと、黙って見ていることなんか、できなかった。

 球技は大の苦手だ。
 だけど、バスケなら身長を活かしてボールを奪うことくらいはできる。

 いつもの陰湿な仲間外れ。
 俺は、相手チームにいる長浜の取り巻きからボールを奪い、イジュンに向かってパスを出した。
「イジュン! 行け!」
 イジュンは、驚いて大きく目を見開く。
 だけど、持ち前の瞬発力で、コントロールの悪い俺のパスにくらいつき、見事なロングシュートを決めた。

「ナイッシュー!」
 隣のコートでバレーの授業を受けていた笹野さんが、館内に響き渡る声援を送った。
 つられるように、他の女子も歓声を上げる。
「くそっ……!」
 悔しがる長浜を、取り巻きたちがなだめた。

 少しは気が晴れるかと思ったけれど、俺の気持ちは少しもすっきりしなかった。

 こんなのは、ダメだ。
『普通の青春を過ごしたい』と切望して、イジュンはこの国にやって来た。
 俺は、あいつに、もっと普通の青春を、送らせてやりたい。
 
 ミスターコンに勝つことで、長浜が改心してくれるかどうかなんて、俺にはわからない。
 むしろ、余計に嫌がらせが加速するかもしれない。
 だけど——それでも、きっと何かが変わるはずだ。
 長浜を変えられなくとも、クラスの他の奴らの心を、わずかでも動かすことができるはず。

 俺は苛立ちとも悔しさともつかない気持ちを抱えたまま、イジュンとハイタッチした。
 そして、素晴らしいシュートを讃えるように、微かに汗ばんだその髪をくしゃくしゃにした。