イジュンをソファに座らせて怪我の具合を確認すると、足首の腫れはさらに酷くなっていた。擦り傷を避け、腫れた部分に湿布を貼る。
「病院、明日まで我慢できるか?」
「大丈夫だよ。それより、夕飯、用意するよ」
「ダメだ。怪我人は座ってろ。コンビニで何か買ってくるから待ってろ」
立ち上がろうとして、イジュンにTシャツの袖を掴まれた。
「今日は朝も昼も外食だったし、夜くらいは、自炊したい」
つるんとしたイジュンの白い肌。
シミひとつない澄んだ肌を保つには、食生活に気を遣う必要があるのかもしれない。
「わかった。俺がやる。食材は何があるんだ?」
「成瀬くん、料理作れるの?」
「母親と二人暮らしだからな。大したものは作れないけど、コメ炊いて炒め物作るくらいはできる。冷蔵庫、見てもいいか?」
「作り置きのスープがあるよ。肉も入ってるから、コメを炊いて、トマトを切れば、それなりの夕食になるかも」
冷蔵庫を開けて確認してみると、鍋に入ったスープがあった。肉や野菜がたっぷり入った、ポトフみたいなやつだ。
「これ、自分で作ったのか?」
「学食だと、野菜不足になりがちだしね。味薄めだから、物足りなかったら好きにアレンジして」
米を研いで炊飯器にセットした後、弱火でスープを温め、味見してみる。
「うま……!」
思わず、声が出た。
「本当に?」
「ああ。めちゃくちゃうまい。すごいな。トマト、生じゃないとだめか?」
「どうして?」
「卵、賞味期限近いっぽいし。嫌じゃなければ、トマトと炒める」
「おいしそう! 成瀬くんの手料理、食べてみたい」
瞳を輝かせてソファから立ちあがろうとしたイジュンに、
「가만있어。じっとしてろ」と告げ、手早くトマトと卵の炒め物を作る。
炊き上がりを知らせる炊飯器の電子音が鳴り、無事に夕飯にありつくことができた。
「맛있어! 成瀬くん、すごい!」
「すごくない。親はちゃんと湯剥きするけど、俺のは皮、そのままだし」
「皮あるほうが、好みかも。卵ふわふわ!」
「お前こそ、すごいな。いつから自炊してるんだ?」
「十歳から寮暮らしだったし、気づいたら自分で作ってた」
「寮って芸能事務所の?」
「そんな感じかな。今は、一人暮らし許してもらえてるけど、事務所の用意したマンションだし、あんまり自由はないよ。こっちに来て、初めて一人暮らしが楽しいって思った」
楽しい、というイジュンの言葉と、がらんとして何もない部屋のギャップに、少し落ち着かない気持ちになる。
「寂しくなったり、しないのか」
「慣れた、かな。——僕にとっては、海100リストの三人が、支えだったから」
なんでもないことのようにサラッと俺の作品の名前を出され、胸が苦しくなる。
「日本の漫画やアニメが好きで、日本に移り住む人、多いって聞くけど。気持ち、すっごくわかるよ。僕も、ずっと来たかった。もちろん、虚構だってわかってる。それでも、その虚構の世界に、たった一年間だけでもいいから、暮らしてみたかった」
トマトと卵の炒め物をきれいに平らげ、イジュンはニコッと微笑んだ。
切実な言葉と、楽しそうなその笑顔のちぐはぐさが、たまらなく胸に沁みる。
「そこ、笑うとこじゃないだろ」
「え……?」
「お前は、俺の前髪をクリップで留めてくれた。お前も、無理に笑わなくていい。俺の前では、無理に笑う必要ない」
イジュンの瞳が、みるみるうちに潤んでゆく。
「아, 역시 똑같아!」
意味がわからなかったから、「무슨 뜻이야?」と、韓国語で意味を尋ねてみる。
「今まで、どうして気づかなかったんだろう。成瀬くんは、海100リスト、そのものだ。——日本人がみんなそうなのかと思ったけど、違う。成瀬くんが、あの三人とまったく同じなんだ。僕が、好きで、好きで、大好きで、ずっと会いたかった三人と、まったく同じなんだよ」
イジュンは、笑わなかった。
今にも泣き出しそうな顔で、切実な声で、訥々と語る。
友だちができたのは、初めてだから。
こんなとき、どんな言葉をかけたらいいのか、俺にはわからない。
だから一生懸命考えて、俺は、言葉を選んだ。
「お前のしたいこと、全部しよう。韓国でできないこと、全部だ。海辺じゃなくてもいい。リストは、まだ27個余ってる。再現じゃなくてもいいんだ。新しい思い出で、残りのリストを埋めよう」
「だけどそれじゃ、別の作品になっちゃうよ?」
「ならない。あれは、俺のしたいことを、描くための作品だったから」
「だったらなおさら——」
「今の俺がしたいのは、『イジュンのしたいことを叶える』こと。イジュンのしたいことが、俺のしたいことなんだよ」
イジュンは左手で自分の目元を覆って、しばらく黙り込んだ後、絞り出すような声で、「ずるい……」と言った。
「僕の最推しは、直斗くんだったのに。——推し変確定。僕は、世界でいちばん、成瀬くんの友だちになりたい」
泣きべそをかく直前みたいに、眉をへの字にした顔で、イジュンは、俺にそう訴えた。
「もう、友だちだろ」
友だち、と口に出すとき、やっぱり今もすごく照れくさかった。
イジュンのように、堂々と発音できない。
「うん。でも、友だちじゃ足りない。もっと、もっと——」
イジュンは何かを言いかけ、言葉を飲み込んだ後、小さく深呼吸して、言葉を振り絞った。
「親友、じゃなくちゃ嫌だ。僕は、成瀬くんのいちばんになりたい」
親友。
初めて、誰かにそう呼ばれた。
この先の人生、これが最初で最後かもしれない。
友だちと言われたときのくすぐったさとは違う、すごく、大きくて、とても大切な言葉。
軽々しく口にできないその言葉を、イジュンは、少し震えているみたいな声で、俺に告げてくれた。
「俺は、とっくに親友だと思ってたけど?」
頑張って平静を装ったけど、俺の声も、少し震えていた。
イジュンは、大きく目を見開いて、それから、ずっと堪えていた涙を、とうとう溢れさせた。
「너무 행복해서 미칠 것 같아!」
イジュンが、何かを叫んだ。
「나루세 군을 좋아해. 너무 좋아해서 미칠 것 같아!」
成瀬って、聞こえた気がする。だけど、全然わからない。
イジュンは、同じ言葉を何度も繰り返して、だけど、ちっともわからない。
「待て! 翻訳アプリ、使うから」
スマホを取り出そうとして、素早く手を掴まれた。
「だめ!」
「なんでだよ! ていうか、立ち上がるな。じっとしてろ」
勝手に立ち上がったイジュンを、椅子に押し戻す。
イジュンは、唇を噛み締め、何かを堪えるような表情をした。
「今のは、訳しちゃダメな言葉だ。伝わらなくていい。もう、言わないから。絶対に、言わないから。だから、訳さないで。記憶からも、消してほしい」
「は? わけわかんないんだけど」
ちょっと、イラッとした。
親友と言ってくれて、すごく嬉しかったのに。
今になって隠し事とか、酷く悲しい。
「ごめん。おかしいの、治すから。ちゃんと、元の僕に戻るから。だから——忘れて、欲しい。これからも、友だちで、いてほしい」
「——親友じゃなくて?」
「親友、がいい。ずっと、親友がいい」
俺の手を掴むイジュンの手に、ぎゅっと力がこもる。
いつになく必死なその姿に、俺は、それ以上、イジュンを責める気にはなれなかった。
納得したわけじゃない。今の言葉を、忘れられるとも思えない。
それでも、今はこれ以上、聞かないことにした。
「わかった。親友な。韓国語で、なんて言うんだ?」
「절친」
「절친?」
「じょうず!」
やっと、いつもの笑顔が出た。
たぶん、作り笑いじゃない。そうであって欲しいと、心から思う。
イジュンは感情が昂ったとき、いつだって韓国語になる。
だから、イジュンの本当の気持ちを知るには、イジュンの言葉を学ばなくちゃいけない。
もっと韓国語を勉強しよう。
イジュンの口からこぼれた、どんな些細な言葉も、聞き漏らさないように。
ちゃんと、正しく理解できるように。
イジュンは、爪が食い込むほど強く、左手で俺の手を握りしめていた。
俺は、泣き笑いみたいなその顔を、しばらくぼーっと眺め続けてしまった。
「病院、明日まで我慢できるか?」
「大丈夫だよ。それより、夕飯、用意するよ」
「ダメだ。怪我人は座ってろ。コンビニで何か買ってくるから待ってろ」
立ち上がろうとして、イジュンにTシャツの袖を掴まれた。
「今日は朝も昼も外食だったし、夜くらいは、自炊したい」
つるんとしたイジュンの白い肌。
シミひとつない澄んだ肌を保つには、食生活に気を遣う必要があるのかもしれない。
「わかった。俺がやる。食材は何があるんだ?」
「成瀬くん、料理作れるの?」
「母親と二人暮らしだからな。大したものは作れないけど、コメ炊いて炒め物作るくらいはできる。冷蔵庫、見てもいいか?」
「作り置きのスープがあるよ。肉も入ってるから、コメを炊いて、トマトを切れば、それなりの夕食になるかも」
冷蔵庫を開けて確認してみると、鍋に入ったスープがあった。肉や野菜がたっぷり入った、ポトフみたいなやつだ。
「これ、自分で作ったのか?」
「学食だと、野菜不足になりがちだしね。味薄めだから、物足りなかったら好きにアレンジして」
米を研いで炊飯器にセットした後、弱火でスープを温め、味見してみる。
「うま……!」
思わず、声が出た。
「本当に?」
「ああ。めちゃくちゃうまい。すごいな。トマト、生じゃないとだめか?」
「どうして?」
「卵、賞味期限近いっぽいし。嫌じゃなければ、トマトと炒める」
「おいしそう! 成瀬くんの手料理、食べてみたい」
瞳を輝かせてソファから立ちあがろうとしたイジュンに、
「가만있어。じっとしてろ」と告げ、手早くトマトと卵の炒め物を作る。
炊き上がりを知らせる炊飯器の電子音が鳴り、無事に夕飯にありつくことができた。
「맛있어! 成瀬くん、すごい!」
「すごくない。親はちゃんと湯剥きするけど、俺のは皮、そのままだし」
「皮あるほうが、好みかも。卵ふわふわ!」
「お前こそ、すごいな。いつから自炊してるんだ?」
「十歳から寮暮らしだったし、気づいたら自分で作ってた」
「寮って芸能事務所の?」
「そんな感じかな。今は、一人暮らし許してもらえてるけど、事務所の用意したマンションだし、あんまり自由はないよ。こっちに来て、初めて一人暮らしが楽しいって思った」
楽しい、というイジュンの言葉と、がらんとして何もない部屋のギャップに、少し落ち着かない気持ちになる。
「寂しくなったり、しないのか」
「慣れた、かな。——僕にとっては、海100リストの三人が、支えだったから」
なんでもないことのようにサラッと俺の作品の名前を出され、胸が苦しくなる。
「日本の漫画やアニメが好きで、日本に移り住む人、多いって聞くけど。気持ち、すっごくわかるよ。僕も、ずっと来たかった。もちろん、虚構だってわかってる。それでも、その虚構の世界に、たった一年間だけでもいいから、暮らしてみたかった」
トマトと卵の炒め物をきれいに平らげ、イジュンはニコッと微笑んだ。
切実な言葉と、楽しそうなその笑顔のちぐはぐさが、たまらなく胸に沁みる。
「そこ、笑うとこじゃないだろ」
「え……?」
「お前は、俺の前髪をクリップで留めてくれた。お前も、無理に笑わなくていい。俺の前では、無理に笑う必要ない」
イジュンの瞳が、みるみるうちに潤んでゆく。
「아, 역시 똑같아!」
意味がわからなかったから、「무슨 뜻이야?」と、韓国語で意味を尋ねてみる。
「今まで、どうして気づかなかったんだろう。成瀬くんは、海100リスト、そのものだ。——日本人がみんなそうなのかと思ったけど、違う。成瀬くんが、あの三人とまったく同じなんだ。僕が、好きで、好きで、大好きで、ずっと会いたかった三人と、まったく同じなんだよ」
イジュンは、笑わなかった。
今にも泣き出しそうな顔で、切実な声で、訥々と語る。
友だちができたのは、初めてだから。
こんなとき、どんな言葉をかけたらいいのか、俺にはわからない。
だから一生懸命考えて、俺は、言葉を選んだ。
「お前のしたいこと、全部しよう。韓国でできないこと、全部だ。海辺じゃなくてもいい。リストは、まだ27個余ってる。再現じゃなくてもいいんだ。新しい思い出で、残りのリストを埋めよう」
「だけどそれじゃ、別の作品になっちゃうよ?」
「ならない。あれは、俺のしたいことを、描くための作品だったから」
「だったらなおさら——」
「今の俺がしたいのは、『イジュンのしたいことを叶える』こと。イジュンのしたいことが、俺のしたいことなんだよ」
イジュンは左手で自分の目元を覆って、しばらく黙り込んだ後、絞り出すような声で、「ずるい……」と言った。
「僕の最推しは、直斗くんだったのに。——推し変確定。僕は、世界でいちばん、成瀬くんの友だちになりたい」
泣きべそをかく直前みたいに、眉をへの字にした顔で、イジュンは、俺にそう訴えた。
「もう、友だちだろ」
友だち、と口に出すとき、やっぱり今もすごく照れくさかった。
イジュンのように、堂々と発音できない。
「うん。でも、友だちじゃ足りない。もっと、もっと——」
イジュンは何かを言いかけ、言葉を飲み込んだ後、小さく深呼吸して、言葉を振り絞った。
「親友、じゃなくちゃ嫌だ。僕は、成瀬くんのいちばんになりたい」
親友。
初めて、誰かにそう呼ばれた。
この先の人生、これが最初で最後かもしれない。
友だちと言われたときのくすぐったさとは違う、すごく、大きくて、とても大切な言葉。
軽々しく口にできないその言葉を、イジュンは、少し震えているみたいな声で、俺に告げてくれた。
「俺は、とっくに親友だと思ってたけど?」
頑張って平静を装ったけど、俺の声も、少し震えていた。
イジュンは、大きく目を見開いて、それから、ずっと堪えていた涙を、とうとう溢れさせた。
「너무 행복해서 미칠 것 같아!」
イジュンが、何かを叫んだ。
「나루세 군을 좋아해. 너무 좋아해서 미칠 것 같아!」
成瀬って、聞こえた気がする。だけど、全然わからない。
イジュンは、同じ言葉を何度も繰り返して、だけど、ちっともわからない。
「待て! 翻訳アプリ、使うから」
スマホを取り出そうとして、素早く手を掴まれた。
「だめ!」
「なんでだよ! ていうか、立ち上がるな。じっとしてろ」
勝手に立ち上がったイジュンを、椅子に押し戻す。
イジュンは、唇を噛み締め、何かを堪えるような表情をした。
「今のは、訳しちゃダメな言葉だ。伝わらなくていい。もう、言わないから。絶対に、言わないから。だから、訳さないで。記憶からも、消してほしい」
「は? わけわかんないんだけど」
ちょっと、イラッとした。
親友と言ってくれて、すごく嬉しかったのに。
今になって隠し事とか、酷く悲しい。
「ごめん。おかしいの、治すから。ちゃんと、元の僕に戻るから。だから——忘れて、欲しい。これからも、友だちで、いてほしい」
「——親友じゃなくて?」
「親友、がいい。ずっと、親友がいい」
俺の手を掴むイジュンの手に、ぎゅっと力がこもる。
いつになく必死なその姿に、俺は、それ以上、イジュンを責める気にはなれなかった。
納得したわけじゃない。今の言葉を、忘れられるとも思えない。
それでも、今はこれ以上、聞かないことにした。
「わかった。親友な。韓国語で、なんて言うんだ?」
「절친」
「절친?」
「じょうず!」
やっと、いつもの笑顔が出た。
たぶん、作り笑いじゃない。そうであって欲しいと、心から思う。
イジュンは感情が昂ったとき、いつだって韓国語になる。
だから、イジュンの本当の気持ちを知るには、イジュンの言葉を学ばなくちゃいけない。
もっと韓国語を勉強しよう。
イジュンの口からこぼれた、どんな些細な言葉も、聞き漏らさないように。
ちゃんと、正しく理解できるように。
イジュンは、爪が食い込むほど強く、左手で俺の手を握りしめていた。
俺は、泣き笑いみたいなその顔を、しばらくぼーっと眺め続けてしまった。

