卒業までに、きみとシたい100のこと

 一限目は、英語コミュニケーションⅢだった。
 教科書の準備が間に合わなかったらしい。イジュンは学校から貸し出されたタブレットしか持っていなかった。

 先生に頼まれ、俺は自分の机をイジュンの机に近づけた。
 二つの机の真ん中に、コミュⅢの教科書を置く。
「ありがとう」
 にっこりと笑顔を向けられ、どう返していいかわからなくなる。

 無視するわけにもいかない。
 俺は、無言でこくりと頷いた。

 イジュンはタブレットをノートがわりにして、タッチペンで板書を書き写し始めた。
 ペン先がタブレットの上を滑っていく。流れるような筆記体は、誰かに見せることを前提にしているみたいに整っていた。

「キム・イジュン。次の段落、読んでくれ」
「はい」
 イジュンは、落ち着いた表情で、すっと立ち上がると、

「借りるね」
 と俺に声をかけ、教科書を持ち上げた。
 
 そして、驚くほど自然な発音で、英文を読み始めた。
 ただ文字を読み上げているだけには聞こえない。
 書かれている内容を、自分の言葉として誰かに語りかけているようだった。

「発音、やば……」
「ネイティブみたい」

 周囲の声を気に留める様子もなく、イジュンは最後の一文まで淀みなく読み切った。

「ありがとう。座っていいぞ」
 教室中の視線を集めても、得意そうな顔ひとつせず、イジュンは教科書を机の真ん中へ戻して腰を下ろす。

「読みやすいように、もう少し、机、寄せてもいい?」
「ああ」
 そのイジュンが、今度は俺のために教科書の角度を直し、机をぴったりとくっつける。

 距離が、さらに近くなる。
 微かに爽やかな香りがして、なぜだか、少し気恥ずかしくなった。

 ああ、そうだ。
 俺は、家族以外の誰かを、こんなにも近くに感じたことがないのだ。

 教科書の次のページをめくろうとすると、イジュンの指も同時に伸びてきた。

 思わず、指先が触れる。
 ほんの少し。
 ただ、それだけのこと。
 それなのに、俺は反射的に手を引っ込めた。

 誰かに触れるときは、気をつけなければならない。
 俺の手は大きい。力も強い。
 そのつもりがなくても、相手を怖がらせてしまう。

 引っ込めた手をぎゅっと握りしめると、イジュンが俺の顔を覗き込んできた。
「ごめん。もしかして、人に触られるの、嫌いだったりする?」
 耳元で、小さく囁かれた声。
 その距離の近さに、再び身体が強張る。

「おい、そこ。何を話してる。成瀬。今の文章で、筆者が最も伝えたかったことは何だ。英語で答えろ」
 不意に名前を呼ばれ、心臓が跳ねた。

「え……」
 まずい。頭の中が真っ白だ。足が震えて、うまく力が入らない。
 それどころか、せっかくイジュンが読み上げてくれた英文を、俺はほとんど聞いていなかった。

「先生」
 そのとき、イジュンが立ち上がった。
「僕が話しかけたせいで、成瀬くんの集中を邪魔しました。すみません。代わりに、僕に答えさせてください」

 先生が呆れたように眉を寄せる。
「……そこまで言うなら、答えてみろ」
「はい」
 イジュンはきれいな英語で、先生の質問に答えた。

「完璧だ。発音だけじゃなく、内容もきちんと理解できてるな。二人とも、もう私語はするなよ」
「はい。すみません」
 イジュンが再び着席する。
 
 お礼の言葉を探している間に、すっとタブレットを差し出された。
 そこには、子どもみたいないびつなひらがなで、『ぼくのせいで ごめんね』と書かれていた。

 全然、お前のせいじゃない。そう伝えたいのに、うまく言葉が出てこない。
 だから俺は、知っている数少ない韓国語を、自分のノートに書いてイジュンに見せた。

『고마워요』
 イジュンの瞳が、大きく見開かれる。

 次の瞬間、イジュンは顔いっぱいに笑みを広げると、タブレットに大きく、
『じょうず!』と書いた。

 さらに、その下に、
『고마워요は ていねいな「ありがとう」』
 と書き、その隣に矢印を引く。
『ともだちなら こっち→고마워』
 そう書き加えて、俺のほうへ画面を向けた。

 ともだち。

 『고마워요』と『고마워』の違いなんて、俺にはわからない。
 だけど、その日本語の四文字だけは、見間違えようがなかった。

 ぎこちないひらがなで書かれたその言葉が、妙に鮮烈に脳裏に焼きつく。
 コミュⅢの続きも、その次の科目も、ちっとも頭に入ってこなかった。