卒業までに、きみとシたい100のこと

 江ノ島を出る頃には、空は濃紺から完全な闇に変わっていた。
 橋のたもとで振り返ると、雨空の下、シーキャンドルが青く輝いている。

「ライトアップした姿、見られたな。写真、撮るか?」
 俺の問いに、イジュンは少し申し訳なさそうに眉を下げた。
「さすがに今日はいいよ。また今度。晴れた日に、見に来よう」
「えのすいの年パス買ったしな。元を取る必要がある」
 パスポートのせいに、しておきたかった。

 イジュンは、「ありがとう」と珍しく日本語でお礼を言った。
「なんで、日本語? 韓国語でも、さすがにその言葉はもうわかるぞ」
「知ってる。でも、成瀬くんの心には、きっと日本語のほうが、ちゃんと届く。一ミリでも、ちゃんと心に近い場所に、届けたかった」

 たどたどしく、紡がれる言葉。
 なぜだかわからないけれど、少し指先が震えた。
 その震えを誤魔化すように、できるだけ明るい声を作る。

「じゃあ、その御礼に応えて、特別に、お前を家まで送ってやる」
「え、大丈夫だよ……! ——아야!」

 俺から離れ、一人で歩き出そうとして、ちっとも大丈夫そうじゃない悲鳴を上げたイジュンを、俺はもう一度支える。

「無理して、明日から学校通えなくなっても知らないぞ」
「うぅ……」
 しょんぼりした声を漏らした後、イジュンは俺の体に、そっと体重を預けた。
「じゃあ、今日は甘える。——その代わり、これは、借り1だ。成瀬くんが困ったとき、何があっても駆けつける」
「駆けつけなくても、いつも隣にいるだろ」
「確かに……! 隣にいるから、いつでも助けられるね」

 何言ってんだ。とっくに、俺は助けられてる。
 こんなのの比じゃないくらい、お前はいつだって俺を助け、支えてくれているんだ。

 この時間に、近くで診てもらえるところは見つからなかった。
 ひとまず傷を洗って足を冷やし、明日の朝一番で病院へ連れていくしかない。

 イジュンの家は、片瀬江ノ島駅からほど近い場所にある、マンションの一室だった。
 この界隈でも明らかに高級な部類に入る、セキュリティのしっかりしたマンションだ。
 こいつの親は、いったい何の仕事をしているんだろう。
 素朴な疑問を口にしそうになって、無粋すぎると思って、慌てて飲み込む。

「送ってくれてありがとう。成瀬くん、急いでる?」
「いや。今日は母親、夜勤の日だし。家に帰っても誰もいないから、特に急ぐ必要はない」
「じゃあ、夕飯食べてってよ。簡単なものでよければ、作るよ」
「その足で作る気か?」
「少しくらいなら——」
「駄目だ。先に傷を洗って、足を冷やせ。夕飯は、そのあと俺がどうにかする」

「ごめん。甘えても、いい……?」
 言いづらそうに、発された言葉。
「甘えろ」
 迷う必要なんてなかった。
 短く答えて腕を差し出すと、イジュンはほっとしたように表情を緩め、俺の肩に体を預けた。

 イジュンに肩を貸したまま玄関を上がり、案内されるままリビングに入る。
 広くてきれいだが、生活感のないリビングだった。小ぶりなソファと壁掛けの大型テレビ以外、目立った家具や家電はない。とても寂しい印象の部屋だ。

「ごはんの前に、服、着替えたほうがいい。シャワー、使いなよ。風邪ひいたら大変だ。着替え、貸すし、それ、洗って乾かす」
 ふかふかのバスタオルを手渡され、俺は、自分よりも先に、ずぶ濡れのイジュンの顔を拭いてやった。

「お前こそ、風邪ひくだろ。傷も早く流さないと危険だし」
 顔を拭いて、濡れた髪を乾かしてやろうとしたそのとき——。
 イジュンの目元に、普段はない、ほくろが見えた。

「泣きぼくろ……」
 思わず呟いた俺に、イジュンは、ハッとしたように背を向ける。
「あっち! 早く、シャワー。風邪ひく!」
 浴室と思しき部屋の扉を指差し、イジュンは慌てた様子で告げる。
 慌てているのに日本語を使うなんて、少し不自然だ。
 それ以前に——泣きぼくろ。何かが引っ掛かる。
 なんだっけ。いつか、泣きぼくろの話題が——。

 そこまで考えて、俺の脳裏に、初めてイジュンを見たとき、女子が騒いでいた言葉が蘇った。
「あのアイドルにそっくり! でも泣きぼくろがないから……違うのかな」
 そうだ。確かあのとき、女子たちは、髪の色や泣きぼくろの有無で、イジュンとアイドルは別人だと判定していた。

「イジュン。勘違いだったら、ごめん。もしかして——イジュンは、何か俺に隠し事、してるか? 周りにバレたら、困ること」
 イジュンの背中が、びくんと大きく跳ねる。
 何も答えず、ただ黙って俺に背を向け続けている。

「もしそうなのだとしたら——めちゃくちゃしんどいよな。すごくよくわかる。俺も、隠し事してるから」

 イジュンが、恐る恐る顔を上げる。
 濡れ髪で、泣きぼくろのあるイジュンの顔。
 ただでさえ破壊力のある美形が、とてつもない色香を放っている。
 だけどその目は、大切な何かを失うことを恐れる子どものように、すっかり怯え切っているように見えた。

「——お前だけに明かす。正直、バレたら生きていけないような、墓場まで持って行く気でいた秘密だ」
「なに……?」
 怪訝な顔で、イジュンが俺を見る。
 俺は小さく深呼吸して、一気に告げた。

「海辺の青春100リスト。あの作品の作者は、俺だ」

「어어어어?! 말도 안 돼!」
 イジュンが大きく目を見開き、鼓膜が破れそうなほど大きな声で叫ぶ。
 そして、左手で俺の腕に縋りついてきた。
「本当に!? 嘘でしょ!? どうして、今まで教えてくれなかったの!?」
「——そっくりそのまま、その言葉、お前に返す」
 ハッとした顔で、イジュンは、俺から手を離す。

「미안해」
 韓国語で謝罪した後、イジュンは、まっすぐ俺を見据え、告げた。
「成瀬くんの考えているとおりだよ。僕は——SIEL(シエル)。韓国で、アイドルをしてる」
 初めてイジュンが教室に現れた日、女子が口にしていた名前。
 本人の口から聞かされても、すぐには現実として受け止められなかった。

「バレたら、全部、終わる。学校に通えなくなるし、成瀬くんとも、友だちでいられなくなる。韓国に帰らなくちゃいけなくなると思うと、怖くて言えなかった。ごめん、嘘、たくさん吐いた」
「なんで、バレると友だちでいられなくなるんだ?」
「日本やアメリカで、男のK-POPスターがどんなふうに言われてるか、僕だって知ってる。成瀬くんにも、気持ち悪いって思われるかもしれない。——絶交されるかもしれないって、ずっと怖かった」

 少し前にも、韓国の男性アイドルグループのダンス動画がSNSでバズり、主に男性と思しきアカウントからヘイトコメントが殺到していた。
 そして、ついさっきも、イジュンは稚児ヶ淵で助けた子どもの父親から、差別的な言葉の数々をぶつけられた。
 確かに——そういう偏見を持つ日本人は、実際にいる。

「思うわけないだろ。俺だって、同じようなことを言われ続けてる。重度のオタクで、おまけに、女性受けするコンテンツの作者だ。作者は女性か、ゲイに違いないって、ネットで言われ続けてる」
「成瀬くん、ほんとに海100リストの作者なの……?」
 おずおずと、イジュンが俺の目を覗き込む。
 間近に迫ってきたイジュンの顔。きれいな形の目の下にある泣きぼくろは、普段、隠しているのがもったいないくらい、イジュンの顔立ちに、とてもよく馴染んでいた。

「そうだよ。何なら、ここで描こうか?」
 俺が鞄からスケッチブックを取り出すと、イジュンは早口すぎて聞き取れない韓国語で、またもやとてつもなく大きな悲鳴をあげた。

「うわぁあああああああああ、神だ!!!! 神が降臨した!!!!!!」
 さらに日本語で叫び、左手で俺の手を掴んでくる。
 逆だろ。俺は、ただのネットで活動してる絵描きだ。
 それに対し、お前は国外にまで多数のファンがいる、トップアイドル。
 
「あいこだな。どっちも正体バレしたら、人生終わる」
「——運命共同体?」
 俺の手を握ったまま、イジュンが、ちょっとおかしな発音で言った。その瞳に、いたずらっぽい光が宿っている。

「そんな言葉、よく知ってるな」
「海100リストで覚えた!」
 ぱぁっと笑顔になって、イジュンはそう叫んだ。

「お前、大丈夫か?」
「何が?」
「無理して明るく振る舞ってないか。さっきまで、あんな顔してただろ」
 イジュンはきょとんとした顔で目を瞬かせたあと、ゆっくりと首を横に振った。

「無理してないよ。嫌われなかったことも嬉しいけど、成瀬くんが海100リストの作者だったことが、今は本当に嬉しい!」
 その言葉を聞いて、俺もようやく、胸の奥に詰まっていた息を吐き出した。

「それにしても、さっきから声でかすぎる。近所迷惑だって追い出されるぞ」
「大丈夫。この部屋、防音完備だから。あ、変なことに使ってるわけじゃないよ! ダンスとか歌とか、練習しなくちゃ鈍るから」

「もしかして、それでこんなに、何もない部屋なのか?」
「それもある。単に、買いに行ったりしてる暇がなかったっていうのもあるけど」
「殺風景すぎて、気が滅入らないか?」
「心配してくれるなら、海100リストをプリントアウトする許可を与えてほしい。壁いっぱいに飾るから!」
「却下!」
「どうして!」
「恥ずかしすぎる!」
 あんなにも、怯えた目をしていたのに。
 すっかり元のイジュンに戻っている。

「いやだ! 飾りたい!」
 そう叫んだ直後、イジュンは、くしゅん、とくしゃみをした。
「ほら、風邪ひく。シャワー浴びてこい」
「成瀬くんが先」
「いいから、行け。俺は頑丈だ。滅多に風邪ひかない」
 軽く背中を押してやると、イジュンは少し困った顔で、俺を振り向いた。

「ごめん。傷流すの、手伝ってもらっていい? 右手が——」
 イジュンは、擦り傷が走り、ところどころに青あざの浮かんだ右手を俺に差し出す。
「動かせないのか?」
「動くけど、力を入れると痛い」
「利き手か?」
 痛ましい傷から目を逸らしたくなるのを耐えながら、俺は問いかける。
「うん」

「わかった。手伝う。行くぞ」
 俺はイジュンに肩を貸し、浴室に連れていった。