イジュンは濡れた制服を脱ぎ、腰にタオルだけを巻いた状態で、俺の肩にもたれながら浴室に入った。
俺は濡れた服の袖をまくり上げ、そのまま浴室へ入った。どうせすでに、全身ずぶ濡れだ。
「浴室用の椅子、ないんだな」
「ないよ。買っておけばよかった」
「ネットで買えば、明日には届く。とりあえず、今日は浴槽の縁に座れ」
イジュンを浴槽の縁に座らせ、まずは足の傷を洗ってやる。岩場だったから砂だらけにはなっていないけれど、血が固まって、とても痛々しい。
沁みないように、低めの温度に設定してやったけれど、それでも辛いみたいだ。
イジュンの体が、びくんとこわばる。
「沁みるか?」
「——少し」
そっと、できるかぎり優しく流してやる。こびりついた血が、少しずつ湯に溶けて流れていく。
恐る恐る触れたイジュンの肌は、驚くほど滑らかで。
触れてはいけないものに触れてしまったような、錯覚に陥った。
できるかぎり表情を押し殺して、血を洗い流す。
足の傷の次は、右手の傷。
痛いだろうに。イジュンはぎゅっと体をこわばらせたまま、必死で声を押し殺している。
「傷は、これできれいになった。ここからは、オプションだ。髪とか洗うの、必要なら手伝ってやる」
「え、いいの……?」
「リスト46」
二年の夏休み、花火で火傷して自分で髪を洗えなくなった直斗の髪を、友人たちが洗ってやる回。読者のリクエストによって生まれた回の番号を告げる。
「——お願いできると助かる」
イジュンは言いづらそうに、俺を見上げた。
いつもは同じ高さの視線が、今は違う。
遠慮がちに、けれども助けを求めるようなその目が、傷ついている今のイジュンそのもののように感じられた。
「わかった。目を瞑っておけ」
イジュンが目を瞑るのを待って、イジュンの髪にシャワーの湯をかける。
しっかりと閉じられた瞼。その目の下にのぞくほくろに、自然と視線が向かってしまう。
いつか、泣きぼくろのキャラを描こう。
そう思えてしまうほど、イジュンの泣きぼくろは、完璧な配置で存在していた。
いや、ほくろだけじゃない。すべてのパーツが、恐ろしいほど整っている。
そりゃ、こんな顔の奴が一般人のわけないよな。そう納得しながら、泡立てたシャンプーでイジュンの髪を洗う。
イジュンは肌だけでなく、髪も異次元の滑らかさだった。
どちらも人間の髪なのに、同じものとは思えないくらい、俺の髪とは質感が違う。
漫画や映画で、男が女の髪を撫でる場面を見ても、どうして髪に触れたがるのか、今まではよく理解できなかった。
だけど、こんな質感なら、そりゃつい触りたくもなるだろう。
「洗った後は、なんかつけるのか?」
「うん、シャンプーの隣にあるやつ」
「これか」
チューブ状の何かから、クリームのようなものを出し、イジュンの髪に塗る。
嗅ぎ覚えのある爽やかな香りがして、「ああ、これがイジュンの匂いの正体か」と、妙に感慨深くなる。
「少し放置してから流す仕組み。待つの大変だと思うし、成瀬くんは先に出ていいよ」
「いや、いい。ついでだし」
しばらく待った後、イジュンの髪を流す。
さっき以上に滑らかな手触りになって、ずっと触れていたい欲求に駆られた。
「これでいいか? 体も、とりあえず背中だけでも流してやるか?」
低めに設定しているとはいえ、湯を出し続けているから、浴室内はムッとした熱気に包まれている。濡れた前髪が鬱陶しくて、俺は無造作に前髪を掻き上げた。
じっと目を閉じていたイジュンが、パチリとまぶたをひらく。
そして、俺の顔を見て、驚いたように目を見開いた。
よくわからない韓国語を早口で呟き、イジュンはさりげなく、俺から目を逸らす。
「大丈夫っ。やっぱり、自分で洗う!」
イジュンはそう叫ぶと、なぜか腰に巻いたタオルを押さえながら、いきなり立ちあがろうとした。
「危ない!」
痛そうによろめくその体を、咄嗟に支える。
「無理するな。遠慮も不要だ。——俺に何かあったときは、お前に頼るから。ウチの親、夜勤多いし。何か困ったら、お前に連絡する」
「ほんとに……?」
少しずつだけれど、イジュンのことがわかってきた。
イジュンはとても義理堅く、自分だけが相手に何かをしてもらうことを、よしとしない。
だから、これが単なる貸し借りの一環であるとわかれば、安心して頼ってくれるのだ。
「わかった……じゃあ、背中だけ。お願いする」
大人しく浴槽の縁に腰かけたイジュンの背中を、俺はボディーソープの泡がついたスポンジで洗った。
イジュンの背中は、思った以上に広い。
着痩せするタイプなのだと思う。細身なようで、胸板も厚く、しっかり筋肉がついているのだ。
中性的な顔立ちと、くっきり割れたシックスパック。
どこをとっても、腹立たしいほど絵になる男だ。
当然か。アイドルなんだから。半裸姿で、写真集やグラビアの撮影をすることもあるのかもしれない。
そんな異次元の美貌を持つ男が、飼い主に洗われるわんこのように、じっと大人しく洗われている姿は、なんだかちょっとおかしくて笑えてくる。
「ほら、さすがにこれ以上は、人に洗われるの嫌だろ。向こう向いててやる。呼ばれたら流してやるから、自分で洗え」
イジュンにスポンジを手渡し、背中を向ける。
どこかで転ばれても困る、と思い、イジュンが顔と体を洗い終わり、無事に脱衣所に戻るのを見届けてから、俺も手早くシャワーを浴びた。
風呂から上がると、すでに髪を乾かし終え、身支度を整えたイジュンが立っていた。
Tシャツとハーフパンツ。なんでもない服装なのに、手足の長さやスタイルの良さ、顔の小ささが異様に目立つ。
そして普段は隠れている泣きぼくろ。
あまり見てはいけないと思いつつ、つい視線が吸い寄せられてしまう。
「ぴったりだ。やっぱり、体型、似てるね!」
イジュンに借りたTシャツとハーフパンツを身に纏った俺を見て、イジュンは嬉しそうに笑った。
「成瀬くん、前髪って……傷見られるのが嫌で、伸ばしてる?」
「ああ。見てて気分のいいものじゃないと思うし。ただでさえ、これだけデカいと怖がられるからな」
「わかる! 僕も子どものころからずっと、そう思ってた」
「お前でも、怖がられることなんてあるのか……?」
意外すぎる言葉に、俺が尋ねると、イジュンは「あるよ!」と身を乗り出した。
「僕の場合、成長がかなり早かったから。ずっと怖がられてばっかだったよ。それが辛くて、できるかぎりニコニコして、柔らかめの言葉を使って、『僕は敵じゃないですよ! 危害を加えたりしませんよ!』って、自分の印象を和らげる努力ばかりしてた」
「そう……なのか……?」
「うん。だから——ごめんね。成瀬くんに初めて会ったとき、『僕と同じ悩みを抱えてる人だ!』って、勝手に共感しちゃったんだ。成瀬くんの、その長すぎる前髪も、周囲からわざと距離を置くところも、全部。自分が傷つきたくないっていうより、相手を傷つけたくない、怖がらせたくないからなんだろうなぁって。ごめん。勝手な憶測だから、違うかもしれないけど」
ドクンと心臓が暴れる。
相手を傷つけたくない。怖がらせたくない。
そうだ。俺の行動原理のほぼすべてが、常にそこに結びつく。
距離を置いて、前髪で表情を隠して、自分を押し殺すことで加害性を消そうとした俺と、いつも笑顔で、柔らかな言葉遣いで、加害性がないことを証明し続けようとしたイジュン。
まったく違う二人の行動の、根っこに同じ思いがあったなんて。
俺は今まで、考えつきもしなかった。
「たとえば僕に、いつも話しかけてくれる長浜くん。彼のなかにも、微かだけど『恐れ』を感じるよ。仕方ないと思う。本能的なものだ。自分と違うもの。自分より圧倒的に大きなもの。生き物なら、怖いと思って当然なんだよ」
イジュンの言う通りだ。
それは、生き物として、生き残るために必要な本能なのだろう。
自分より大きなものに近づかない。
それだけで、自然界では生存率が大きく上がると、耳にしたことがある。
「だから、本当に嬉しかった。同じ背丈で、目線の高さも一緒で、自分のことを怖がらない人。成瀬くんが初めてだったから。成瀬くんに出会えて、本当に幸せなんだ」
目頭が、じんと熱くなる。
その言葉、そっくりそのまま返してやる。
俺だって、そうだ。
俺を怖がらず、こんなにもオープンに接してくれた人間は、今まで一人もいなかった。
母親でさえ、この図体を前にたじろぐことがあった。
「だからね、僕の前だけでも、前髪、上げてていいと思うよ。ずっと目元が隠れてたら、鬱陶しいだろうし、不便だよね?」
イジュンは、俺の前髪に遠慮がちに手を伸ばす。
「触ってもいい?」
触れる寸前で手を止め、そう尋ねてくれる。
俺は濡れた服の袖をまくり上げ、そのまま浴室へ入った。どうせすでに、全身ずぶ濡れだ。
「浴室用の椅子、ないんだな」
「ないよ。買っておけばよかった」
「ネットで買えば、明日には届く。とりあえず、今日は浴槽の縁に座れ」
イジュンを浴槽の縁に座らせ、まずは足の傷を洗ってやる。岩場だったから砂だらけにはなっていないけれど、血が固まって、とても痛々しい。
沁みないように、低めの温度に設定してやったけれど、それでも辛いみたいだ。
イジュンの体が、びくんとこわばる。
「沁みるか?」
「——少し」
そっと、できるかぎり優しく流してやる。こびりついた血が、少しずつ湯に溶けて流れていく。
恐る恐る触れたイジュンの肌は、驚くほど滑らかで。
触れてはいけないものに触れてしまったような、錯覚に陥った。
できるかぎり表情を押し殺して、血を洗い流す。
足の傷の次は、右手の傷。
痛いだろうに。イジュンはぎゅっと体をこわばらせたまま、必死で声を押し殺している。
「傷は、これできれいになった。ここからは、オプションだ。髪とか洗うの、必要なら手伝ってやる」
「え、いいの……?」
「リスト46」
二年の夏休み、花火で火傷して自分で髪を洗えなくなった直斗の髪を、友人たちが洗ってやる回。読者のリクエストによって生まれた回の番号を告げる。
「——お願いできると助かる」
イジュンは言いづらそうに、俺を見上げた。
いつもは同じ高さの視線が、今は違う。
遠慮がちに、けれども助けを求めるようなその目が、傷ついている今のイジュンそのもののように感じられた。
「わかった。目を瞑っておけ」
イジュンが目を瞑るのを待って、イジュンの髪にシャワーの湯をかける。
しっかりと閉じられた瞼。その目の下にのぞくほくろに、自然と視線が向かってしまう。
いつか、泣きぼくろのキャラを描こう。
そう思えてしまうほど、イジュンの泣きぼくろは、完璧な配置で存在していた。
いや、ほくろだけじゃない。すべてのパーツが、恐ろしいほど整っている。
そりゃ、こんな顔の奴が一般人のわけないよな。そう納得しながら、泡立てたシャンプーでイジュンの髪を洗う。
イジュンは肌だけでなく、髪も異次元の滑らかさだった。
どちらも人間の髪なのに、同じものとは思えないくらい、俺の髪とは質感が違う。
漫画や映画で、男が女の髪を撫でる場面を見ても、どうして髪に触れたがるのか、今まではよく理解できなかった。
だけど、こんな質感なら、そりゃつい触りたくもなるだろう。
「洗った後は、なんかつけるのか?」
「うん、シャンプーの隣にあるやつ」
「これか」
チューブ状の何かから、クリームのようなものを出し、イジュンの髪に塗る。
嗅ぎ覚えのある爽やかな香りがして、「ああ、これがイジュンの匂いの正体か」と、妙に感慨深くなる。
「少し放置してから流す仕組み。待つの大変だと思うし、成瀬くんは先に出ていいよ」
「いや、いい。ついでだし」
しばらく待った後、イジュンの髪を流す。
さっき以上に滑らかな手触りになって、ずっと触れていたい欲求に駆られた。
「これでいいか? 体も、とりあえず背中だけでも流してやるか?」
低めに設定しているとはいえ、湯を出し続けているから、浴室内はムッとした熱気に包まれている。濡れた前髪が鬱陶しくて、俺は無造作に前髪を掻き上げた。
じっと目を閉じていたイジュンが、パチリとまぶたをひらく。
そして、俺の顔を見て、驚いたように目を見開いた。
よくわからない韓国語を早口で呟き、イジュンはさりげなく、俺から目を逸らす。
「大丈夫っ。やっぱり、自分で洗う!」
イジュンはそう叫ぶと、なぜか腰に巻いたタオルを押さえながら、いきなり立ちあがろうとした。
「危ない!」
痛そうによろめくその体を、咄嗟に支える。
「無理するな。遠慮も不要だ。——俺に何かあったときは、お前に頼るから。ウチの親、夜勤多いし。何か困ったら、お前に連絡する」
「ほんとに……?」
少しずつだけれど、イジュンのことがわかってきた。
イジュンはとても義理堅く、自分だけが相手に何かをしてもらうことを、よしとしない。
だから、これが単なる貸し借りの一環であるとわかれば、安心して頼ってくれるのだ。
「わかった……じゃあ、背中だけ。お願いする」
大人しく浴槽の縁に腰かけたイジュンの背中を、俺はボディーソープの泡がついたスポンジで洗った。
イジュンの背中は、思った以上に広い。
着痩せするタイプなのだと思う。細身なようで、胸板も厚く、しっかり筋肉がついているのだ。
中性的な顔立ちと、くっきり割れたシックスパック。
どこをとっても、腹立たしいほど絵になる男だ。
当然か。アイドルなんだから。半裸姿で、写真集やグラビアの撮影をすることもあるのかもしれない。
そんな異次元の美貌を持つ男が、飼い主に洗われるわんこのように、じっと大人しく洗われている姿は、なんだかちょっとおかしくて笑えてくる。
「ほら、さすがにこれ以上は、人に洗われるの嫌だろ。向こう向いててやる。呼ばれたら流してやるから、自分で洗え」
イジュンにスポンジを手渡し、背中を向ける。
どこかで転ばれても困る、と思い、イジュンが顔と体を洗い終わり、無事に脱衣所に戻るのを見届けてから、俺も手早くシャワーを浴びた。
風呂から上がると、すでに髪を乾かし終え、身支度を整えたイジュンが立っていた。
Tシャツとハーフパンツ。なんでもない服装なのに、手足の長さやスタイルの良さ、顔の小ささが異様に目立つ。
そして普段は隠れている泣きぼくろ。
あまり見てはいけないと思いつつ、つい視線が吸い寄せられてしまう。
「ぴったりだ。やっぱり、体型、似てるね!」
イジュンに借りたTシャツとハーフパンツを身に纏った俺を見て、イジュンは嬉しそうに笑った。
「成瀬くん、前髪って……傷見られるのが嫌で、伸ばしてる?」
「ああ。見てて気分のいいものじゃないと思うし。ただでさえ、これだけデカいと怖がられるからな」
「わかる! 僕も子どものころからずっと、そう思ってた」
「お前でも、怖がられることなんてあるのか……?」
意外すぎる言葉に、俺が尋ねると、イジュンは「あるよ!」と身を乗り出した。
「僕の場合、成長がかなり早かったから。ずっと怖がられてばっかだったよ。それが辛くて、できるかぎりニコニコして、柔らかめの言葉を使って、『僕は敵じゃないですよ! 危害を加えたりしませんよ!』って、自分の印象を和らげる努力ばかりしてた」
「そう……なのか……?」
「うん。だから——ごめんね。成瀬くんに初めて会ったとき、『僕と同じ悩みを抱えてる人だ!』って、勝手に共感しちゃったんだ。成瀬くんの、その長すぎる前髪も、周囲からわざと距離を置くところも、全部。自分が傷つきたくないっていうより、相手を傷つけたくない、怖がらせたくないからなんだろうなぁって。ごめん。勝手な憶測だから、違うかもしれないけど」
ドクンと心臓が暴れる。
相手を傷つけたくない。怖がらせたくない。
そうだ。俺の行動原理のほぼすべてが、常にそこに結びつく。
距離を置いて、前髪で表情を隠して、自分を押し殺すことで加害性を消そうとした俺と、いつも笑顔で、柔らかな言葉遣いで、加害性がないことを証明し続けようとしたイジュン。
まったく違う二人の行動の、根っこに同じ思いがあったなんて。
俺は今まで、考えつきもしなかった。
「たとえば僕に、いつも話しかけてくれる長浜くん。彼のなかにも、微かだけど『恐れ』を感じるよ。仕方ないと思う。本能的なものだ。自分と違うもの。自分より圧倒的に大きなもの。生き物なら、怖いと思って当然なんだよ」
イジュンの言う通りだ。
それは、生き物として、生き残るために必要な本能なのだろう。
自分より大きなものに近づかない。
それだけで、自然界では生存率が大きく上がると、耳にしたことがある。
「だから、本当に嬉しかった。同じ背丈で、目線の高さも一緒で、自分のことを怖がらない人。成瀬くんが初めてだったから。成瀬くんに出会えて、本当に幸せなんだ」
目頭が、じんと熱くなる。
その言葉、そっくりそのまま返してやる。
俺だって、そうだ。
俺を怖がらず、こんなにもオープンに接してくれた人間は、今まで一人もいなかった。
母親でさえ、この図体を前にたじろぐことがあった。
「だからね、僕の前だけでも、前髪、上げてていいと思うよ。ずっと目元が隠れてたら、鬱陶しいだろうし、不便だよね?」
イジュンは、俺の前髪に遠慮がちに手を伸ばす。
「触ってもいい?」
触れる寸前で手を止め、そう尋ねてくれる。

