卒業までに、きみとシたい100のこと

 GW明け、最初のホームルーム。
 教室の扉が開き、そいつが入ってきた瞬間――
 漫画に出てくる集中線が現実に飛び出してきたみたいに、みんなの視線が、一斉にそいつの顔に吸い寄せられた。

 女子が総立ちになり、窓ガラスが震えるほどの悲鳴と歓声が、教室中に響き渡る。

「おい、落ち着け! お前たちっ」

 担任の青柳先生が声を張り上げたけれど、誰も座ろうとしない。

 普段なら女子の騒ぎを冷やかす男子たちまで、ぽかんと口を開けたまま、そいつに釘付けになっている。

「なんだ!? 何があったんだ!?」
 近くの教室からも、大勢の生徒が駆けつけてくる。

 収拾のつかない状況のなか、騒動の元凶――季節外れの転入生は、戸惑ったように眉を下げた。

 照れたような、申し訳なさそうなその表情に、女子の悲鳴がさらに大きくなる。
 教室内はもはや、ライブ会場だ。

 青柳先生に加え、駆けつけてきた教師たちまで声を張り上げる。

「こら! 席に着け! 他のクラスのやつは戻れっ。さもなくば全員補講だぞッ」

 本当は数学教師なのに。体育教師にしか見えないマッチョな青柳先生が、ドンッと教卓を叩いた。

 その音に、ようやく教室が静まり返る。

 だけど、その静寂を一人の女子が甲高い声で打ち破った。

「待って! あの韓国アイドルにそっくりじゃない!?」

「ほんとだ!?」
「めちゃくちゃ似てる!!」

 女子が口々に叫び、その場にいる全員の視線が、再び転入生の顔に向けられる。

 その顔は――正直、整っているとか、そういう次元ではなかった。

 AIで生成されたと言われても信じてしまいそうなほど、精巧な造作。
 透き通るように白い肌と、艶のある黒髪。
 目も鼻も口も、一つひとつのパーツが完璧なバランスで配置され、内側から強烈な光を発しているかのような、直視するのをためらうほどの神々しさがある。

 人間の顔というより、とてつもなく高価な美術品を見せられているみたいだ。

 絵描きの性(さが)で、俺は人の顔を見るたび、無意識に輪郭やパーツを線に置き換えてしまう。
 だけど、その顔だけは、どこから描き始めればいいのかすらわからなかった。

 判断力を根こそぎ奪う、美の暴力。
 それが俺の、この男への第一印象だ。

 どうやら、クラスメイトたちも同じらしい。
 床にへたり込む者。わなわなと震える者。女子の間からは、むせび泣く声まで聞こえてくる。

「たまに『誰々に似てる』とか言われるんですけど――僕はただの一般人です。韓国には、よくある顔なのかもしれません」

 耳に心地いい、柔らかな声。
 驚くほど流暢な日本語だ。

「いや、よくある顔って! そんな顔面国宝みたいなヤツがわんさかいたら、国が滅びるだろ!」

 声を上げたのは、長浜慶太だった。

 昨年のミスターコン優勝者。人に見られることにも、大勢の前で声を上げることにも、ためらいがない。
 教室の真ん中にいるのが当たり前みたいな、俺とは正反対の男だ。

「でも、本当にそっくり!」
「髪型と髪の色が違うだけじゃない!?」

 別人だと否定されても、女子たちの興奮は収まらない。

「あ、でも泣きぼくろがないかも!」

 顔面国宝級で、さらに泣きぼくろつき。
 どのグループのアイドルか知らないが、設定を盛りすぎだろ! と俺は心の中でツッコミを入れた。

 クラスの最後列。その真ん中に作られた、俺だけの隔離席。

 女子だけでなく、男子もほぼ全員が騒ぎに加わるなか、俺はいつも通り、誰とも会話を交わすことなく、自席に座り続けている。

 身長187センチ。
 下手に動けば目立つし、誰かのそばに立てば、それだけで威圧しているように見える。
 だから俺はいつも、できる限り身体を小さく丸め、存在感を消している。

「僕の名前はキム・イジュン。ごく平凡な男子高校生です」

 日本語が恐ろしく上手い。負ける自信がある。
 怖がられないよう、できるだけ人と関わらずに過ごしてきた俺は、学校で三語以上続けて話す機会さえ、ほとんどないのだ。

「その顔で平凡とか、ありえないだろ!」
 再び、長浜のツッコミが入る。

「イジュン。黒板に自分の名前を書いてくれ。ハングルでも、アルファベットでもいいぞ」

「はい」
 イジュンはチョークを手に取り、黒板に流麗なハングルで『김이준』と書いた。
 その隣に、『Kim I-jun』と、お手本みたいに美しいアルファベットを書き添える。

 そしてさらに、『きむ いじゅん』と、不慣れなのがひと目でわかる、いびつなひらがなを添えた。

 端正な横顔と、妙に幼いひらがな。その落差に、男子からは楽しげな笑いが、女子からは「可愛い!」という歓声が上がる。

「韓国語では少し違う発音になるんですけど、日本語では『イジュン』で大丈夫です。下の名前で気軽に呼んでもらえたら嬉しいです。卒業まで、よろしくお願いいたします」

 振り返ったイジュンが、にっこりと微笑む。
 さっきまでの絶叫とは違う、熱を帯びたざわめきが教室中に広がっていく。

「やば。ほんとにK-POPアイドルみたいじゃん!」

 いつも教室の中心にいる長浜が、屈託なく笑っている。
 そのせいか、ほかの男子たちも警戒することなく、次々とイジュンに声をかけていた。

 みんな、にこやかな顔でイジュンを迎え入れている。

 そんななか、俺だけが、少し複雑な気持ちになった。

『デカくて怖い』

 物心がついた頃から、ずっと言われ続けてきたことだ。
 顔さえ良ければ、ずば抜けて背が高くても、こんなにも歓迎されるものなのか。

「てか、顔ちっさ。背、でか! 何センチあんの?」

 長浜はイジュンの前に立ち、無邪気な問いを投げかけた。

 この学校でいちばん見た目がいいはずの男なのに。イジュンの隣に立つと、可哀想なくらいにモブ感が漂っている。

 それでも何のためらいもなく並べるのだから、自分に自信のある男は、やはり違う。

「187センチです」

「え、187!? 成瀬と同じじゃん!」

 長浜が叫んだ瞬間、教室のざわめきが途切れた。

 さっきまで一人残らずイジュンへ向いていた顔が、一斉にこちらを振り返る。

 薄暗い客席の最後列に隠れていた俺だけが、突然、スポットライトで照らし出されたような気分だった。

 肩に力が入り、指先が冷たくなる。

「おー、その身長なら、イジュンも最後列だな。ちょうどいい。成瀬の隣がお前の席だ」

 青柳先生が、教室の片隅に寄せられていた机と椅子を運んできた。

 ドンッ。
 俺の机の隣に、新しい机が並ぶ。

 ほかの机からぽつんと離されていた俺の席に、初めて隣の席ができた。

 イジュンが、まっすぐこちらへ歩いてくる。

 一歩近づくたび、教室中の視線までついてきた。

 やめてくれ。いちばん後ろの席で、できる限り目立たないように背中を丸め、息を潜めて暮らしていたのに。

 お前みたいにキラキラした男が隣に来たら、俺の平穏が壊されてしまう。

 イジュンは俺の前で立ち止まると、白い手を差し出した。

 指がほっそりと長く、爪の形まで恐ろしく整っている。

「よろしく。同じ身長の人に会う機会、ほとんどないから、嬉しいよ!」

 さっきの不格好なひらがなとは対照的に、口から出てくる日本語は淀みない。

「いいなー! 私もイジュンくんと握手したい!」

 クラス中の視線が、イジュンと俺に集中するのがわかる。
 
「あ、ごめん。日本では、握手とか、しない?」

 間違えたかな、とでも言いたげに、イジュンが少し困ったように眉を下げる。

「いや……。日本でも、する、と思う」

 声が、少し掠れた。
 ぎこちなく、手を差し出す。

 イジュンの滑らかな手とは正反対で、ゴツゴツしていて、ペンダコの目立つ手。
 恥ずかしい。けど、今更、引っ込めるわけにもいかない。

「ありがと。187センチ同士、仲良くしてくれると嬉しいな」

 冷たい、手のひら。
 その異次元の滑らかさに、手のひらだけでなく、心の内側までするりと触れられたような気がした。

「あ……ああ」

 まっすぐ向けられた、眩しすぎる笑顔。
 頷くのが、精一杯だった。
 それ以上、どんな言葉も口にすることができない。

「いいなー、イジュン、俺とも握手して!」

 長浜が、羨ましそうな声を上げる。

「うん。いいよ」

 俺の手から、イジュンの手が離れてゆく。

 イジュンはさっき、きゅっと握ってくれたのに。
 俺は一ミリも指を動かすことができず、ただ、されるがままだった。

 いや、別に、惜しいなんて思ってない。
 むしろ、さっさと離れてほしいと思っていたわけだけれど――。

「日本に来て間もないから、いろいろ教えてくれると助かる」
 イジュンは、にこっと俺に笑顔を向けたあと、長浜が差し出した手をぎゅっと握った。

「慶太、ずるい!」
 女子から不満の声が上がる。

「私も! 私もイジュンくんと握手したい!」

「おい、お前ら、いい加減にしろ!」

 青柳先生の怒声も虚しく、イジュンの周りには、あっという間に握手待ちの列ができた。

 結局、一限の始業チャイムが鳴るまで、キム・イジュンによる大握手大会が行われることになってしまった。