イジュンが転入してきて、一ヶ月が経った。
相変わらず学校じゅうの注目の的だけれど、盗撮や追っかけ行為を先生たちが徹底的に禁止してくれたおかげで、イジュンは、それなりに落ち着いた学園生活を送れるようになっている。
「なあ、イジュン。まじでバスケ部入んねぇの?」
イジュンが体育の授業で見事なダンクシュートを決めて以来、長浜はしつこくイジュンをバスケ部に誘い続けている。
「バスケより、ダンス! ダンスやろうよ! イジュンくんが踊るとこ、見てみたい!」
長浜の彼女で、ダンス部に所属する昨年のミスコン優勝者、笹野萌亜奈(ささの・もあな)さんが、会話に割って入ってきた。
体育では今週からダンスの授業が始まったけれど、イジュンは体調不良を訴え、見学していた。
「ごめんね。僕は、絵が描きたいから」
イジュンは申し訳なさそうに告げると、俺に向き直った。
絵が描きたい、という言葉に嘘はなかった。
ただし、好きだからといって、得意とは限らない。
謙遜ではなく、本当に絵を描くのが苦手なようで、イジュンの絵は、転入初日に黒板に書いたひらがなと同じくらい、不格好で幼かった。
けれども、配色やレイアウトのセンスは抜群にいい。デジタルにも強く、いつの間にか、部員たちが作る同人誌の装丁まで任されるようになっていた。
「成瀬くん、明日、どんな画材を持っていけばいいか、教えてもらっていい?」
「もう! イジュンくん、『成瀬くん、成瀬くん』って、成瀬くんのことばっか!」
「同じ部活だからね。文化祭の準備とか、色々あるんだ」
「明日の開校記念日も、二人でスケッチに行くんでしょ?」
「うん。文化祭に出す絵を描くから」
笹野さんはイジュンの机に片手をついたまま、納得いかなそうに唇を尖らせた。
彼氏のすぐ隣にいるのに、その目はイジュンばかり追いかけている。対するイジュンは、笹野さんを特別扱いする様子もない。
長浜は、そんな彼女を横目に笑っていた。
けれど、その表情は、どこかぎこちなく見えた。
翌朝、俺たちは片瀬江ノ島駅前に、朝6時に集合した。
俺もイジュンも、電車に乗らなくても、徒歩で江ノ島に来られる場所に住んでいる。
それなのになぜ駅前で待ち合わせたかと言えば、この駅舎も海100リストの聖地だからだ。
「何度見てもすごいね! 朝早いと、人も少ないから撮り放題!」
イジュンは嬉しそうにスマホを構え、朝日に照らされた駅舎を、何枚も写真に収めた。
「撮ってやろうか?」
「お願い! リスト12。構図、覚えてる?」
「ああ、覚えてる。エントランスのど真ん中に立って写してたよな?」
「成瀬くんも入る?」
「入らない」
いつもどおりのやりとり。
俺が写真嫌いなのを知っていながら、イジュンは毎回、「入る?」と尋ねてくる。
「하나, 둘, 셋!」
この一ヶ月でイジュンから教わった、韓国で写真を撮るときの掛け声を口にする。
「はい、チーズ」というのは、なんとなく照れくさくて口に出せないけれど、なぜか韓国語なら、あまり気にならない。
「고마워!」
友だち同士の「ありがとう」だ。この一ヶ月で何度も耳にし、すっかり覚えてしまった。
「行くぞ。混む前に、江ノ島を撮り尽くすんだ」
「응!」
相変わらず、学校の外に出ると、韓国語混じりになる。
それがリラックスしている合図なら、少し嬉しい。
早朝の弁天橋や仲見世通りには、観光客の姿はほとんどない。
開店前の通りを野良猫が我が物顔で横切り、イジュンはそのたびに足を止めた。
海100リストを再現するため、イジュンは半袖シャツの夏服を着ている。冬服まで持ってこようとしていたけれど、さすがに止めた。
誰もいない鳥居や参道で海100リストと同じ構図の写真を撮りながら、エスカー乗り場を通り過ぎ、長い石段を登ってゆく。
「紫陽花、きれい!」
「韓国にも、紫陽花ってあるのか?」
「あるよ! 呼び方は違うけどね」
淡い水色や薄紫の紫陽花は、イジュンの白い肌によく映える。
レンズ越しに見続けているせいだと思う。近頃、俺は、海100リストの自キャラ以上に、イジュンを描きたい欲求に駆られてしまっていて困る。
「今は急ぐからダメだけど。今度、紫陽花と一緒に、お前の絵を描いてやろうか」
「진짜!? 너무 좋아!」
何と言っているのかは、正確にはわからない。でも多分、嬉しいと言っている。
だって顔が、めちゃくちゃ嬉しそうだ。
「あ、ごめん。最近、すぐ韓国語、出る」
「気にするな。わからなかったら聞くし。翻訳アプリもある。今の、もう一度言ってみろ」
「ちょっと恥ずかしい」
「なんで?」
「なんでだろう。成瀬くんといると、つい、頭の中に浮かんだ言葉が、そのまま口に出てきちゃうんだ」
照れくさそうに視線を泳がせるイジュンの表情から、目が離せなくなった。
「そのまま出せよ。我慢すると、体によくない」
「でも、伝わらないよ? 韓国語だと」
「わかるよ、なんとなく。顔で」
「どんな顔!?」
嬉しそうに尻尾を振ってる、かわいいわんこの顔——とは、さすがに言えない。
「嬉しそうな顔」
「当たってる。今、すっごく嬉しいし、楽しい。너무 재밌어!」
「너무は、すごく、か? 強調表現だな、多分」
「当たり! すごい。成瀬くんが、どんどん韓国語を覚えてく」
だって、それがお前の、自然体でいられる言葉なんだろ。
だったら、俺がもっと覚えればいい。
全部は無理でも、お前が嬉しいのか、楽しいのか、つらいのか。それくらいは、自然と溢れた言葉のまま、受け取れるようになりたい。
「아, 바다다!」
イジュンは瞳を輝かせ、身を乗り出すようにして、木々の狭間に現れた海を見下ろす。
ここはイラストにはなってない。でも、実は俺が、江ノ島から海を眺められる場所の中で、いちばん好きな場所だ。
観光案内にも載っていない。誰にも教えたくない、俺だけの特別な場所。
「ここ、すごくいいね! 海100リストには、出てこなかったよね?」
「ああ」
「どうしてだろう。こんなにきれいなのに」
「さあな。作者にとっては、誰にも教えたくない、特別な場所なのかもしれない」
作者本人のくせに、他人事みたいに答えてみる。
「成瀬くんにも、『特別な場所』がある?」
「あるよ」
「見てみたいな」
「そのうちな」
海100リストには、まだ空いている番号がある。
これからイジュンと一緒に見る景色が、そのどれかに入ることもあるかもしれない。
俺には、イジュンしか友だちがいないから。
どうしたって、こいつと行った場所は、自分にとって、特別な場所になってしまう。
ひと気のない江島神社三社を参拝し、さらに島の奥へと進んだ。
江ノ島の最奥。稚児ヶ淵。
朝日を浴びてきらめく海を前に、イジュンは今朝いちばんの笑顔を見せた。
「예쁘다! 천국 같아!」
「何?」
「天国みたいに、きれい! 風も、気持ちいいね」
「ああ。晴れてよかったな。今夜は雨らしいけど。降り始めるのは20時からって予報だ。夕日は見られるかもな」
「夕日の時間まで、一緒にいてくれるの!?」
「お前が、いたいなら」
「いたい!」
イジュンは俺の言葉に被せるように、前のめりに叫んだ。
「いったん降りて朝飯を食おう。そのあと、残ってる聖地を回って、水族館とスケッチ。夕方になったら、もう一度ここに戻ってくればいい」
「すごい! 盛りだくさんだね!」
休日は混雑するため、人混みに悩まされず朝から晩まで回れるのは、おそらく今日くらいだ。
「稚児ヶ淵で、服を脱いでパンツ一枚になって泳いでたよね?」
ズボンのベルトに手をかけようとするイジュンを、慌てて止める。
「ばか、あれは漫画だ! 真似したら通報される!」
「だめ?」
「だめ! それに、ここは泳ぐ場所じゃない。危ない」
「そっか……」
ぺしゃ、とイジュンの見えない犬耳と尻尾が垂れ下がる。
「ほら、行くぞ」
「うん!」
イジュンが、ようやくベルトから手を離す。
俺はイジュンのシャツの袖を掴み、帰りの石段へ引っ張っていった。
相変わらず学校じゅうの注目の的だけれど、盗撮や追っかけ行為を先生たちが徹底的に禁止してくれたおかげで、イジュンは、それなりに落ち着いた学園生活を送れるようになっている。
「なあ、イジュン。まじでバスケ部入んねぇの?」
イジュンが体育の授業で見事なダンクシュートを決めて以来、長浜はしつこくイジュンをバスケ部に誘い続けている。
「バスケより、ダンス! ダンスやろうよ! イジュンくんが踊るとこ、見てみたい!」
長浜の彼女で、ダンス部に所属する昨年のミスコン優勝者、笹野萌亜奈(ささの・もあな)さんが、会話に割って入ってきた。
体育では今週からダンスの授業が始まったけれど、イジュンは体調不良を訴え、見学していた。
「ごめんね。僕は、絵が描きたいから」
イジュンは申し訳なさそうに告げると、俺に向き直った。
絵が描きたい、という言葉に嘘はなかった。
ただし、好きだからといって、得意とは限らない。
謙遜ではなく、本当に絵を描くのが苦手なようで、イジュンの絵は、転入初日に黒板に書いたひらがなと同じくらい、不格好で幼かった。
けれども、配色やレイアウトのセンスは抜群にいい。デジタルにも強く、いつの間にか、部員たちが作る同人誌の装丁まで任されるようになっていた。
「成瀬くん、明日、どんな画材を持っていけばいいか、教えてもらっていい?」
「もう! イジュンくん、『成瀬くん、成瀬くん』って、成瀬くんのことばっか!」
「同じ部活だからね。文化祭の準備とか、色々あるんだ」
「明日の開校記念日も、二人でスケッチに行くんでしょ?」
「うん。文化祭に出す絵を描くから」
笹野さんはイジュンの机に片手をついたまま、納得いかなそうに唇を尖らせた。
彼氏のすぐ隣にいるのに、その目はイジュンばかり追いかけている。対するイジュンは、笹野さんを特別扱いする様子もない。
長浜は、そんな彼女を横目に笑っていた。
けれど、その表情は、どこかぎこちなく見えた。
翌朝、俺たちは片瀬江ノ島駅前に、朝6時に集合した。
俺もイジュンも、電車に乗らなくても、徒歩で江ノ島に来られる場所に住んでいる。
それなのになぜ駅前で待ち合わせたかと言えば、この駅舎も海100リストの聖地だからだ。
「何度見てもすごいね! 朝早いと、人も少ないから撮り放題!」
イジュンは嬉しそうにスマホを構え、朝日に照らされた駅舎を、何枚も写真に収めた。
「撮ってやろうか?」
「お願い! リスト12。構図、覚えてる?」
「ああ、覚えてる。エントランスのど真ん中に立って写してたよな?」
「成瀬くんも入る?」
「入らない」
いつもどおりのやりとり。
俺が写真嫌いなのを知っていながら、イジュンは毎回、「入る?」と尋ねてくる。
「하나, 둘, 셋!」
この一ヶ月でイジュンから教わった、韓国で写真を撮るときの掛け声を口にする。
「はい、チーズ」というのは、なんとなく照れくさくて口に出せないけれど、なぜか韓国語なら、あまり気にならない。
「고마워!」
友だち同士の「ありがとう」だ。この一ヶ月で何度も耳にし、すっかり覚えてしまった。
「行くぞ。混む前に、江ノ島を撮り尽くすんだ」
「응!」
相変わらず、学校の外に出ると、韓国語混じりになる。
それがリラックスしている合図なら、少し嬉しい。
早朝の弁天橋や仲見世通りには、観光客の姿はほとんどない。
開店前の通りを野良猫が我が物顔で横切り、イジュンはそのたびに足を止めた。
海100リストを再現するため、イジュンは半袖シャツの夏服を着ている。冬服まで持ってこようとしていたけれど、さすがに止めた。
誰もいない鳥居や参道で海100リストと同じ構図の写真を撮りながら、エスカー乗り場を通り過ぎ、長い石段を登ってゆく。
「紫陽花、きれい!」
「韓国にも、紫陽花ってあるのか?」
「あるよ! 呼び方は違うけどね」
淡い水色や薄紫の紫陽花は、イジュンの白い肌によく映える。
レンズ越しに見続けているせいだと思う。近頃、俺は、海100リストの自キャラ以上に、イジュンを描きたい欲求に駆られてしまっていて困る。
「今は急ぐからダメだけど。今度、紫陽花と一緒に、お前の絵を描いてやろうか」
「진짜!? 너무 좋아!」
何と言っているのかは、正確にはわからない。でも多分、嬉しいと言っている。
だって顔が、めちゃくちゃ嬉しそうだ。
「あ、ごめん。最近、すぐ韓国語、出る」
「気にするな。わからなかったら聞くし。翻訳アプリもある。今の、もう一度言ってみろ」
「ちょっと恥ずかしい」
「なんで?」
「なんでだろう。成瀬くんといると、つい、頭の中に浮かんだ言葉が、そのまま口に出てきちゃうんだ」
照れくさそうに視線を泳がせるイジュンの表情から、目が離せなくなった。
「そのまま出せよ。我慢すると、体によくない」
「でも、伝わらないよ? 韓国語だと」
「わかるよ、なんとなく。顔で」
「どんな顔!?」
嬉しそうに尻尾を振ってる、かわいいわんこの顔——とは、さすがに言えない。
「嬉しそうな顔」
「当たってる。今、すっごく嬉しいし、楽しい。너무 재밌어!」
「너무は、すごく、か? 強調表現だな、多分」
「当たり! すごい。成瀬くんが、どんどん韓国語を覚えてく」
だって、それがお前の、自然体でいられる言葉なんだろ。
だったら、俺がもっと覚えればいい。
全部は無理でも、お前が嬉しいのか、楽しいのか、つらいのか。それくらいは、自然と溢れた言葉のまま、受け取れるようになりたい。
「아, 바다다!」
イジュンは瞳を輝かせ、身を乗り出すようにして、木々の狭間に現れた海を見下ろす。
ここはイラストにはなってない。でも、実は俺が、江ノ島から海を眺められる場所の中で、いちばん好きな場所だ。
観光案内にも載っていない。誰にも教えたくない、俺だけの特別な場所。
「ここ、すごくいいね! 海100リストには、出てこなかったよね?」
「ああ」
「どうしてだろう。こんなにきれいなのに」
「さあな。作者にとっては、誰にも教えたくない、特別な場所なのかもしれない」
作者本人のくせに、他人事みたいに答えてみる。
「成瀬くんにも、『特別な場所』がある?」
「あるよ」
「見てみたいな」
「そのうちな」
海100リストには、まだ空いている番号がある。
これからイジュンと一緒に見る景色が、そのどれかに入ることもあるかもしれない。
俺には、イジュンしか友だちがいないから。
どうしたって、こいつと行った場所は、自分にとって、特別な場所になってしまう。
ひと気のない江島神社三社を参拝し、さらに島の奥へと進んだ。
江ノ島の最奥。稚児ヶ淵。
朝日を浴びてきらめく海を前に、イジュンは今朝いちばんの笑顔を見せた。
「예쁘다! 천국 같아!」
「何?」
「天国みたいに、きれい! 風も、気持ちいいね」
「ああ。晴れてよかったな。今夜は雨らしいけど。降り始めるのは20時からって予報だ。夕日は見られるかもな」
「夕日の時間まで、一緒にいてくれるの!?」
「お前が、いたいなら」
「いたい!」
イジュンは俺の言葉に被せるように、前のめりに叫んだ。
「いったん降りて朝飯を食おう。そのあと、残ってる聖地を回って、水族館とスケッチ。夕方になったら、もう一度ここに戻ってくればいい」
「すごい! 盛りだくさんだね!」
休日は混雑するため、人混みに悩まされず朝から晩まで回れるのは、おそらく今日くらいだ。
「稚児ヶ淵で、服を脱いでパンツ一枚になって泳いでたよね?」
ズボンのベルトに手をかけようとするイジュンを、慌てて止める。
「ばか、あれは漫画だ! 真似したら通報される!」
「だめ?」
「だめ! それに、ここは泳ぐ場所じゃない。危ない」
「そっか……」
ぺしゃ、とイジュンの見えない犬耳と尻尾が垂れ下がる。
「ほら、行くぞ」
「うん!」
イジュンが、ようやくベルトから手を離す。
俺はイジュンのシャツの袖を掴み、帰りの石段へ引っ張っていった。

