6、二葉廉は気付く
次の日の朝も、いつもより近い距離で塁に起こされて、いつもよりも素早く起き上がって準備して朝食を食べて歯磨きをして家を出た。
その後も気まずくて、塁とは視線を合わせることが中々できず(でもなんだか塁は機嫌がよかった気がする)、爽太と合流して無駄にテンションを上げて話し掛けた。
それぞれが違う部活で、よかった。
サッカー部と野球部の部室に向かう二人の後ろ姿を見送り、俺はテニス部の部室へと入る。
部活仲間たちが、制服から練習着に着替え、コートに出ていた。
着替えた俺も後に続いて外に出る。
あ。
ふと、部室棟を歩く黒髪の姿を見つけて、思わず走り寄った。
「牧瀬くん!」
それは、野球部で、塁の後輩の子だ。昨日、保健室で塁の手当てをしていた子。
牧瀬くんは、俺に気付くと、あからさまに「げっ」という顔をした。
「な、なんですか」
「あのさ、俺、牧瀬くんに聞きたいことあって」
「は?」
「今日の昼休みとか、空いてない?」
「はい?」
牧瀬くんは、明らかに不審がっている。
仕方がない。
よく知りもしない先輩からの誘いなんて、俺でも断る。
「ごめん、」「いいですよ」
謝るタイミングで、まさかの頷きをもらえる。
「え」
「どこに行けばいいですか」
「!! じゃあ、中庭で」
「わかりました」
ぺこ、と頭を下げて、牧瀬くんは野球部が活動するグラウンドへと向かっていく。
塁が着ているユニフォームじゃなくて、学校指定のジャージ姿だから、マネージャーという立場に納得した。
それでも野球に関わるなんて、よっぽど好きなんだな。
感心しながら、俺も、コートへ向かった。
昼休み、購買でパンを買ってから、スマホのグループメッセージで『今日ちょっと違うとこで食べんね』と送っておく。『なんででござるか』『りょーかい』『了解』、すぐに若菜、爽太、ブンヤから返事がきた。塁からは何もない。
スマホを閉じて、牧瀬くんと約束した中庭に向かう。
人気のランチスポットで、男女問わず賑わっていた。
その中でベンチに座る牧瀬くんを見つけて、走って行く。
「牧瀬くん! ごめん」
「いえ」
「時間くれてありがとう」
「別に……なんですか、話って」
「食いながらでもいい?」
「どうぞ、俺も食べるんで」
牧瀬くんもご飯を持って来ていた。コンビニの袋に入っているおにぎりを取り出すのに頷いて、俺もメロンパンを取り出して齧りつく。
「牧瀬くんさ、好きな人いる?」
「っ、ごほ、」
「ご、ごめんっ」
咽させてしまった。
塁のこと好きでしょ、と聞くよりはオブラートを百五十枚ぐらい包んだつもりだったんだけど、ダメだったか。
牧瀬くんはペットボトルを飲んで呼吸をし、落ち着いた様子で俺を見てきた。
黒髪ストレートヘアで、前髪から覗く瞳は大きい。
「――いますけど」
「!!」
わあ。
ハッキリする様子に小さく息を呑む。
昨日、塁のことを見つめる視線を、思い出してしまった。
「どこが好きなの? その人のこと」
「根掘り葉掘り聞く前に、質問の意図を教えてもらってもいいですか」
プライバシーですよ、と尤もなことを言われ、もぐもぐとメロンパンを咀嚼して飲み込む。
「牧瀬くんの顔が、恋してる顔だったから」
「え」
「あ」
思ったことが、そのまま口に出ていた。
しまった、と思った時には遅かった。
隣に座る牧瀬くんの顔が、耳先まで真っ赤に染まっている。
「いや、あの」
「――気持ち悪くないんですか」
「え」
「男が、男を好きなんですよ」
ああ。
俺の反応で、塁を好きなことを認めさせてしまった。
俺の罪悪感は置いておいて、牧瀬くんが眉を寄せて呟いているのを聞いて、俺は瞬いた。
「なんで?」
「え?」
「好きなら性別は関係なくね?」
「っ、」
気持ち悪いっていう発想がなくて首を傾げると、牧瀬くんは息を呑む。
動揺を抑えるみたいに、ペットボトルのお茶をもう一口飲んで、息を吐いた。
「先輩は、――三島先輩と、付き合ってるんですか」
「ぅえ?」
そして今度は、俺が面食らう番だ。
意を決したように向けられた問いかけに、何度も瞬く。
それから、慌てて首を振った。
「付き合ってない! 付き合ってないよ」
「残酷」
「え?」
「いや、なんでも」
小さく呟かれた言葉は俺の耳には届かず、牧瀬くんが緩く手を振る。
そしておにぎりを一口含んで、もごもごと顎を動かした。
ごくりと飲み込んでから、諦めたように、ぽつぽつと牧瀬くんが話し始める。
「一生懸命なんですよ、先輩」
「うん」
「誰にでも優しいし」
「うん」
「野球好きだし」
「うん」
「不器用だけど、周りも見てるし」
「……うん」
「俺が暑さにやられたとき、一番に気付いてくれて支えてくれました」
「そうなんだ」
確かに、塁は、俺が困ったときに、すぐに気付いて手を差し伸べてくれる。
牧瀬くんが見ている塁は、野球部の塁だ。
俺の知らない顔。
「憧れの先輩です」
はっきりそう言い切る牧瀬くんの顔は、とても穏やかだ。
そうか。
塁のことを、こんな風に、心の底から慕ってる人がいる。
その事実を、初めて知った。
中学時代の塁も、すごくモテていて、毎日のように女の子から告白されていたけれど、それは表面上の塁を見てのことだったと思う。
牧瀬くんは、塁の中身を知っている。
う。
つう、と。
無意識のうちに、眦から涙が一筋流れてきた。
「えっ」
「え!!」
牧瀬くんが驚いた後、俺も驚く。
慌てて、目をごしごしと腕で拭いた。
牧瀬くんがそれを見て大きく息を吐き、ベンチに深く腰掛ける。
「はあ……こんなの、絶対勝てないでしょ」
「ご、ごめん、なんか知らないけど涙腺崩壊で」
「先輩たち、どれぐらいの付き合いなんですか」
溢れてくる涙を慌てて拭いていると、どこか諦めたような牧瀬くんが問いかけてくる。
俺は首を傾げて、頭の中で振り返る。
「えーと。生まれたときから……?」
そうだ。
爽太や若菜やブンヤは保育園で一緒になったけれど、塁だけは、隣の家で、親同士も仲よかったから、当たり前のように傍にいた。
それを言うと、牧瀬くんが「ふは」と笑い始める。
何が面白かったんだ。
肩を揺らして一頻り笑った牧瀬くんが、俺を見た。
「せーんぱい。俺が三島先輩もらっても、いいですか」
「えっ」
「本気出しちゃおっかな」
「えっ」
「どうですか」
「だ」
「だ?」
こんな、こんなことを俺が言う権利はない。ゼロだ。だってただの幼馴染なんだから。でも、
「だめです……」
「ぶはっ」
消え入りそうな声で言ったのを、あろうことかこの後輩、笑いやがった。
「それ、三島先輩に言ってあげてください。なるはやで。絶対ですよ」
「え」
「あーあ。これ、貸しですからね。二葉先輩」
あ、俺の名前知ってたの。
どこか晴れやかな顔になった牧瀬くんは俺より先に立ち上がって、「じゃあこれで」と去って行ってしまった。
な、なんだったんだ……。
ごし、と目許を拭うと、もう、涙の跡は残ってなかった。
◇◇◇
一方、いつもの空き教室に集まった他の四人は、いつものように昼食を食べていた。
「なあ、最近、レンおかしくね?」
スマホに届いたメッセージを見ながら、爽太が首を捻る。
「そうだね」
ブンヤが同意をする。
「いつもあんなもんだろ」
塁が言うが、「絶対ウソー」と爽太が指摘した。
じゅ、と音を立ててゼリー飲料を飲んでいる若菜が、はっと何かに気付く。
「も、もしかして廉氏、拙者たちとバラバラになるのを実感して寂しくて……?」
夜の公園で、タイムカプセルを掘り起こそうとして失敗したときのことを持ち出し、若菜が真剣な顔をして呟いた。
「それはワカだろー!」
「進路の話、か」
爽太が若菜の腕を肘でぐりぐりと押して「痛いでござる」と若菜が根を上げている横で、ブンヤが呟いた。
塁が眉を上げる。
「そういえばしてなかったね、僕たち」
「えっ」
若菜が声を上げた。
「そろそろ、そういう時期かな」
「嫌でござる~! バラバラは嫌でござる」
「んじゃ、今夜集合しとく?」
「嫌でござる!!」
「いいんじゃね」
「いやでござる~!」
「ワカうるっさ!」
駄々をこねる若菜を放って、爽太がグループラインにメッセージを送った。
『今夜、さわやか集合!』
◇◇◇
爽太からさわやかへの招集が掛かった。
俺はというと、午後の授業と部活は、上の空真っ最中だ。
怪我こそしなかったものの、ポカミスばっかりを連発して、部長から呆れられていた。
中学時代だったら、ふざけて、「校庭三十周だ!」って言われていてもおかしくない。
牧瀬くんと話してから、ずっと考えている。
――『それ、三島先輩に言ってあげてください。なるはやで。絶対ですよ』――
牧瀬くんが言い残した言葉の意味。
それ、ってなんだ。どれだ。
俺が泣いたことか。
自分でもあの涙の意味なんてわかってないのに。
牧瀬くんが塁を取ったらダメってことか。
そんなの、ただの幼馴染が言う権利なんかないのに。
ああ。もう。頭ん中がぐちゃぐちゃだ。
こんな日には、あいつらにも会いたくない。
そう思っているのに、無慈悲にも部活は終わりを告げ、みんなでさわやかに行く時間になってしまった……。
仕方ない。
腹を括って制服に着替え、校門へ向かう俺だった。
全員揃ってから、さわやかへと向かう。爽太と若菜が何か騒いでいて、ブンヤが落ち着いていて、塁がそんな様子を見ている。
いつもの四人で、俺だけがいつもと違った。
塁のことをどう見ていいかわからないし、他の三人にも秘密を抱えているようで、心苦しい。
うまく話すこともできないし、四人がひっそりと顔を見合わせていることにも気付けない。
さわやかは相変わらず賑わっていたが、爽太が連絡をしていたようで、座敷の席を空けてくれていた。
靴を脱いで畳に上がると、「どりゃ!」と爽太がタックルをしかけてきて、身体が揺れる。
「うおっ」
「とうっ」
「ええっ」
さらに、若菜が頭を軽くチョップしてきた。くっ、手刀を受け止められずに悔しい。
「なになに、なんなの」
「なんかしんないけど、元気出せよ」
「本当でござる、廉氏何か悪い物でも食べた?」
爽太が肩を叩いてきて、若菜が背中にひっつきながら囁いてくる。
どうやら、二人に心配を掛けてしまったようだ。
塁が若菜の背中を引っ張って俺から引き剥がして、ブンヤが座布団の上に座って笑った。
「とりあえず、唐揚げ食べよう」
「うん……」
じんわりと腹の底が暖かくなる。
会いたくなかったけど、来てよかったなと思った。
俺が座ると、両隣に爽太と若菜が座って、向かい側に塁が座る。
「先週のドラマ観た?」と爽太が口を開いたのをきっかけにくだらない話をして、そうこうしているうちに爽太のばあちゃんが唐揚げ定食を運んで来てくれる。爽太も手伝って、全員分の唐揚げが運ばれたところで、五人揃って「いただきます」だ。
「でさ、みんなは進路どーすんの」
粗方、定食の中身が減って来た頃だ。
同じようにほとんど皿の中身がなくなって、お冷やを飲んでいた爽太が、突然そう尋ねてきた。
「ぶほっ」
若菜が盛大に咽せて、察した塁とブンヤが自分のおかずに掛からないようにさっと皿を除けている。
「急じゃね? 進路?」
そういえば、俺たちは進路の話をしたことがない。
この間、夜の公園でタイムカプセルを掘り起こそうとして失敗したときに初めて意識して、若菜が泣いたぐらいだ。
その話をこのタイミングで?
意図がわからずに唐揚げを口に運ぼうとしたタイミングで止まっていると、油で濡れた口をナフキンで拭いたブンヤが口を開いた。
「僕は大学進学かな」
「どの程度の?」
「ある程度の」
爽太が聞くのにブンヤが答える。
名前を書けば入れるところじゃなくて、受験戦争に参加するってことなんだろう。
実際、ブンヤなら、どこにでも行けると思う。
定期テストでも、いつも順位が上位の男だ。
俺は唐揚げを頬張って、もぐもぐと噛み締める。
「とっ、遠いでござる~~」
若菜が味噌汁を飲んだ後に泣き言を言っている。
そう。ここは田舎だ。
名のある大学に進学するとなると、絶対に、実家からじゃ通えない。
「爽太氏は?」
「体育大かな~」
「さらっと!!」
「だってサッカー教えてえじゃん。ルイは?」
「野球部あるとこ」
「だよなー!」
爽太と塁が盛り上がっている。
塁の野球部も、活躍している。
甲子園こそ届いていないけれど、県内でも有力候補になった。
大学からの推薦は、いくらでも取ることができるだろう。
「ワカは?」
「うっ、うう……」
若菜が震えている。
うっ、そうだよな。寂しいよな。
「歴史学科で忍者を研究するでござる」
「一番具体的じゃん!!」
わかるぞ、と頷こうとしたのに、裏切られた!
寂しそうな若菜でさえ、しっかりと将来を見据えている。
そうか、みんな、前を向いているんだ。
『わかはにんじゃになりたい。そーたは?』
『オレはサッカー選手! レンは?』
『おれはもてもてきんぐ! るいは!?』
『野球……ぶんやは』
『ぼくは図書館』
『としょかん!?』
『図書館になれば、本がいっぱいよめるから』
『ブンヤ頭いー!』『てんさい!』『じゃあおれテレビになる!』
いつか幼い日、保育園の園庭で将来の夢を語り合っていたみんなの姿が、頭の中を通り過ぎていった。
そして、気付く。
「待って!? 俺だけ具体的じゃなくない!?」
なんだよ、モテモテキングって!!
記憶の中の俺のセリフに自分で突っ込みを入れたら、妙な間が流れる。
みんなの視線が俺に集まった。
「え、レン、今更?」
爽太の率直な言葉が、胸に刺さる。
「モテモテキングになるために西中の柱にもなってたでござる、ふふ」
「やめろ思い出すな若菜!」
ここで黒歴史を出すな!
隣で肩を震わせる若菜に肘鉄を食らわせて黙らせる。
「大学に行く選択肢はあるの?」
ブンヤが冷静に聞いてきた。
みんなの顔を見渡す。
みんなは大学に行くことを前提に考えている。
地元を出ていくんだ。
じゃあ、俺は。
なんとなく、ずっとこうしているもんだと思ってた。
空き教室で昼飯を食べて、何か話したいことがあったらさわやかに集まって。
でも、卒業したら、そんなこともできなくなる。
「さ」
「さ?」
俺が呟いた言葉を、爽太が拾う。
「さみしい~~~」
そして本音を言って項垂れると、若菜が「激しく同意でござる!」と横から抱きついてきて、爽太が「ぶはっ」と笑って俺の背中を撫でてきた。
ブンヤがいつもより優しく笑っていて、塁が小さく息を吐いている。
そういえば、さっきから、塁の口数が少ない。
ちらりと視線を持ち上げると、塁と目が合った。
しかし、一瞬で、逸らされてしまう。
え。
えー。
お冷やのグラスを呷り飲む塁の仕草を見て、ひやりと肝が冷えた。
「つか、みんな東京なら集まれるっしょ」
「せ、拙者、関西に行きたい大学があって」
「ワカが一番遠いじゃねーか!!」
爽太が明るく言うのに、若菜が控えめに言って、爽太が笑いながら大きく突っ込んでいる。
か、関西……そうだよな、忍者の本場といえば、あっちの方だもんな……。
「る、塁は?」
あっ、どもったカッコ悪。
俺が聞くと、塁は片眉を上げた。
「あ?」
「どことか決めてんの」
「さあ。推薦で声かかったとこだな。北海道から沖縄まで」
「ほっ、」「ほっかいどう!!」「おきなわ……」
俺が呟くのと、爽太と若菜の声が重なるのが同時だ。
「マジかよすげえ、スキーしに行くわ」
「拙者、ダイビングしたかったでござる」
「切り替え早いね」
ブンヤが突っ込むぐらい、北海道と沖縄に気分を上げている二人とは裏腹に、俺はなんだか、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受ける。
塁が、遠くに行く。
そんなこと、考えたこともなかった。
その後もああでもないこうでもないと主に爽太と若菜がはしゃいでいたけれど、俺は、残りの唐揚げ半分を、飲み込むことができなかった。
生まれて初めて、さわやかの唐揚げ定食を、お残ししてしまった。
そんな俺の様子に、みんなも気付いていただろうけど、何も言わないでいてくれた。
こういうところが、居心地が良いんだよなと再確認してしまう。
「じゃ、また明日」「さらばでござる」「おやすみー!」
さわやかを出るときに、爽太がぶんぶん手を振って見送ってくれて、ブンヤと若菜も軽く手を振って、自分の家の方向へと歩いて行った。
残されたのは、俺と塁だ。
俺たちも家の方へと歩き出すが、足取りが重たい。
昼に牧瀬くんに『なるはやで』と言われた内容はどこかに飛んで行き、今はもう、塁が遠くへ行ってしまうことで頭がいっぱいだ。
唐揚げも全部食えなかった……。
俺が呆然としていると、ぐい、と腕を引かれた。
顔を上げると、塁が呆れた顔をしている。
「な、なに」
「ちょっと寄ってくぞ」
「なんで」
「いいから」
塁が顎で指したのは、すぐそこに広がる、公園だ。
いつぞや、タイムカプセルを埋めた場所。
塁に引っ張られるがまま公園の中に入ると、ベンチに押し込まれて座らされる。
隣に座ると思った塁は、そのまま自販機まで歩いて行って、ペットボトルと缶を買って戻って来た。
「ん」
「あざす」
俺が好きなレモン風味の炭酸水だ。
礼を言って受け取って、塁は自分も缶コーヒーを開けて飲みながら隣に座った。
塁がコーヒーを飲めるようになったの、いつだっけ。
俺はまだ苦くて好きじゃない。爽太も若菜も好んで飲まない。ブンヤは紅茶派だ。
炭酸水を一口飲むと、口の中がしゅわしゅわした。
それと同時に、言いようのない感情が、胸の奥から込み上げてくる。
「うっ」
「あ?」
「俺さあ」
「ああ」
「塁と離れ離れになんの、やだなあ」
「――は?」
あっ、ダメだ。
言葉にすると、昼間も滲んできたものが、目からじわっと込み上げてくる。
誤魔化すように鼻を啜るけど、もう遅い。
塁ががしがし坊主頭をかいて、少し迷ってから、俺の頭をぐしゃっと撫でる。
ぐし、と目許を拭うと、近い距離に塁の顔がある。
塁が何か言いかけて、止めた。
その代わり、思い切り強く、抱き締められる。
「わっ、」
「~~、おまえなあ、」
「る、塁?」
「人の気も知らねえで泣いてんじゃねえよばーか」
塁の肩口に、思い切り顔を押し付けられた。
涙も鼻水も制服のワイシャツに染み付いちゃいそう。
でも今日の俺は、甘えたい。
この分厚い胸板に。
後ろから腕を回すと、塁の肩が僅かに跳ねた。
「くそ、性質が悪ィにもほどがある」
独りごちると同時に、塁が、俺の髪ごと頭を抱き締めた。
塁の心臓の音が聞こえてくるけれど、もしかしたらこれは、俺の音かもしれない。
ど、ど、ど、といつもより速く脈打っている。
「――昼休みにさ、牧瀬くんに会って」
「ああ?」
「塁のこともらってもいいですかって聞かれて」
「は?」
「俺さ、」
涙と一緒に、理性も流されているみたいだ。
こんなこと、言う権利がないのに。
「ダメって言っちゃった」
掠れた声で言うと、塁が小さく息を呑む。
抱き締められる力が一気に強くなったと思ったら、その直後、ゆっくりと身体を離される。
近い距離で情けない泣き顔を覗き込まれ、頬に伝った涙を親指で拭かれた。
「あのな」
そして、塁がゆっくりと口を開く。
「俺だって離れたくねえし、誰にもやりたくねえよ」
その声は聞いたことがないくらい真剣で、今度は俺が、息を呑む番だ。
「……いいのか」
塁の黒い瞳を見つめていたら、触れ合いそうなほど近くなって、塁が小さく囁く。
考える前に、俺は、目を瞑った。
その直後にふたりの間の距離がなくなって、唇に柔らかい感触がする。
初めてのキスが、コーヒーとレモンの混ざった匂いがして、笑ってしまった。
「ふは、」
「――雰囲気」
「う、ごめん」
俺の笑いに塁の低い声が聞こえて慌てて謝るけれど、当の塁は、大きな息を吐き出して俺に寄りかかってきた。
俺の肩口に埋まる形のよい坊主頭を受け止める。
「進路の話だけど」
「うん」
「野球強いとこ、東京の大学が圧倒的に多いんだよ」
「うん?」
「おまえもどうせ東京の大学だろ」
「んん?」
「――ここ出たら、一緒に住まねえか」
もしかしたら塁は、俺の進路まで、視野に入れていたのかもしれない。
珍しく歯切れが悪く切り出された塁からの提案に、俺ははっとする。
塁の身体を剥がして、その顔を見る。
「それってさ、」
めっちゃサイコーじゃん!!!
満面の笑みで叫んでもう一回塁を抱きしめると、「うるせえ」と言われた。
でも、これってとってもすごいことだ。
俺の今日の不安が、塁の一言で吹っ飛んだ。
「塁すごくね?」
「伊達に十七年間、見てきてねえからな」
心底感心して言うと、塁がまた手を伸ばしてわしゃわしゃと髪を撫でてきた。
塁がコーヒーを飲み干したのを合図に、二人でベンチから立ち上がる。
「じゃあさー、俺も頑張んなきゃってこと?」
「なにを」
「勉強」
「当然だろ」
「ま、目標が出たらやるしかないよね」
ゆっくり歩き出しながら話して、小さく頷く。
今まで俺の進路はまっさらだったけれど、今日、一個の大きな目標が出来た。
「塁と同棲!」
「ぶは、」
高らかに宣言したら、塁が吹いた。珍しい。
「おまえそれ、おばちゃんに言うなよ、まだ」
「まだ?」
「ちゃんと挨拶してからにしろ」
「毎日会ってんのに」
「だからこそだろ、――つーか」
「?」
あと数歩でお互いの家に着くっていうときに、塁が、俺の手を握ってきた。
いつもみたいに腕じゃなくて、手だ。
がっしりと繋がれる。
意図がわからなくて首を傾げていると、塁が耳元に唇を寄せてきた。
「今日から俺のもんってことでいいのか」
「!!」
囁かれて、はっとする。
うっ。
塁と離れたくないって泣いて、塁をあげたくなくて、塁と同棲する宣言しちゃって、ていうかキスまでしちゃって、これもう俺、逃げ場なくないですか。
じわじわと耳先まで赤くなるのを自覚しながら、塁から思い切り目を逸らして、そっと俺より大きい手を握り返し、小さく頷いた。
こういうとき、なんて言えばいいの!?
何も言えないでいると、塁が「ふ、」と小さく笑って、俺の手を離した。
そしていつもと同じ手つきで、俺の頭を撫でてくる。
「一生離す気ねえから、覚悟しろよ」
――そうだ。
三島塁って男は、いい彼氏になりそうなんだった……。
額をこつんと指で押しながら囁かれ、俺はもうキャパオーバー寸前だ。
「塁に殺されそう」
「ばーか、死ぬ時は一緒だ」
「た、楽しそうですね」
「ああ? 当たり前だろ」
上機嫌な塁は、口角を持ち上げる。
これ以上甘ったるい言葉を聞きたくなくて、俺は塁の背中を塁の家まで押した。
「よかったね、はい、おやすみばいばいまたあした!」
「ん、また明日な」
それにさえも嬉しそうなの、やめてもらっていいですか。
――塁が、甘い。
次の日の朝だ。
いつも通り、アラームが鳴るより早く俺の部屋に来て、布団と仲良くしている俺を起こしにかかる。
その後が、いつもと違う。
「んんー……、もうちょい、」
「あと何分」
「五分……」
「一分な」
「えっ」
今までだったら問答無用で布団を引っ剥がしていた塁が、俺のワガママを聞き入れた。
それに驚いて思わず飛び起きると、ベッドに座って俺を見下ろしていた制服姿の塁と目が合った。
その瞬間。
ふ、と微かに笑う。
心臓が、飛び出るかと思った。
起きたばかりなのに一気に熱くなる顔を隠すべく、もう一度がばっと布団を頭から被った。
「起きたんじゃねえのかよ」
「寝てます寝てるんですあと一分寝ます」
「そ」
笑い声混じりの相槌が聞こえ、布団越しに身体をぽん、と軽く叩かれる。
余裕な仕草が悔しいけれど、今の俺には何もできない。
全面降伏、だ。
朝ご飯を食べるときも、歯磨きをするときも、なんだか意識してしまってぎこちなくなった。
その空気のまま玄関を出て外を歩き始めたら、「廉」と塁に呼ばれて足を止める。
「何?」
「あいつらの前で態度に出すなよ」
「え」
「バレたくねえだろ」
爽太に会う前に言っておきたかったのかもしれない。
塁に言われて、考える。
爽太、若菜、ブンヤ。
それぞれの顔が頭に浮かぶ。
あいつらなら絶対、俺たちが付き合ったのを知ったって、何も変わらないだろう。
――でも。
『なに、おまえら付き合ったのかよ、ウケる』と爆笑する爽太。
『ななななんででござるかいつのまにそんなことになったんでござるか拙者も入れてほしいでござる』と大騒ぎする若菜。
『何がどうしてそうなったのか教えてもらっていいかな』とメモ帳とペンを取り出すブンヤ。
俺の頭の中の三人が一気に動き出したら、とんでもない羞恥が込み上がってくる。
そう。
バレるのが嫌というより、単純に、すごくはずかしい。
塁は俺の心情を見透かしたのか、「な?」と同意を求めてくるから、こくこくと何度も頷いた。
「いつも通りに行け」
「わ、わかった」
既にぎこちないけれど、塁が言う通りに頷く。
店先で待っている爽太が「はよー」と手を振ってくるのに軽く手を挙げて返し、「おはよ、昨日はサンキュ」と伝えた。
いつも通りに笑えている、はずだ、たぶん。
「つっかれたあ、」
朝練して、授業を受けて、空き教室で昼飯を食べて、授業を受けて、部活をして、みんなで一緒に帰って、と、当たり前の一日を過ごしたはずなのに、なんだか今日はどっと疲れた。
大きな息と共にそう吐き出して、塁のベッドの上にぼふんと沈み込む。俺のベッドより広くて、良い。
「おまえ、制服のまま寝んなよ」
「いーじゃん、着替えないもん」
「今度持って来い」
「うん。……うん?」
それぞれの家に帰る別れ際、「寄ってけば」と誘われて、そのまま上がった塁の家だ。
相変わらずおじさんもおばさんも忙しくて、塁しかいない。
窓から俺の部屋が見えるぐらいの距離なのに、着替えまで持ってくるのはおかしくないですか。
疑問を口にする間もなく、塁は一度部屋から出て、制服を脱ぎに行った。
俺はサングラスを掛けた猫のぬいぐるみを抱きしめて、塁の家の天井を見上げている。
小さい頃から、なんにも変わっていない部屋だ。
何度も来て、泊まったこともあった。
俺には年の離れた姉がいるけれど、塁は一人っ子だ。
おじさんもおばさんも学校に勤めていて、朝から晩まで忙しくしているから、うちで預かることも多かった。
夏休みはほとんど毎日、一緒にいた気がする。
赤ちゃんの頃、保育園の頃、小学生の頃。
小さい頃からの思い出が、次々と頭の中を駆け巡っている。
『小四から』
小四といえば、十歳だ。
まだまだ何もわかっていなかった頃。
塁は野球をがんばっていて、爽太はサッカーで活躍して、ブンヤは勉強が一番できて、若菜は忍者に憧れていた。
俺は、何をしてたっけ。
ダンゴムシを捕まえたり、カブトムシを捕まえたり、かわいい女の子をからかったりしていたような気がする。
「うーん」
その頃から想われていたなんて、全然ちっとも、これっぽっちも気付かなかった。
ふ、と、影ができる。
「何唸ってんだ」
黒いTシャツとハーフパンツに着替えた塁が、覗き込んでくる。
目が合って、何度か瞬いた。
「塁ってさあ」
「あ?」
「――いや、なんでもない」
今何を聞いても野暮な気がして、俺は目を逸らして誤魔化した。
塁はそれを見て何を思ったのか、そのままベッドに乗り上げてきた。
俺と塁の間には、猫のぬいぐるみしかない。
「廉、おまえ」
「はい」
「この状況、わかってるか」
「へ?」
塁が俺の横に手を置いて、触れ合いそうなほど間近で囁いてくる。
つい、間の抜けた声が出た。
塁が瞳を細め、ふっと笑う。
その顔は、反則です。
大きな手が俺の頬に触れてきた。
そのまま、距離が詰められる。
「ッ、」
俺は思わず、手にした猫のぬいぐるみを、塁の顔との間に置いた。
塁が猫の顔とキスしたことになる。
「てめえ、」
「う、奪っちゃったー?」
「殴られてえか」
猫の頭を動かしてアフレコしてみたけれど、塁の額には青筋が浮かんでいる。
低い声で言われて慌てて首を横に振った。
「ちが、ちがうけど」
「なんだよ」
「なんか」
「なに」
「る、塁くん」
「あ?」
「肉食系すぎない……?」
塁の顔を見ていられなくて、顔を横に向けて、ついでにぬいぐるみで顔を見られないようにガードしておく。
塁は俺を見下ろして、暫く動かなかった。
「――はぁはぁああ~~……」
そして、今まで聞いたことのない特大ため息を吐き出したと思ったら、そのまま俺に乗っかってくる。重い。猫のぬいぐるみも、二人の間で圧縮されている。
「な、なに」
「おまえさ」
「う、うん」
「七年だぞ、七年。生まれたときから傍にいて、自覚して七年。勘違いだと思ったことも、諦めようとしたことも、他のヤツと付き合おうとしたこともあるけど結局どれも無理だった。そんな相手に離れたくないって泣かれて、次の日はクッソ無防備にベッドの上に寝てやがる。何もしねえわけねえだろ、バカか」
る、塁が、そんなに一気に喋ってるの初めて聞いた……。
言葉の内容よりもその事実に驚いていると、塁が俺の肩口に顔を押し付けてきた。
これは、もしや。
塁なりに、甘えているのかもしれない。
猫のぬいぐるみをそっと枕元に置いて、俺は、塁の坊主頭をざりざりと撫でてみた。
「廉……」
塁の声が呆れている。なんでだ。
「そ、そういうのはさー、ほら、なんつーの、段階を踏んで? 的な? ほら俺たちまだ高校生だしさー」
「嫌なのか」
「うっ」
ざりざりしながら目を逸らして言うと、塁が聞いてくる。心なしか落ち込んでいる気がして罪悪感にちくちくする。
頭を撫でていた手を、そのまま、そっと塁の背中に回した。抱きついている形って、結構勇気がいる。
「い、いやだったら」
「だったら?」
「昨日の時点で逃げてますー」
そうだ、俺と塁はキスしてしまった。
いくらでも逃げ場を作ってくれていたのに、受け入れたのは俺だ。
後悔もない。
「でも」
ぎゅ、と塁の背中を強く抱きしめる。
「あのね」
「ああ?」
「あの」
「なんだよ早く言え」
「――俺史上最大級に、はずかしいの!」
お願いわかって!
それを言うのすら恥ずかしいんだ。
俺が精一杯の告白をすると、「ふは、」と、塁が吹き出した。
肩を揺らして笑っている。
塁の爆笑も珍しい。
一頻り笑うと落ち着いたらしい塁が、「はー」と息を吐き出して、顔を上げた。
腕を伸ばして身体を支え、俺の顔との距離を作る。
「――卒業したら、全部もらうから、覚えとけよ」
「うえ」
どこか晴れやかな顔をした塁が、口角を持ち上げてそう断言する。
間の抜けた声しか上げられない俺に目を細め、塁が、両手でわしゃわしゃと俺の髪を撫でて、ベッドから下りた。
乱れた髪の毛を手で撫でつけて、俺も起き上がる。
「ま、七年待ってるからな。あと一年半ぐらい、楽勝だろ」
「そ、そっすか」
「大学、探しとけよ」
「はい……」
高校を出て一緒に住むということを真剣に考えてくれているのが伝わってきて、なんとも言えずに顔を覆った。
ほんとう、はずかしい。
――こんな感じで、俺と塁の関係が、明確に変わったのだけれど。
幼馴染のあいつらとは、一切合切何も変わらず、楽しい高校生活を送るのでした。
めでたし、めでたし?
次の日の朝も、いつもより近い距離で塁に起こされて、いつもよりも素早く起き上がって準備して朝食を食べて歯磨きをして家を出た。
その後も気まずくて、塁とは視線を合わせることが中々できず(でもなんだか塁は機嫌がよかった気がする)、爽太と合流して無駄にテンションを上げて話し掛けた。
それぞれが違う部活で、よかった。
サッカー部と野球部の部室に向かう二人の後ろ姿を見送り、俺はテニス部の部室へと入る。
部活仲間たちが、制服から練習着に着替え、コートに出ていた。
着替えた俺も後に続いて外に出る。
あ。
ふと、部室棟を歩く黒髪の姿を見つけて、思わず走り寄った。
「牧瀬くん!」
それは、野球部で、塁の後輩の子だ。昨日、保健室で塁の手当てをしていた子。
牧瀬くんは、俺に気付くと、あからさまに「げっ」という顔をした。
「な、なんですか」
「あのさ、俺、牧瀬くんに聞きたいことあって」
「は?」
「今日の昼休みとか、空いてない?」
「はい?」
牧瀬くんは、明らかに不審がっている。
仕方がない。
よく知りもしない先輩からの誘いなんて、俺でも断る。
「ごめん、」「いいですよ」
謝るタイミングで、まさかの頷きをもらえる。
「え」
「どこに行けばいいですか」
「!! じゃあ、中庭で」
「わかりました」
ぺこ、と頭を下げて、牧瀬くんは野球部が活動するグラウンドへと向かっていく。
塁が着ているユニフォームじゃなくて、学校指定のジャージ姿だから、マネージャーという立場に納得した。
それでも野球に関わるなんて、よっぽど好きなんだな。
感心しながら、俺も、コートへ向かった。
昼休み、購買でパンを買ってから、スマホのグループメッセージで『今日ちょっと違うとこで食べんね』と送っておく。『なんででござるか』『りょーかい』『了解』、すぐに若菜、爽太、ブンヤから返事がきた。塁からは何もない。
スマホを閉じて、牧瀬くんと約束した中庭に向かう。
人気のランチスポットで、男女問わず賑わっていた。
その中でベンチに座る牧瀬くんを見つけて、走って行く。
「牧瀬くん! ごめん」
「いえ」
「時間くれてありがとう」
「別に……なんですか、話って」
「食いながらでもいい?」
「どうぞ、俺も食べるんで」
牧瀬くんもご飯を持って来ていた。コンビニの袋に入っているおにぎりを取り出すのに頷いて、俺もメロンパンを取り出して齧りつく。
「牧瀬くんさ、好きな人いる?」
「っ、ごほ、」
「ご、ごめんっ」
咽させてしまった。
塁のこと好きでしょ、と聞くよりはオブラートを百五十枚ぐらい包んだつもりだったんだけど、ダメだったか。
牧瀬くんはペットボトルを飲んで呼吸をし、落ち着いた様子で俺を見てきた。
黒髪ストレートヘアで、前髪から覗く瞳は大きい。
「――いますけど」
「!!」
わあ。
ハッキリする様子に小さく息を呑む。
昨日、塁のことを見つめる視線を、思い出してしまった。
「どこが好きなの? その人のこと」
「根掘り葉掘り聞く前に、質問の意図を教えてもらってもいいですか」
プライバシーですよ、と尤もなことを言われ、もぐもぐとメロンパンを咀嚼して飲み込む。
「牧瀬くんの顔が、恋してる顔だったから」
「え」
「あ」
思ったことが、そのまま口に出ていた。
しまった、と思った時には遅かった。
隣に座る牧瀬くんの顔が、耳先まで真っ赤に染まっている。
「いや、あの」
「――気持ち悪くないんですか」
「え」
「男が、男を好きなんですよ」
ああ。
俺の反応で、塁を好きなことを認めさせてしまった。
俺の罪悪感は置いておいて、牧瀬くんが眉を寄せて呟いているのを聞いて、俺は瞬いた。
「なんで?」
「え?」
「好きなら性別は関係なくね?」
「っ、」
気持ち悪いっていう発想がなくて首を傾げると、牧瀬くんは息を呑む。
動揺を抑えるみたいに、ペットボトルのお茶をもう一口飲んで、息を吐いた。
「先輩は、――三島先輩と、付き合ってるんですか」
「ぅえ?」
そして今度は、俺が面食らう番だ。
意を決したように向けられた問いかけに、何度も瞬く。
それから、慌てて首を振った。
「付き合ってない! 付き合ってないよ」
「残酷」
「え?」
「いや、なんでも」
小さく呟かれた言葉は俺の耳には届かず、牧瀬くんが緩く手を振る。
そしておにぎりを一口含んで、もごもごと顎を動かした。
ごくりと飲み込んでから、諦めたように、ぽつぽつと牧瀬くんが話し始める。
「一生懸命なんですよ、先輩」
「うん」
「誰にでも優しいし」
「うん」
「野球好きだし」
「うん」
「不器用だけど、周りも見てるし」
「……うん」
「俺が暑さにやられたとき、一番に気付いてくれて支えてくれました」
「そうなんだ」
確かに、塁は、俺が困ったときに、すぐに気付いて手を差し伸べてくれる。
牧瀬くんが見ている塁は、野球部の塁だ。
俺の知らない顔。
「憧れの先輩です」
はっきりそう言い切る牧瀬くんの顔は、とても穏やかだ。
そうか。
塁のことを、こんな風に、心の底から慕ってる人がいる。
その事実を、初めて知った。
中学時代の塁も、すごくモテていて、毎日のように女の子から告白されていたけれど、それは表面上の塁を見てのことだったと思う。
牧瀬くんは、塁の中身を知っている。
う。
つう、と。
無意識のうちに、眦から涙が一筋流れてきた。
「えっ」
「え!!」
牧瀬くんが驚いた後、俺も驚く。
慌てて、目をごしごしと腕で拭いた。
牧瀬くんがそれを見て大きく息を吐き、ベンチに深く腰掛ける。
「はあ……こんなの、絶対勝てないでしょ」
「ご、ごめん、なんか知らないけど涙腺崩壊で」
「先輩たち、どれぐらいの付き合いなんですか」
溢れてくる涙を慌てて拭いていると、どこか諦めたような牧瀬くんが問いかけてくる。
俺は首を傾げて、頭の中で振り返る。
「えーと。生まれたときから……?」
そうだ。
爽太や若菜やブンヤは保育園で一緒になったけれど、塁だけは、隣の家で、親同士も仲よかったから、当たり前のように傍にいた。
それを言うと、牧瀬くんが「ふは」と笑い始める。
何が面白かったんだ。
肩を揺らして一頻り笑った牧瀬くんが、俺を見た。
「せーんぱい。俺が三島先輩もらっても、いいですか」
「えっ」
「本気出しちゃおっかな」
「えっ」
「どうですか」
「だ」
「だ?」
こんな、こんなことを俺が言う権利はない。ゼロだ。だってただの幼馴染なんだから。でも、
「だめです……」
「ぶはっ」
消え入りそうな声で言ったのを、あろうことかこの後輩、笑いやがった。
「それ、三島先輩に言ってあげてください。なるはやで。絶対ですよ」
「え」
「あーあ。これ、貸しですからね。二葉先輩」
あ、俺の名前知ってたの。
どこか晴れやかな顔になった牧瀬くんは俺より先に立ち上がって、「じゃあこれで」と去って行ってしまった。
な、なんだったんだ……。
ごし、と目許を拭うと、もう、涙の跡は残ってなかった。
◇◇◇
一方、いつもの空き教室に集まった他の四人は、いつものように昼食を食べていた。
「なあ、最近、レンおかしくね?」
スマホに届いたメッセージを見ながら、爽太が首を捻る。
「そうだね」
ブンヤが同意をする。
「いつもあんなもんだろ」
塁が言うが、「絶対ウソー」と爽太が指摘した。
じゅ、と音を立ててゼリー飲料を飲んでいる若菜が、はっと何かに気付く。
「も、もしかして廉氏、拙者たちとバラバラになるのを実感して寂しくて……?」
夜の公園で、タイムカプセルを掘り起こそうとして失敗したときのことを持ち出し、若菜が真剣な顔をして呟いた。
「それはワカだろー!」
「進路の話、か」
爽太が若菜の腕を肘でぐりぐりと押して「痛いでござる」と若菜が根を上げている横で、ブンヤが呟いた。
塁が眉を上げる。
「そういえばしてなかったね、僕たち」
「えっ」
若菜が声を上げた。
「そろそろ、そういう時期かな」
「嫌でござる~! バラバラは嫌でござる」
「んじゃ、今夜集合しとく?」
「嫌でござる!!」
「いいんじゃね」
「いやでござる~!」
「ワカうるっさ!」
駄々をこねる若菜を放って、爽太がグループラインにメッセージを送った。
『今夜、さわやか集合!』
◇◇◇
爽太からさわやかへの招集が掛かった。
俺はというと、午後の授業と部活は、上の空真っ最中だ。
怪我こそしなかったものの、ポカミスばっかりを連発して、部長から呆れられていた。
中学時代だったら、ふざけて、「校庭三十周だ!」って言われていてもおかしくない。
牧瀬くんと話してから、ずっと考えている。
――『それ、三島先輩に言ってあげてください。なるはやで。絶対ですよ』――
牧瀬くんが言い残した言葉の意味。
それ、ってなんだ。どれだ。
俺が泣いたことか。
自分でもあの涙の意味なんてわかってないのに。
牧瀬くんが塁を取ったらダメってことか。
そんなの、ただの幼馴染が言う権利なんかないのに。
ああ。もう。頭ん中がぐちゃぐちゃだ。
こんな日には、あいつらにも会いたくない。
そう思っているのに、無慈悲にも部活は終わりを告げ、みんなでさわやかに行く時間になってしまった……。
仕方ない。
腹を括って制服に着替え、校門へ向かう俺だった。
全員揃ってから、さわやかへと向かう。爽太と若菜が何か騒いでいて、ブンヤが落ち着いていて、塁がそんな様子を見ている。
いつもの四人で、俺だけがいつもと違った。
塁のことをどう見ていいかわからないし、他の三人にも秘密を抱えているようで、心苦しい。
うまく話すこともできないし、四人がひっそりと顔を見合わせていることにも気付けない。
さわやかは相変わらず賑わっていたが、爽太が連絡をしていたようで、座敷の席を空けてくれていた。
靴を脱いで畳に上がると、「どりゃ!」と爽太がタックルをしかけてきて、身体が揺れる。
「うおっ」
「とうっ」
「ええっ」
さらに、若菜が頭を軽くチョップしてきた。くっ、手刀を受け止められずに悔しい。
「なになに、なんなの」
「なんかしんないけど、元気出せよ」
「本当でござる、廉氏何か悪い物でも食べた?」
爽太が肩を叩いてきて、若菜が背中にひっつきながら囁いてくる。
どうやら、二人に心配を掛けてしまったようだ。
塁が若菜の背中を引っ張って俺から引き剥がして、ブンヤが座布団の上に座って笑った。
「とりあえず、唐揚げ食べよう」
「うん……」
じんわりと腹の底が暖かくなる。
会いたくなかったけど、来てよかったなと思った。
俺が座ると、両隣に爽太と若菜が座って、向かい側に塁が座る。
「先週のドラマ観た?」と爽太が口を開いたのをきっかけにくだらない話をして、そうこうしているうちに爽太のばあちゃんが唐揚げ定食を運んで来てくれる。爽太も手伝って、全員分の唐揚げが運ばれたところで、五人揃って「いただきます」だ。
「でさ、みんなは進路どーすんの」
粗方、定食の中身が減って来た頃だ。
同じようにほとんど皿の中身がなくなって、お冷やを飲んでいた爽太が、突然そう尋ねてきた。
「ぶほっ」
若菜が盛大に咽せて、察した塁とブンヤが自分のおかずに掛からないようにさっと皿を除けている。
「急じゃね? 進路?」
そういえば、俺たちは進路の話をしたことがない。
この間、夜の公園でタイムカプセルを掘り起こそうとして失敗したときに初めて意識して、若菜が泣いたぐらいだ。
その話をこのタイミングで?
意図がわからずに唐揚げを口に運ぼうとしたタイミングで止まっていると、油で濡れた口をナフキンで拭いたブンヤが口を開いた。
「僕は大学進学かな」
「どの程度の?」
「ある程度の」
爽太が聞くのにブンヤが答える。
名前を書けば入れるところじゃなくて、受験戦争に参加するってことなんだろう。
実際、ブンヤなら、どこにでも行けると思う。
定期テストでも、いつも順位が上位の男だ。
俺は唐揚げを頬張って、もぐもぐと噛み締める。
「とっ、遠いでござる~~」
若菜が味噌汁を飲んだ後に泣き言を言っている。
そう。ここは田舎だ。
名のある大学に進学するとなると、絶対に、実家からじゃ通えない。
「爽太氏は?」
「体育大かな~」
「さらっと!!」
「だってサッカー教えてえじゃん。ルイは?」
「野球部あるとこ」
「だよなー!」
爽太と塁が盛り上がっている。
塁の野球部も、活躍している。
甲子園こそ届いていないけれど、県内でも有力候補になった。
大学からの推薦は、いくらでも取ることができるだろう。
「ワカは?」
「うっ、うう……」
若菜が震えている。
うっ、そうだよな。寂しいよな。
「歴史学科で忍者を研究するでござる」
「一番具体的じゃん!!」
わかるぞ、と頷こうとしたのに、裏切られた!
寂しそうな若菜でさえ、しっかりと将来を見据えている。
そうか、みんな、前を向いているんだ。
『わかはにんじゃになりたい。そーたは?』
『オレはサッカー選手! レンは?』
『おれはもてもてきんぐ! るいは!?』
『野球……ぶんやは』
『ぼくは図書館』
『としょかん!?』
『図書館になれば、本がいっぱいよめるから』
『ブンヤ頭いー!』『てんさい!』『じゃあおれテレビになる!』
いつか幼い日、保育園の園庭で将来の夢を語り合っていたみんなの姿が、頭の中を通り過ぎていった。
そして、気付く。
「待って!? 俺だけ具体的じゃなくない!?」
なんだよ、モテモテキングって!!
記憶の中の俺のセリフに自分で突っ込みを入れたら、妙な間が流れる。
みんなの視線が俺に集まった。
「え、レン、今更?」
爽太の率直な言葉が、胸に刺さる。
「モテモテキングになるために西中の柱にもなってたでござる、ふふ」
「やめろ思い出すな若菜!」
ここで黒歴史を出すな!
隣で肩を震わせる若菜に肘鉄を食らわせて黙らせる。
「大学に行く選択肢はあるの?」
ブンヤが冷静に聞いてきた。
みんなの顔を見渡す。
みんなは大学に行くことを前提に考えている。
地元を出ていくんだ。
じゃあ、俺は。
なんとなく、ずっとこうしているもんだと思ってた。
空き教室で昼飯を食べて、何か話したいことがあったらさわやかに集まって。
でも、卒業したら、そんなこともできなくなる。
「さ」
「さ?」
俺が呟いた言葉を、爽太が拾う。
「さみしい~~~」
そして本音を言って項垂れると、若菜が「激しく同意でござる!」と横から抱きついてきて、爽太が「ぶはっ」と笑って俺の背中を撫でてきた。
ブンヤがいつもより優しく笑っていて、塁が小さく息を吐いている。
そういえば、さっきから、塁の口数が少ない。
ちらりと視線を持ち上げると、塁と目が合った。
しかし、一瞬で、逸らされてしまう。
え。
えー。
お冷やのグラスを呷り飲む塁の仕草を見て、ひやりと肝が冷えた。
「つか、みんな東京なら集まれるっしょ」
「せ、拙者、関西に行きたい大学があって」
「ワカが一番遠いじゃねーか!!」
爽太が明るく言うのに、若菜が控えめに言って、爽太が笑いながら大きく突っ込んでいる。
か、関西……そうだよな、忍者の本場といえば、あっちの方だもんな……。
「る、塁は?」
あっ、どもったカッコ悪。
俺が聞くと、塁は片眉を上げた。
「あ?」
「どことか決めてんの」
「さあ。推薦で声かかったとこだな。北海道から沖縄まで」
「ほっ、」「ほっかいどう!!」「おきなわ……」
俺が呟くのと、爽太と若菜の声が重なるのが同時だ。
「マジかよすげえ、スキーしに行くわ」
「拙者、ダイビングしたかったでござる」
「切り替え早いね」
ブンヤが突っ込むぐらい、北海道と沖縄に気分を上げている二人とは裏腹に、俺はなんだか、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受ける。
塁が、遠くに行く。
そんなこと、考えたこともなかった。
その後もああでもないこうでもないと主に爽太と若菜がはしゃいでいたけれど、俺は、残りの唐揚げ半分を、飲み込むことができなかった。
生まれて初めて、さわやかの唐揚げ定食を、お残ししてしまった。
そんな俺の様子に、みんなも気付いていただろうけど、何も言わないでいてくれた。
こういうところが、居心地が良いんだよなと再確認してしまう。
「じゃ、また明日」「さらばでござる」「おやすみー!」
さわやかを出るときに、爽太がぶんぶん手を振って見送ってくれて、ブンヤと若菜も軽く手を振って、自分の家の方向へと歩いて行った。
残されたのは、俺と塁だ。
俺たちも家の方へと歩き出すが、足取りが重たい。
昼に牧瀬くんに『なるはやで』と言われた内容はどこかに飛んで行き、今はもう、塁が遠くへ行ってしまうことで頭がいっぱいだ。
唐揚げも全部食えなかった……。
俺が呆然としていると、ぐい、と腕を引かれた。
顔を上げると、塁が呆れた顔をしている。
「な、なに」
「ちょっと寄ってくぞ」
「なんで」
「いいから」
塁が顎で指したのは、すぐそこに広がる、公園だ。
いつぞや、タイムカプセルを埋めた場所。
塁に引っ張られるがまま公園の中に入ると、ベンチに押し込まれて座らされる。
隣に座ると思った塁は、そのまま自販機まで歩いて行って、ペットボトルと缶を買って戻って来た。
「ん」
「あざす」
俺が好きなレモン風味の炭酸水だ。
礼を言って受け取って、塁は自分も缶コーヒーを開けて飲みながら隣に座った。
塁がコーヒーを飲めるようになったの、いつだっけ。
俺はまだ苦くて好きじゃない。爽太も若菜も好んで飲まない。ブンヤは紅茶派だ。
炭酸水を一口飲むと、口の中がしゅわしゅわした。
それと同時に、言いようのない感情が、胸の奥から込み上げてくる。
「うっ」
「あ?」
「俺さあ」
「ああ」
「塁と離れ離れになんの、やだなあ」
「――は?」
あっ、ダメだ。
言葉にすると、昼間も滲んできたものが、目からじわっと込み上げてくる。
誤魔化すように鼻を啜るけど、もう遅い。
塁ががしがし坊主頭をかいて、少し迷ってから、俺の頭をぐしゃっと撫でる。
ぐし、と目許を拭うと、近い距離に塁の顔がある。
塁が何か言いかけて、止めた。
その代わり、思い切り強く、抱き締められる。
「わっ、」
「~~、おまえなあ、」
「る、塁?」
「人の気も知らねえで泣いてんじゃねえよばーか」
塁の肩口に、思い切り顔を押し付けられた。
涙も鼻水も制服のワイシャツに染み付いちゃいそう。
でも今日の俺は、甘えたい。
この分厚い胸板に。
後ろから腕を回すと、塁の肩が僅かに跳ねた。
「くそ、性質が悪ィにもほどがある」
独りごちると同時に、塁が、俺の髪ごと頭を抱き締めた。
塁の心臓の音が聞こえてくるけれど、もしかしたらこれは、俺の音かもしれない。
ど、ど、ど、といつもより速く脈打っている。
「――昼休みにさ、牧瀬くんに会って」
「ああ?」
「塁のこともらってもいいですかって聞かれて」
「は?」
「俺さ、」
涙と一緒に、理性も流されているみたいだ。
こんなこと、言う権利がないのに。
「ダメって言っちゃった」
掠れた声で言うと、塁が小さく息を呑む。
抱き締められる力が一気に強くなったと思ったら、その直後、ゆっくりと身体を離される。
近い距離で情けない泣き顔を覗き込まれ、頬に伝った涙を親指で拭かれた。
「あのな」
そして、塁がゆっくりと口を開く。
「俺だって離れたくねえし、誰にもやりたくねえよ」
その声は聞いたことがないくらい真剣で、今度は俺が、息を呑む番だ。
「……いいのか」
塁の黒い瞳を見つめていたら、触れ合いそうなほど近くなって、塁が小さく囁く。
考える前に、俺は、目を瞑った。
その直後にふたりの間の距離がなくなって、唇に柔らかい感触がする。
初めてのキスが、コーヒーとレモンの混ざった匂いがして、笑ってしまった。
「ふは、」
「――雰囲気」
「う、ごめん」
俺の笑いに塁の低い声が聞こえて慌てて謝るけれど、当の塁は、大きな息を吐き出して俺に寄りかかってきた。
俺の肩口に埋まる形のよい坊主頭を受け止める。
「進路の話だけど」
「うん」
「野球強いとこ、東京の大学が圧倒的に多いんだよ」
「うん?」
「おまえもどうせ東京の大学だろ」
「んん?」
「――ここ出たら、一緒に住まねえか」
もしかしたら塁は、俺の進路まで、視野に入れていたのかもしれない。
珍しく歯切れが悪く切り出された塁からの提案に、俺ははっとする。
塁の身体を剥がして、その顔を見る。
「それってさ、」
めっちゃサイコーじゃん!!!
満面の笑みで叫んでもう一回塁を抱きしめると、「うるせえ」と言われた。
でも、これってとってもすごいことだ。
俺の今日の不安が、塁の一言で吹っ飛んだ。
「塁すごくね?」
「伊達に十七年間、見てきてねえからな」
心底感心して言うと、塁がまた手を伸ばしてわしゃわしゃと髪を撫でてきた。
塁がコーヒーを飲み干したのを合図に、二人でベンチから立ち上がる。
「じゃあさー、俺も頑張んなきゃってこと?」
「なにを」
「勉強」
「当然だろ」
「ま、目標が出たらやるしかないよね」
ゆっくり歩き出しながら話して、小さく頷く。
今まで俺の進路はまっさらだったけれど、今日、一個の大きな目標が出来た。
「塁と同棲!」
「ぶは、」
高らかに宣言したら、塁が吹いた。珍しい。
「おまえそれ、おばちゃんに言うなよ、まだ」
「まだ?」
「ちゃんと挨拶してからにしろ」
「毎日会ってんのに」
「だからこそだろ、――つーか」
「?」
あと数歩でお互いの家に着くっていうときに、塁が、俺の手を握ってきた。
いつもみたいに腕じゃなくて、手だ。
がっしりと繋がれる。
意図がわからなくて首を傾げていると、塁が耳元に唇を寄せてきた。
「今日から俺のもんってことでいいのか」
「!!」
囁かれて、はっとする。
うっ。
塁と離れたくないって泣いて、塁をあげたくなくて、塁と同棲する宣言しちゃって、ていうかキスまでしちゃって、これもう俺、逃げ場なくないですか。
じわじわと耳先まで赤くなるのを自覚しながら、塁から思い切り目を逸らして、そっと俺より大きい手を握り返し、小さく頷いた。
こういうとき、なんて言えばいいの!?
何も言えないでいると、塁が「ふ、」と小さく笑って、俺の手を離した。
そしていつもと同じ手つきで、俺の頭を撫でてくる。
「一生離す気ねえから、覚悟しろよ」
――そうだ。
三島塁って男は、いい彼氏になりそうなんだった……。
額をこつんと指で押しながら囁かれ、俺はもうキャパオーバー寸前だ。
「塁に殺されそう」
「ばーか、死ぬ時は一緒だ」
「た、楽しそうですね」
「ああ? 当たり前だろ」
上機嫌な塁は、口角を持ち上げる。
これ以上甘ったるい言葉を聞きたくなくて、俺は塁の背中を塁の家まで押した。
「よかったね、はい、おやすみばいばいまたあした!」
「ん、また明日な」
それにさえも嬉しそうなの、やめてもらっていいですか。
――塁が、甘い。
次の日の朝だ。
いつも通り、アラームが鳴るより早く俺の部屋に来て、布団と仲良くしている俺を起こしにかかる。
その後が、いつもと違う。
「んんー……、もうちょい、」
「あと何分」
「五分……」
「一分な」
「えっ」
今までだったら問答無用で布団を引っ剥がしていた塁が、俺のワガママを聞き入れた。
それに驚いて思わず飛び起きると、ベッドに座って俺を見下ろしていた制服姿の塁と目が合った。
その瞬間。
ふ、と微かに笑う。
心臓が、飛び出るかと思った。
起きたばかりなのに一気に熱くなる顔を隠すべく、もう一度がばっと布団を頭から被った。
「起きたんじゃねえのかよ」
「寝てます寝てるんですあと一分寝ます」
「そ」
笑い声混じりの相槌が聞こえ、布団越しに身体をぽん、と軽く叩かれる。
余裕な仕草が悔しいけれど、今の俺には何もできない。
全面降伏、だ。
朝ご飯を食べるときも、歯磨きをするときも、なんだか意識してしまってぎこちなくなった。
その空気のまま玄関を出て外を歩き始めたら、「廉」と塁に呼ばれて足を止める。
「何?」
「あいつらの前で態度に出すなよ」
「え」
「バレたくねえだろ」
爽太に会う前に言っておきたかったのかもしれない。
塁に言われて、考える。
爽太、若菜、ブンヤ。
それぞれの顔が頭に浮かぶ。
あいつらなら絶対、俺たちが付き合ったのを知ったって、何も変わらないだろう。
――でも。
『なに、おまえら付き合ったのかよ、ウケる』と爆笑する爽太。
『ななななんででござるかいつのまにそんなことになったんでござるか拙者も入れてほしいでござる』と大騒ぎする若菜。
『何がどうしてそうなったのか教えてもらっていいかな』とメモ帳とペンを取り出すブンヤ。
俺の頭の中の三人が一気に動き出したら、とんでもない羞恥が込み上がってくる。
そう。
バレるのが嫌というより、単純に、すごくはずかしい。
塁は俺の心情を見透かしたのか、「な?」と同意を求めてくるから、こくこくと何度も頷いた。
「いつも通りに行け」
「わ、わかった」
既にぎこちないけれど、塁が言う通りに頷く。
店先で待っている爽太が「はよー」と手を振ってくるのに軽く手を挙げて返し、「おはよ、昨日はサンキュ」と伝えた。
いつも通りに笑えている、はずだ、たぶん。
「つっかれたあ、」
朝練して、授業を受けて、空き教室で昼飯を食べて、授業を受けて、部活をして、みんなで一緒に帰って、と、当たり前の一日を過ごしたはずなのに、なんだか今日はどっと疲れた。
大きな息と共にそう吐き出して、塁のベッドの上にぼふんと沈み込む。俺のベッドより広くて、良い。
「おまえ、制服のまま寝んなよ」
「いーじゃん、着替えないもん」
「今度持って来い」
「うん。……うん?」
それぞれの家に帰る別れ際、「寄ってけば」と誘われて、そのまま上がった塁の家だ。
相変わらずおじさんもおばさんも忙しくて、塁しかいない。
窓から俺の部屋が見えるぐらいの距離なのに、着替えまで持ってくるのはおかしくないですか。
疑問を口にする間もなく、塁は一度部屋から出て、制服を脱ぎに行った。
俺はサングラスを掛けた猫のぬいぐるみを抱きしめて、塁の家の天井を見上げている。
小さい頃から、なんにも変わっていない部屋だ。
何度も来て、泊まったこともあった。
俺には年の離れた姉がいるけれど、塁は一人っ子だ。
おじさんもおばさんも学校に勤めていて、朝から晩まで忙しくしているから、うちで預かることも多かった。
夏休みはほとんど毎日、一緒にいた気がする。
赤ちゃんの頃、保育園の頃、小学生の頃。
小さい頃からの思い出が、次々と頭の中を駆け巡っている。
『小四から』
小四といえば、十歳だ。
まだまだ何もわかっていなかった頃。
塁は野球をがんばっていて、爽太はサッカーで活躍して、ブンヤは勉強が一番できて、若菜は忍者に憧れていた。
俺は、何をしてたっけ。
ダンゴムシを捕まえたり、カブトムシを捕まえたり、かわいい女の子をからかったりしていたような気がする。
「うーん」
その頃から想われていたなんて、全然ちっとも、これっぽっちも気付かなかった。
ふ、と、影ができる。
「何唸ってんだ」
黒いTシャツとハーフパンツに着替えた塁が、覗き込んでくる。
目が合って、何度か瞬いた。
「塁ってさあ」
「あ?」
「――いや、なんでもない」
今何を聞いても野暮な気がして、俺は目を逸らして誤魔化した。
塁はそれを見て何を思ったのか、そのままベッドに乗り上げてきた。
俺と塁の間には、猫のぬいぐるみしかない。
「廉、おまえ」
「はい」
「この状況、わかってるか」
「へ?」
塁が俺の横に手を置いて、触れ合いそうなほど間近で囁いてくる。
つい、間の抜けた声が出た。
塁が瞳を細め、ふっと笑う。
その顔は、反則です。
大きな手が俺の頬に触れてきた。
そのまま、距離が詰められる。
「ッ、」
俺は思わず、手にした猫のぬいぐるみを、塁の顔との間に置いた。
塁が猫の顔とキスしたことになる。
「てめえ、」
「う、奪っちゃったー?」
「殴られてえか」
猫の頭を動かしてアフレコしてみたけれど、塁の額には青筋が浮かんでいる。
低い声で言われて慌てて首を横に振った。
「ちが、ちがうけど」
「なんだよ」
「なんか」
「なに」
「る、塁くん」
「あ?」
「肉食系すぎない……?」
塁の顔を見ていられなくて、顔を横に向けて、ついでにぬいぐるみで顔を見られないようにガードしておく。
塁は俺を見下ろして、暫く動かなかった。
「――はぁはぁああ~~……」
そして、今まで聞いたことのない特大ため息を吐き出したと思ったら、そのまま俺に乗っかってくる。重い。猫のぬいぐるみも、二人の間で圧縮されている。
「な、なに」
「おまえさ」
「う、うん」
「七年だぞ、七年。生まれたときから傍にいて、自覚して七年。勘違いだと思ったことも、諦めようとしたことも、他のヤツと付き合おうとしたこともあるけど結局どれも無理だった。そんな相手に離れたくないって泣かれて、次の日はクッソ無防備にベッドの上に寝てやがる。何もしねえわけねえだろ、バカか」
る、塁が、そんなに一気に喋ってるの初めて聞いた……。
言葉の内容よりもその事実に驚いていると、塁が俺の肩口に顔を押し付けてきた。
これは、もしや。
塁なりに、甘えているのかもしれない。
猫のぬいぐるみをそっと枕元に置いて、俺は、塁の坊主頭をざりざりと撫でてみた。
「廉……」
塁の声が呆れている。なんでだ。
「そ、そういうのはさー、ほら、なんつーの、段階を踏んで? 的な? ほら俺たちまだ高校生だしさー」
「嫌なのか」
「うっ」
ざりざりしながら目を逸らして言うと、塁が聞いてくる。心なしか落ち込んでいる気がして罪悪感にちくちくする。
頭を撫でていた手を、そのまま、そっと塁の背中に回した。抱きついている形って、結構勇気がいる。
「い、いやだったら」
「だったら?」
「昨日の時点で逃げてますー」
そうだ、俺と塁はキスしてしまった。
いくらでも逃げ場を作ってくれていたのに、受け入れたのは俺だ。
後悔もない。
「でも」
ぎゅ、と塁の背中を強く抱きしめる。
「あのね」
「ああ?」
「あの」
「なんだよ早く言え」
「――俺史上最大級に、はずかしいの!」
お願いわかって!
それを言うのすら恥ずかしいんだ。
俺が精一杯の告白をすると、「ふは、」と、塁が吹き出した。
肩を揺らして笑っている。
塁の爆笑も珍しい。
一頻り笑うと落ち着いたらしい塁が、「はー」と息を吐き出して、顔を上げた。
腕を伸ばして身体を支え、俺の顔との距離を作る。
「――卒業したら、全部もらうから、覚えとけよ」
「うえ」
どこか晴れやかな顔をした塁が、口角を持ち上げてそう断言する。
間の抜けた声しか上げられない俺に目を細め、塁が、両手でわしゃわしゃと俺の髪を撫でて、ベッドから下りた。
乱れた髪の毛を手で撫でつけて、俺も起き上がる。
「ま、七年待ってるからな。あと一年半ぐらい、楽勝だろ」
「そ、そっすか」
「大学、探しとけよ」
「はい……」
高校を出て一緒に住むということを真剣に考えてくれているのが伝わってきて、なんとも言えずに顔を覆った。
ほんとう、はずかしい。
――こんな感じで、俺と塁の関係が、明確に変わったのだけれど。
幼馴染のあいつらとは、一切合切何も変わらず、楽しい高校生活を送るのでした。
めでたし、めでたし?



