卒業までに、きみとシたい100のこと

 朱の鳥居に、瑞心門。石段の上から眺める参道や藤沢の街並み。
 イジュンは辺津宮の茅の輪をくぐり、エスカー乗り場わきにたむろする野良猫と戯れ、作品内に出てくる景色を見つけるたびに再現写真を撮りたがった。

 そのたびに足を止めていたため、サムエル・コッキング苑に辿り着いたのは、苑前での集合時刻ぎりぎり、十六時五十五分だった。

「遅かったわね」
 涼やかな顔で、高嶺部長が出迎える。

「으으……シーキャンドル、登れなかった……」

 イジュンが、入場ゲートの向こうから頭だけちょこんと覗かせるシーキャンドルを、恨めしそうに見上げている。

 その様子を見ていると、このまま帰らせるのが惜しくなった。

「登るのは、今からだと難しいけど。亀ヶ岡広場のウッドデッキからなら、もう少しよく見えるはずだ」

 苑の向かいにある亀ヶ岡広場を、俺は指差した。

「だけど、あと五分しか時間が……」
 
 しょんぼりしたまま、うなだれるイジュンに、高嶺部長は小さくため息を吐いて告げる。

「ここから石川先生の待つ集合場所まで、あなたたちの足なら、三十分もあれば帰れるはずよ。時間厳守を約束できるなら、別行動を許可します」

 ちらっと、イジュンが俺のほうを見る。

「行くぞ、イジュン」

「ありがと! 高嶺部長。ありがと! 成瀬くん……!」

 ゲートから出てきた後輩たちに見送られ、俺はイジュンを連れてウッドデッキに向かった。

**

「와, 대박!」

 ウッドデッキに登ると、ゲートに隠れてあまり見えなかった展望灯台シーキャンドルの姿が、一気に視界に飛び込んできた。

 学校ではすべて日本語で話していたのに、江ノ島に来てからのイジュンは、ずっと韓国語混じりだ。
 意味はわからないが、表情と声音から、感動していることは伝わってくる。

「すごいね! 成瀬くん。ここからだと、こんなに大きく見えるんだ!」

「ああ。苑内から見るシーキャンドルも最高だけど、個人的には、ここから眺めるのが、いちばんきれいだと思ってる」

「あ! この眺め、もしかして、お花見のときの!」

「よく覚えてるな。そうだよ、ここはリスト——」

「30!」

 イジュンが、自信たっぷりにリスト番号を口にする。

「正解。よく覚えてるな」

「成瀬くんこそ。すごい。1日で、そんなに読んだの!?」

 大きく目を見開いたイジュンに問われ、俺は、焦って変な声が出てしまいそうになった。
 慌てて飲み込み、言葉を選びながら答える。

「——おもしろかったから」

 自分で、自分の漫画をおもしろいなんて言うの、なんか気恥ずかしいし、嘘をつくのは、胸が痛む。

 だけど、俺の言葉に、イジュンがあまりにも嬉しそうに笑ってくれたから。

 俺は、嘘をついた痛みと引き換えに、なにか大切なものを手に入れたような、そんな気持ちになった。

「自分の好きなものを、友だちに好きっていってもらえるの、すごく、幸せだね」

 ひとつひとつの言葉を噛み締めるように、イジュンはそう言うと、少し照れくさそうな顔で、笑った。

 それは、こっちのセリフだ。
 自分の『好き』が詰まった物語を、友だちに『好き』と言ってもらえる。
 こんなにも幸せな経験を、俺は、今まで一度もしたことがない。

「日が暮れるまでいられたら、ライトアップするところも見られたんだけどな」

 もう少し見ていたかったけれど。
 俺は、ゆっくりと視線をイジュンからシーキャンドルに移した。

 空はまだ明るい青色だけれど、傾き始めた太陽が、景色を少しずつ黄金色に染めている。

 シーキャンドルの銀色の骨組みが西日を反射して、まばゆく輝く。

 青い海と、南国を思わせる鮮やかな緑。
 海から吹き上げてきた風に、生い茂る木々がざわざわと揺れる。

 そのたびに、シーキャンドルに降り注ぐ光まで、きらきらと揺れているように見えた。

「海100リストにこの場所が出てきたのは、確か、夜だったよね?」

「ああ。夜桜を見に来た回だからな」

「寒そうだったよね。それが、不思議だった。本当に二月に桜が咲くの?」

「咲くよ。河津桜っていう、早咲きの桜だ」

 信じられない、といった表情で、イジュンが周囲を見渡す。

「観に来たい」

「江ノ島スケッチは、毎月ある。三年は、秋で部活引退だけど。卒業まで、希望すれば参加できる」

「夜桜がいい」

「海100リストの再現?」

「風邪は引きたくないけどね」

 高校一年の二月。雪の舞う寒い夜だった。
 夜桜と雪。珍しいその取り合わせに感動した三人は、この場に長居し過ぎて風邪を引くのだ。

「やくそく」

 イジュンが、小指を差し出す。

「韓国にも、指切りがあるのか?」

「あるよ。でも、今日は海100リストの真似」

 子どもじゃないから。普通の高校生は、たぶん、指切りなんてしない。
 でも——あの三人にとって、あれはただの遊びじゃない。
 三人のうち一人だけが、その約束を守れないことを、俺だけは知っている。

 無闇にネタバレするのは、よくない。
 俺は無言のまま、イジュンの指に、自分の指を絡めた。

「そうしたら、そのとき、ライトアップされた江ノ島も見られるな」
 
「二月まで待てないよ! 江の島灯籠も来たいし、湘南キャンドルも、クリスマスのイルミネーションも観たい」

 俺は、「ああ」と短く答え、イジュンから指を離した。

 たまたま隣の席になって、同じ部活に入ったから。
 イジュンは、雛鳥が最初に見たものを親だと思い込むように、俺のことを『友だち』だと思っている。

 日本での生活に慣れ、もっと大勢の人間を知ったあとも、同じように思ってくれている保証なんてない。

 二月まで、俺たちは今と同じように、一緒にいられるのだろうか。
 そんなことを考えてしまったけれど、口には出さなかった。

「夕焼け、見たかったな。夕焼けに照らされたシーキャンドル、すごくきれいそうだ」

「ああ、きれいだよ。だけど夕日を見るなら——」

「ちごがぶち!」
 
 ちょっとぎこちない発音で、イジュンは俺が言おうとした地名を、先回りして叫んだ。

 稚児ヶ淵。江ノ島の最奥にある、海食台地。
 夕日の名所として知られるそこは、江ノ島でも屈指の人気スポットだ。

「稚児ヶ淵で夕日を見て、暗くなる前にここへ戻ってくるのがおすすめだ」

「やってみたい!」

「きれいに夕日が沈むところを見られる日は稀だけどな。晴れてても、水平線付近にだけ雲がかかってることも多い」

「ここ、よく来るの?」

「ああ。好きな場所の一つだ」

「日本に来て最初にできた友だちが、成瀬くんで、本当によかった。僕の好きなものと、成瀬くんの好きなものは、似てると思う」

「韓国の男って、みんな、そんなに直球で話すのか?」

「何が?」

「いや……。日本人は、多分、そういうの、口に出して言わない」

「どうして?」

「どうしてって……」
 
 照れくさいから、だろう。
 そもそも、『友だち』とか、あんまり言わないと思う。

「言わないと、伝わらないことがある。それで傷つけて、嫌われるのは嫌だ」

 まっすぐ向けられた言葉。
 胸が、ぎゅっと痛くなった。

 言葉が足りない俺は、きっと、今までたくさんの人を傷つけて、嫌われてきたのだと思う。
 
 背が高すぎるから。
 顔が怖いから。顔に傷があるから。

 外見を言い訳にして、きっと、いろんなことから逃げてきた。

「イジュンの素直さを、少し、分けてもらいたい」

 頭の中で考えたこと。
 うっかり、本当に口に出してしまった。

 じっとシーキャンドルを見上げていたイジュンは俺を振り返ると、なぜか、手のひらを広げて差し出してきた。

「はい」

「え……?」

「成瀬くんに、分けるよ。僕が与えられるものなら、なんでも」

 にっこりと微笑むイジュンは、広げた手のひらを、差し出したままだ。
 まるで、俺に、ハイタッチしてくれと言わんばかりに、こちらに向けられている。

「言葉にするの、あまり、得意じゃないよね。でも、大丈夫。僕は、せっかちじゃない。ちゃんと、待てるから。成瀬くんは、いつも、ちゃんと選んで、言葉を伝えてくれる。成瀬くんの言葉は、優しい。だから——僕は、いくらでも、待てるよ」

 涙が、溢れてきそうになった。
 嫌だ。
 イジュンは、俺が欲しいものを、全部、与えてくれる。
 こんなのは、嫌だ。
 
 だって——こんなのは、きっと、長く続かない。
 日本での生活に慣れれば、イジュンには、もっと話の合う友だちができるだろう。

 それに——三月になれば、俺たちは卒業するのだ。
 そうしたら、もう、会うこともなくなるのだろう。

「いらない……?」

 不安そうな顔で、イジュンが、俺の目をじっと見つめる。

 言葉は、すぐには出てこなかった。
 喉がきゅっと縮んで、声にならない。
 小さく深呼吸して、必死で、俺は、言葉を捻り出す。

「いる」

 イジュンの手に、自分の手を、そっと重ねる。
 パンっとハイタッチするのが、正解なんだと思う。

 だけど、俺には、そんなふうにできなかった。

 そんなことをしたら、イジュンが消えてしまうんじゃないかって思った。

 ずっと、描き続けてきたイマジナリーフレンド。
 イジュンも、それなんじゃないだろうか。

 俺が、作った世界だ。
 きっと、これは、俺が作り出した世界。

 本物の俺は病院のベッドで、たくさんの管に繋がれているに違いない。
 例の猫型ロボットの、都市伝説的最終回と同じだ。

 消えてしまうはずのイマジナリーフレンドは、なぜか、ぎゅっと俺の手を握りしめた。

「ありがとう。日本に来られて、この島に来られて、とても嬉しい」

 別に、イジュンが日本に来たのも、今、江ノ島にいるのも、俺が何かをしたからじゃない。

 それなのに、イジュンは、そんなふうに言った。

「日本語、多分、使い方、間違えてる」

「えっ、そうかな!? どこ、おかしい?」

 イジュンは困ったように、眉を下げる。
 俺の、手を握ったままで。

 俺は、さりげなくイジュンの手から逃れて、「俺は、何もしてない」と答えた。

「したよ。友だちになってくれた」

「むしろ、俺が礼を言うほうだろ」

 ぼっちの俺を、お前が、救ってくれた。
 俺こそ、礼を言うべきだ。

「成瀬くんも言いたいなら、言えばいい。お互いに言えばいいよ」

「そういう問題なのか?」

「うん」

 いまいち、ニュアンスが伝わっていないようにも思える。
 だけど、いい。今言うべきは——きっと。

「サンキュ」

「なんで英語?」

「なんでって……」

 照れくさいから。
 ありがとう、なんて。
 今、この状況で、口に出すのは恥ずかしすぎる。

「고마워」

「何? 全然わからない」

 韓国語を聞き取れない俺に、イジュンはスマホの画面を見せてきた。

「고마워」

 これは、あれだ。

「ともだちなら こっち→고마워」と、イジュンが書いていたやつ。

「고마워(ありがとう)」

 俺は、イジュンの発音を、真似てみた。

「じょうず!」

 イジュンは、白い歯を見せて、思いきり笑ってくれた。