お母さんの箸袋

 ホテルに戻って軽く仕事をした後、夜はまた箸袋の店に行く。ちょっと離れた所にある中華料理屋で、ネットのレビューによると“油でギトギトの店内”だそう。それだけで私はちょっと行く気力が萎えてしまう。だけど“ここのレバニラ食べたら他のは食べられない”ともあった。箸袋の日付は、私が十一歳の時のもの。一言メモには“デニムショートパンツ”だった。食事と結びつかなそうで、訳が分からない。

 中華料理の大将というお店は、そもそも営業しているのか一瞬疑うような風貌をしていた。
 看板の“大将”の字は半分剥げて、初見では見つけにくい。ショーケースには昔ながらの食品サンプルが油を含んだ埃で薄汚れたまま並んでいた。
 どうしよう。
 ここに入るの?
 昼間とのギャップがありすぎる。女子一人で入店するには勇気が必要すぎる。

 それでも行かなければ。
 母との壁を崩すために、いざ!

 ガラガラガラ。
 決して滑りのよくない引き戸を開けると、ギロ、っと店主に睨まれた……気がした。店内には古びたテレビと換気扇の音がやたら大きく響いている。
 だけど外見よろしく閑古鳥、というわけではなく、黙々と食事をする男性たちで埋まっていた。
 女子一人が場違いなことは間違いなさそうだけど、一歩踏み込んでみると店主がボソっと「らっしゃい」と言った。よかった。お客として認識はされていた。

 でもそのままカウンター席にすっと座れるほど肝の据わっていない私は、何かそこに座るための正当な理由を提示したくて、手に持っていた黄ばんだ箸袋を思わず店主に見せた。我ながらバカなことをしていると思う。チケットじゃないんだから。

「あの、この箸袋のお店、こちらですよね?」
「……お客さん、随分古いの持ってるね」
「じゃあそうなんですね」
「十年前まではそれ使ってたんだよ。コストカットで、今はほら」
 
 そう言って指さされた方を見ると、脂っぽい箸立てに割り箸がまばらに並んでいた。

「子供の頃に食べに来たのがちょっと懐かしくて、寄ってみました」
「そうかい。品物は昔から変わってないよ。まあ座んな」

 私は店主から座る許可を得て――いや、別に許可取りは必要ないんだけど、なんとなくこのお店に許されたような気分になって、ちょっとねっとりしている椅子に座った。

「レバニラ定食ありますか?」

 多分、というか十中八九母はこれを食べていると思う。お店の評判だからというだけじゃなくて、ガッツリが好きな母はきっと麻婆豆腐定食よりこっちを選んでいるはず。

「あるけど、うちのはにんにくがガッツリだよ。大丈夫かい?」

 え、それはちょっと困る。
 明日は仕事で人と会うから、万が一においが残るのは……
 それなら、私が食べたやつにしよう。
 十一歳の私が中華屋で食べたのはなんだったかな……そういえば当時も油はすごかった。服に着かないか気になって……あ、ショーパンだったからちょっと動くだけで太ももにベタってなる感じがしたのがすごく嫌だったんだ。だからメニューに集中することが出来なくて、パッと見て分かるチャーハンにしたんだった。
 んー、でもせっかくここまで来てチャーハン。勇気を出して入ったんだから、もうちょっとちゃんと中華をしたい。

「じゃあ、青椒肉絲定食でお願いできますか?」
「あいよ。青椒肉絲ひとつ」

 待っている間は、ちょっとだけ居心地が悪いな。
 店を見回しても、黄ばんではがれかかったセロハンテープで止められたポスターとか、日付が一昨日の新聞とかが転がっている。
 俯いて黙々と食べていた男性客の一人が、食べ終わるとお金をその場に置いて去って行った。
 店主がその背中に「まいど」と声をかけるけど、テレビにかき消されていく。
 そのテレビは、野球中継を垂れ流していて、テーブル席の客はみんなそれを見ながら箸を動かしていた。

「へいお待ち」
「いただきます」

 出来たての青椒肉絲は湯気と共に調味料の焦げたような香ばしいにおいが立ち上っていた。
 それだけで白ごはんが進んでしまいそう。もうこれは美味しいが確定している香りに、私はアウェー感の強い店内であるのをすっかり忘れて箸をつけた。

 ピーマンもタケノコも、シャキシャキの歯ごたえが美味しさの演出をしてくれている。絡んだ細切りの肉はどうやら豚バラ肉のようで、それが噛んだ瞬間じゅわっと脂を出してくる。牛肉で作るものだと思っていたけど、この豚バラの脂と濃いめの味付けがとても調和してて、それが一層ピーマンの旨味を引き出してくれてる。
 私、実は青椒肉絲が苦手。
 家ではピーマンが安売りの時に、市販の青椒肉絲の元で、ほとんど肉の無い青椒肉絲が出て来るのが常だった。「栄養があるから」とピーマンの栄養価を全面的に信じている母の、リピ率の高いメニューのひとつだ。
 ピーマンはしなしなになるまで炒められていて、肉は探さないとなくて、味付けは分量がオーバーしているために薄め。
 でもそれしかおかずがないから、嫌いなんて言えずに、お皿に山盛り食べていた。 

 今思えば、母は母なりに栄養バランスを気にしていたんだろうな。
 「うまいじゃん」と言って食べていた母は、私がそれに乗せられて食べることを期待していたのかもしれない。

 この店の青椒肉絲とはまるで違う、我が家の青椒肉絲。
 店内はギトギトで、油も脂もたっぷりなのに、なんでかギトギトな後味にならない大将の青椒肉絲。
 白米がどんどん進んでしまう。
 お母さん、本物の青椒肉絲の味、知ってるのかな。
 ごはんが止まらなくなるこの味。レバニラもきっと、白米泥棒に違いない。

 お茶碗の底が見えて来るにつれ、私の当時の記憶も見えてきた。

『女の子なんか誰もいないじゃん! 恥ずかしいよ』
『なんで飯食うのに恥ずかしいとかあるんだよ』
『お母さんには分かんないんだよ! たまにはお洒落なお店に行きたい』
『なんだよ飯にお洒落とか。服は立派にお洒落してるじゃないか』
『お母さんのお下がりのどこがお洒落なの!』

 ……お下がり。私は箸袋を慌てて取り出した。そこには“デニムショートパンツ”とある。私はあの日、お母さんの高校時代のお下がりの、デニムパンツを履いていたんだ。
 ちょっとぶかぶかで、サスペンダーで吊って。
 どうしてあのデニムパンツのことが、箸袋のメモに書いてあるんだろう。

 最後の一口を、私はぼんやりした思考のまま食べてしまった。
 もっと大事に食べればよかった。
 お母さんとの食事だって。

 十一歳のお店は、決してお洒落じゃないけど、味もボリュームも大満足。このご時世で価格が九百円を切っているから、当時はもっと安かったはずだ。
 お母さんにとっては花まるのお店だったかもしれない。
 
 ああそうか。
 この時“お洒落”に拘ったから、十二歳の時はお洒落なあのイタリアン・レストランに連れていってくれたんだろう。
 
 なんか、ごめんね。