卒業までに、きみとシたい100のこと

 スマホで調べたところ、今日の日没は18時55分ごろ。
 イジュンと俺は、余裕を持って40分前に稚児ヶ淵に戻った。

 ついさっきまであんなに晴れていたのに。
 空はいくつもの大きな雲に覆われている。
 その狭間からかろうじて夕日が顔を出し、あたり一面を黄金色に染め始めた。

「음……ちゃんと見えるかなぁ……」
 心配そうな顔で、イジュンは分厚い雲を見上げる。
「下のほうは今のところ雲がないから、運がよければ、なんとかなるだろう」
 そう答えながらも、正直、ちょっと不安だ。特に頭上の雲は不穏な色をしている。

 稚児ヶ淵には多くの釣り人の姿がある。磯遊びをする子どもや、夕日を撮影しようと三脚を立て、カメラを構えている人もいる。
 潮が引いた岩場には、ところどころに小さな潮だまりができていた。
「見て、소라게다! ヤドカリがいる!」
 磯遊びをする子どもに混じって、イジュンが歓声を上げる。
 海100リストでも、誰がヤドカリをいちばんたくさん捕まえられるか勝負する回があるから、その真似なのかもしれない。

「いいなぁ、おっきい!」
 イジュンが捕まえたヤドカリを見て、近くにいた子どもが羨ましそうな顔をした。
「欲しい? あげるよ」
 五歳くらいだろうか。イジュンが手を伸ばし、ヤドカリを渡そうとすると、その男の子は、ぴょこんと飛び跳ね、イジュンのいる岩場に飛び移ろうとした。

「え、待って。危ないよ!」
 イジュンが手を伸ばしたけれど、一足遅かった。
 男の子はバランスを崩し、浅瀬に転げ落ちる。

「괜찮아?!」
 イジュンが韓国語で何かを叫び、男の子を抱き上げる。
 突然の聞き慣れない言葉に、驚いたのだろう。男の子はイジュンから離れようと、手足をばたつかせて暴れた。

 不安定な姿勢で男の子を支えていたイジュンの体が、ぐらりと揺らぐ。
「イジュン!」
 イジュンの腕の中で、男の子の体も大きく傾く。
 咄嗟に男の子を抱きしめ、イジュンは自分が下敷きになった。

「っ——!」
「イジュン、大丈夫か!?」
 男の子の親と思しき男性が駆け寄ってきて、イジュンから男の子を奪い取る。
「テメェ、ウチのに何してんだ!」
 どう考えても、イジュンは悪くないのに。立ち上がりかけたイジュンを、男性は思い切り蹴り飛ばした。

 突然の暴力に怯みそうになった。
 だけど、それ以上にイジュンを守りたい気持ちが勝った。
「やめてください! イジュンは、その子が海に落ちそうになったのを助けたんですよ!」
「イジュン? 韓国人かよ。キメェんだよ。ナヨナヨしやがって!」
 男はそう叫んだあと、さらに耳を塞ぎたくなるような侮蔑の言葉を大声で撒き散らした。
 突然の暴力と差別的な言葉に、周囲の人たちは凍りついた。誰もすぐには助けに入れなかった。

 男は鼻を鳴らすと、子どもの腕を掴み、その場から立ち去った。
 イジュンは、何の反論もしなかった。ただ、俯いていた。
 あの男の胸ぐらを掴んで怒鳴りつけてやりたかったけれど、それどころじゃない。

「警察に——」
「待って。大ごとには、したくない」
イジュンは俯いたまま、弱々しく首を横に振った。
「大丈夫か?」
 イジュンに駆け寄り、抱き起こす。
「っ——」
 イジュンの端正な顔が、痛みに歪んだ。
「もしかして、怪我したのか?」
 制服のズボンの裾を捲ると、足首のあたりから血が出ていた。
 それだけじゃない。足首の周りが、わずかに腫れ始めている。

「へいき……」
 足首だけじゃない。手首にも血が滲んでいる。
「行こう。腫れてきてる。早く医者に診てもらったほうがいい」
「でも、夕日が——」
 イジュンがそう言いかけたそのとき、ぽつりと大粒の雨が、降ってきた。

「泣きっ面に、蜂?」
 イジュンが空を見上げ、自嘲気味に笑う。
「まだ泣いてないだろ」
「泣けてきそうだよ。こんなカッコ悪い姿、成瀬くんに見られたくなかった」
「ちっともカッコ悪くなんかない。お前は、あえて反撃しなかったんだろ」
 相手が誰であれ、大柄な俺やイジュンが本気で反撃したら、ただでは済まない。

「あの子、怯えてた。蹴られたことより、そっちのが辛いよ」
「聞き慣れない言葉で話しかけられて、びっくりしただけだ。お前を嫌ったわけじゃない」
 イジュンは俯いたままだった。
 どんなに言葉を尽くしても、あの男が吐き捨てた言葉まで、なかったことにはできない。
 俺があいつの代わりに謝るのも、おかしな話だ。
 それでも、口から出てきたのは、謝罪の言葉だった。
「なんか、ごめん。お前は——何も悪くないのに」
「成瀬くんが謝ることじゃない」

 雨が、強くなってくる。
 ざぁっと痛いくらいに鋭い雨粒が、俺とイジュンに叩きつける。
 釣り客や夕日待ちをしていた人たちも、慌てて石段を上がってゆく。

「歩けるか?」
「아마」
「무슨 뜻이야?」
 韓国語で、どういう意味? と聞いてみた。

 イジュンは少しだけ笑った。
「たぶん、って意味。こんなときまで、成瀬くんの韓国語は進化するんだね」
「俺の韓国語なんて、まだ全然だ。ほら、掴まれ」
 念のため、イジュンの脇に手を入れて、体を支える。
「平気だよ」
 イジュンはそう言いながらも、一歩歩いた途端、「っ……!」と顔を歪めた。

「おぶってやりたいが、この雨と石段じゃ、二人揃って転びかねない」
「成瀬くんじゃなくても無理だよ! むしろ、こんなふうに僕に肩を貸せる人は、成瀬くんくらいしかいない」
 転入早々、イジュンと長浜が肩を組んでいたときのことを思い出した。
 確かに俺とイジュンなら、あんなふうに凸凹にはならず、ちゃんと支えられる。

 大嫌いだった大きな体が、イジュンの役に立つ。
 そのことが、俺にはたまらなく嬉しかった。

「石段、登れるか? 俺に寄りかかっていいからな」
 イジュンを支えながら、一歩、一歩、石段を登る。
 石段だらけの江ノ島は、怪我人にはかなり酷だ。

「迷惑かけて、ごめん」
「迷惑なんて、全然思ってない」
 雨脚がさらに強まり、長い前髪が視界にまとわりつく。
 鬱陶しさに耐えきれず、イジュンを支えていないほうの手で、無造作に掻き上げた。

「成瀬……くん……?」
 イジュンが、不思議そうな声で、俺を呼ぶ。
「なんだ? 痛むのか?」
 イジュンに顔を向けると、イジュンは大きく目を見開いた。
 何かを言おうと唇を開いたものの、声は出ない。
 しばらく絶句したように俺を見つめたあと、なぜか、かぁっと耳まで真っ赤になって、目を逸らした。

「もしかして——」
 傷が怖いのかもしれない。
 ハッとして、慌てて前髪を元に戻そうとする。

「違う。傷を、怖がったんじゃない。——そういうのじゃ、ない」
「じゃあ……」
「理由は、言えない。——でも、怖がってない。信じて欲しい」
 真摯な声で告げられ、俺は前髪を、もう一度、掻き上げた。
 今は、傷なんか気にしてる場合じゃない。
 視界が悪いせいで躓きでもしたら、イジュンを支えられなくなってしまう。

「少しでも辛くなったら、言え。遠慮したら、怒る」
「고마워」
 もう、どんな状況でも間違えようのない、友だちの、ありがとう。
 俺は、大好きなその言葉に無言で頷いて、イジュンの重みを感じながら、慎重に石段を登り続けた。