不本意出張メシ 広島 〜汁なし担々麵の葛藤〜

 勤務時間に新幹線に乗っている。まだこの感覚には慣れていない。
 新卒で塚本食品株式会社の経理部に勤めて3年目。桐山佳奈(きりやまかな)は今、出張で広島へ向かっている。

 2度目の出張は、佳奈の想像よりもずっと早く訪れた。前回の出張は4月下旬頃で、今は7月。つまり2か月ちょっとで2度目が訪れたのだ。
 半年も経たないうちにまた出張があるとは思わなかったし、出張自体がこんなハイペースだと、人事にひとこと申したくなる。未婚・実家暮らしという、会社にとっては扱いやすい存在のため、都合よく使われているのだろう。
 新卒から丸2年働き続けられたくらいだから、決して居心地が悪い会社ではない。だが、就職活動をしていたときに聞いていた話とは違う部分や、ギャップを感じる場面があることも事実だ。
 それを父親に愚痴ったところ、「そんなもんだ」と一蹴されたので、そういうものなのだろうか。
 入社前に見た新卒採用サイトや説明会では、基本的に会社に不利になる情報は提供されず、会社で最も綺麗な会議室の写真や、できるだけ良い数値が出た情報だけが羅列(られつ)されていることは知っている。それに自分なりにたくさん質問をして、ギャップを埋めるだけ埋めて入社した会社だ。それでも多少違和感を覚えるタイミングがある。
「ギャップなく会社に入社しました!」と入社前懇談会で豪語していた先輩社員は、人事担当者の根回しにより言わされていたのか、それとも単なる鈍感なのか。どちらなのだろう。
 正直、部門どころか名前さえも覚えていない。顔だけはぼんやり覚えているが、すれ違っていても気づかないほど、どんな顔だったかは覚えていない。
 これは佳奈がドライな性格なのではなく、同じ会社で働いていると、そういうもののはずだ。

 そんな佳奈の今回の出張理由は、広島での新卒合同説明会の手伝いに行くためだ。今回は日帰りという、かなりタイトなスケジュールである。
 朝8時に東京駅を出発し、ちょうど12時に広島駅へ到着。そこから路面電車に15分ほど揺られて会場入りする予定だ。合同説明会自体は14時から17時までの3時間で、終わったあとは撤収作業をこなし、23時前には東京駅に戻る手筈(てはず)になっている。
 ……いくらなんでもタイトすぎないか?
 そもそも、合同説明会の手伝いなんて人事部の仕事じゃ、と思ったそこのあなた、御名答(ごめいとう)。その通り、本来これは人事部の仕事だ。
 本来は、人事部に所属する佳奈の同期・鈴木裕香(すずきゆうか)の仕事なのだが、先週から体調不良のため仕事を休んでいる。体調不良は仕方ない。それはどうしようもないことだ。しかし、その仕事が経理部の佳奈のもとに回ってくるとなると話は別である。
 人事部は、バックオフィスを担う同じ畑の者たちということで、1番に経理部を頼りに来た。そして直属の上司・松川理香子(まつかわりかこ)が二つ返事で、
「佳奈ちゃん行ってきなよ!広島!美味しいものいっぱいあるじゃん!休んだ子は同期なんでしょ、ここで手を挙げたらヒーローになれるよ!」
 別にヒーローにはなりたくないが、先輩が「良いよ」と返事してしまったので、無理やりヒーローになってしまった。なりゆきでヒーロー側に加わった、3人目くらいの追加戦士の気分だ。

 というような経緯があり、ピンチヒッターとして佳奈の2度目の出張が決定したのだ。
 ちなみに合同説明会とは、さまざまな会社に大きなホールのなかで区画が与えられ、それぞれが自社についてアピールするイベントだ。つまり、黒幕人事部の手下になりに来てしまった。
 でも佳奈は、ありのままを就活生に伝えたいと思う。「出張はありますが、良い会社です」と言うつもりだ。
 松川が出張に行けばよかったんじゃ、という話だが、7月は社会保険の算定基礎届(さんていきそとどけ)に必要な賃金データの集計などが重なるため、経理も比較的忙しく、松川は手が離せない。それでも経理部を1人出せるということは、まだ余裕があるのかもしれない。
 これ以上に忙しい他部署のことがちょっと心配になってきた。

 今回さらに問題なのは、隣に座っているのが松川ではないということだ。なんと、入社1年目で人事部の田中幹人(たなかみきと)である。
 松川以外の人と出張というだけでも不安なのに、ともに行動する相手が4か月ほど前まで学生だった22歳なのだ。
 合同説明会はもちろん人事部主催なので、ほかの運営メンバー4人は、先発隊(せんぱつたい)として朝イチで広島に到着し、準備を進めている。佳奈と幹人は、あとから合流するということだ。
 人事の仕事がさっぱりな佳奈が新入社員と同じ扱いで助かったが、一緒に行動するということは、この子を無事に広島まで連れていき、そして面倒を見る係に任命されたということでもある。
 ほぼ初対面な上に、1日行動をともにしなければならない。こんな自分が引率係(いんそつがかり)を任されてしまって大丈夫だろうか。
 佳奈自身が心配なのはもちろんのこと、きっと彼のほうが不安を抱えているはずだ。だからここは自分がしっかりしなきゃ……。

 そんな佳奈の気配りが空振りするかのように、左隣に座る彼をちらりと見ると、そこにはすっかり夢の中にいる幹人の姿があった。耳にはイヤホンが差し込まれており、こちらの存在ごと見事にシャットアウトされている。
 最近の新入社員はこういうものなのだろうか……。
 つい数か月前の、ド緊張していた自分の初めての出張を思い出すと、この子は立派だ。いろんな意味で。
 きっと大物になるな、と変に感心していると、右側の車窓にはちょうど富士山が見えてきた。松川と出張に行った4月は、まだ雪化粧をしていた富士山も、今はすっかり雪が溶けて山肌が剥(む)き出しになっていた。
 雪があるとひと目で「富士山だ」とわかるのに、雪がなくなった瞬間にオーラが薄くなり、なんだかがっかり感がある。こんなこと、静岡県民に言ってしまったらきっと怒られるだろう。
 あれ、富士山があるのは静岡じゃなくて山梨だっけ……?
 根っからの文系で、歴史や公民は得意科目だったが、地理は地形や統計データの読み取りが佳奈を苦しめ、からきしダメだった。歴史や公民は語呂合わせや暗記でゴリ押しできたので何とかなっていたのだが、それが地理には通じない。データの分析はとにかく苦手だ。

 まあ、学生時代の苦手科目の話なんてどうでもいい。それよりも今の佳奈にとって、この絶賛爆睡中の後輩を無事に会場まで連れ届けることが最大のミッションなのである。
 前回の松川との出張により、佳奈は「出張先で地元のご当地グルメを楽しむこと」が出張という荒波を乗り越える術だと学んだ。王道メシだけでなく、その土地で親しまれているB級グルメも探したいと意気込んでいる。この「出張メシ」をいかに楽しめるかが重要だ。
 しかし今回は、スケジュールの都合上、ご当地グルメにありつける機会が新幹線到着後のお昼ごはんのみ。しかも、この後輩がついて回る。これでは、前回のように存分に「出張メシ」を楽しむことは難しいかもしれない。
 隣にいる幹人の好みもわからないし……と悩みながら、佳奈はスマホの検索エンジンを立ち上げ、広島駅近くで食べられる店を探す。
 検索結果の1番上に出てきたのは、「広島観光で絶対にはずせない!ご当地グルメ!」という記事。いかにもベタな観光客ホイホイの文言にまんまと誘われ、リンクを開く。
 お好み焼き、牡蠣、レモンケーキ……。
 牡蠣、いいな〜!口の中を滑る、とろりとした舌触りからの、噛むとプリプリとした独特の食感。網の上でふつふつと焼かれ、磯の香りを感じながら、牡蠣からあふれ出る泡の数を数えて焼き上がりを待つ時間……想像するだけでよだれが出そうだ。
 東京出身の佳奈にとって、新鮮な海鮮はいかにも旅行感があって惹かれる。
 でも、牡蠣は好き嫌いが分かれる食材だ。幹人が嫌いでなければ……と考えるが、隣の彼は相変わらず佳奈の相談を受け入れる態勢など微塵(みじん)も整っていない。
 うーん……駅に着いてから店を探す余裕はない。できれば今のうちに決めてしまいたいが、すやすや眠る新入社員を「牡蠣、食べられる?」と叩き起こすのは、さすがに先輩としてよろしくない気がする。
 それにしても、若い男子が好きなお昼ごはんというものがピンとこない。なんせ佳奈の部署では佳奈が最も若いのだ。
 松川も、前回の出張ではこんなふうに見えないところでいろいろと気を回してくれていたのだろうか。そう思うと、あの底抜けにパワフルな先輩が少し愛おしく感じる。まあ、こんなにも早く松川側の立場になるとは思ってもみなかったが。
 入社3年目という、新人とも中堅とも区分されない絶妙な立ち位置にいる者たちの性(さが)だろう。逆にいえば、中堅ぶることも新人ぶることもできるのだから、おいしいのかも。
 できればこのポジションを存分に生かしたいところだが、今のところ、立ち回りが難しいというデメリットしかない。
 もっとも松川には、お土産にちゃっかり「レモン系のスイーツよろしく!」と指定されているので、その期待にはきっちり応えてやらねばならない。

 残念ながら牡蠣は今後の楽しみにとっておくか……じゃあどうする?やっぱり王道のお好み焼きかな?きっと当たり障りのないもののほうがいいよね……広島ラーメン!ラーメンいいじゃん!若い男の子といえば間違いなくラーメンが好きでしょ!これだ、これ!
 最適解見つけちゃった、と得意げになる。駅近の広島ラーメン屋を検索し、何軒かチェックする。時間に余裕がないので、行列ができない穴場に狙いを定める。

 佳奈が、自分が後輩に気を遣えたという満足感にのぼせていると、「まもなく広島です」というアナウンスが無情にも割り込んできた。
 もうそんな時間か!とハッとなる佳奈をよそに、イヤホンを外し、そそくさとテーブルを折りたたんでいる幹人が視界に入る。いつから起きていたのだろうか。
 せっかく先輩風を吹かして起こしてあげようと思った佳奈の期待を裏切っていく。この後輩、ぬかりない。

「先輩、行きますよ」
 まだ新幹線は駅に停車していないのにもかかわらず、車内にできた列に並びに行ってしまった。
 佳奈も急いで降車の用意を済ませ、幹人との間に2人のサラリーマンを挟み、降車待機列に並んだ。時間に余裕がないのは事実だが、そんなに急がなくても、出張メシは逃げていかないのに。
 改札を抜け、行き交う人混みの中に流れるように加わる。広島に着いた充実感で満たされていると、幹人は何も言わずに右へ曲がった。
 彼についていくようにして追いかけるが、人に押し流され、じわじわと佳奈との間に距離ができる。
「ちょっと待って、どこに行くの?」
 そう声をかけようにも、雑踏によって容赦なくかき消されてしまう。
 まずい、はぐれる!と思ったとき、歩みを止め、のろりと振り返った幹人と初めて目が合った。彼はわずかに目を細める。
 おおお、怖い!何を考えているかわからない。
 幹人が止まってくれたおかげで横にたどり着き、「ごめんね、人が多くて」と言うと、「はぐれないようにしてくださいね」と真顔で言われ、佳奈は背筋が伸びてそのまま凍りついた。
 はい、すみませんでした。引率係なのに。
 佳奈は反省モードのまま、怖い後輩へ恐る恐る声をかける。
「お昼ごはん、どうしよっか。やっぱり、名物とか押さえておきたいよね。時間がないから、駅に近いところじゃないといけないんだけど、もし行きたいところがあったら……」
 つい焦ってしまい、気配りどころか、一方的なマシンガントークを繰り広げてしまう。すると、佳奈にとって般若(はんにゃ)に見える後輩は、「なんでもいいっすよ」と答えた。
 それを……待っていました!ついに佳奈の出番だ。行きの新幹線でリサーチした、先輩の出番だ。
「えっとね、広島って実は『広島ラーメン』っていうご当地ラーメンがあってね、醤油と豚骨をミックスさせたスープが特徴なんだって!あっさりしているからおいしいと思う!」
 よし。さっき仕入れたばかりの知識を存分に披露して、バシッと決まったはずの佳奈だったが……。
「あー、ラーメン昨日食べたばっかで」
 あっけなく玉砕(ぎょくさい)。スマホに視線を落としたままの幹人にそう言われ、佳奈の2時間にも及ぶ苦労は、砂丘の砂のごとくさらさらと舞って消えていった。
 どうしよう、もう手札はないよ。このままだと無難にお好み焼きか。あとはレモンケーキしか佳奈の引き出しには用意されていない。
 お好み焼きの店を探すために視界をさまよわせてみるものの、右も左も人の往来でいっぱいで、ただ慌ただしい景色が流れていくだけだった。
 スマホで何やら調べていた幹人が、ふいに顔を上げて言った。
「担々麺とかどうすか。汁なし担々麺」
 もういっそ何でもいいや、なんてやけになっていた佳奈に、一筋の光が差し込んできた。まさか幹人が提案してくれるなんて。このままでは広島駅をあてもなく彷徨(さまよ)うところだった。
 般若に見えていた後輩が、途端に菩薩(ぼさつ)に見えてきた。後輩くん、なかなかやるじゃないか。見直したよ!
 佳奈の感心もつかの間、「先輩、行きますよ」とすたすた歩いていってしまう。このイノシシ、顔はのんびりしているが、動きは素早いようだ。
 今度は置いていかれないように必死についていくと、まったく道に迷うこともなく一直線に、駅ビルの中にある「汁なし担々麺」の旗がはためく店に到着した。
 待ち時間もなく、スムーズにカウンター席につくと、名物とうたわれた汁なし担々麺を2つ注文する。ここまで約5分。あまりにもスムーズで、なんか悔しい。
 そんな佳奈の様子を一切気にすることなく、幹人はスマホに集中しているようだった。
 こういうときは下手に会話をしないほうがいいよね、と佳奈も自分のスマホを取り出す。特に目的もなくSNSの海を漂っていると、目の前に真っ白な器がドカンと置かれた。

 これが汁なし担々麺か!
 担々麺自体、佳奈にとっては疎いメニューなのに、それを軽く超えた汁なし担々麺。今さらだが、これは辛いよね。大丈夫だろうか。佳奈は辛いものに自信がなく、担々麺が辛い料理であることがすっかり頭から抜け落ちていた。
 その心配をよそに、隣からはパキッと小気味よく割り箸を割る音が聞こえる。出されたものは食べるしかない。
 腹をくくった佳奈も割り箸を割り、担々麺と向き合う。しかし、割り箸は上手に半分に割れず、片方に不格好なささくれが残ってしまった。
 指に刺さりそうなそれをむしり取りながら、後輩のスムーズな進行に比べてどうにも締まらない自分に小さくため息をつき、もやもやごとグラスの水で流し込んだ。

 さあ、汁なし担々麺。初実食といこう。
 箸で麺を控えめに1つまみして、口に運ぶ。
 か、辛っ!
 唐辛子のピリリとした辛さと山椒のしびれが、佳奈の舌を手加減することなく刺激し続ける。ジンジンと口内がしびれ、それは伝染したのか唇まで痛くなってきた。
 あまりの刺激にかえって冷静になる。こんな赤々とした食べ物が辛くないわけがない。
 辛さもそうだが、服に赤いハネは飛んでいないよな?と不安になり、自分のブラウスのいたるところに視線を走らせて、赤いシミがないかチェックした。
「ねえ、汁なし担々麺って結構辛いん……」
 はっ……気づいたときにはもう遅かった。この店の担々麺、ふんだんにニンニクが使われている。
 佳奈が、赤くなっているかもしれない口元を押さえたときには、すでに自身の呼気(こき)にしっかりとニンニクの存在を感じていた。こめかみにじんわりと汗がにじむ。
 隣を見ると、同じことに気づいたのか、幹人も箸を持ったまま固まっていた。
 これは先輩として、どう出るのが正解だろうか。
 空振り続きの脳をフル回転させて最適解を探そうとするが、何も思い浮かばない。「どうしよう」とこちらも固まるという、先輩として最悪の一手に佳奈は出てしまう。
 幹人と目が合う。けたたましく鳴る換気扇と、通り過ぎていく人の靴音、キャリーバッグをゴロゴロと床に擦りつけていく音。静寂とは無縁の駅ビルが、まるで静寂に包まれたかのように感じた。
 隣で唖然(あぜん)としていた幹人が、片眉だけを器用に上げ、口角をゆがめて噴き出した。
「大丈夫ですよ、先輩。俺もニンニクくさいと思うので」
 フォローになっているようでなっていないが、これが幹人が差し伸べてくれた精一杯の助け舟だ。
「あ、ありがとう。汁なし担々麺って辛いんだね!汗が止まらないや」
 こめかみから流れ落ちる汗をハンカチでポンポンとぬぐいながら、その船に乗り込む。額にもうっすらと汗をかいている予感がする。
「辛いなら生卵を追加するといいですよ。一気にマイルドになります」
 生卵か、その手があったか!2口目が手につかない佳奈にさらなる手が差し伸べられた。佳奈は迷いなく「生卵お願いします」と厨房にいる店員に告げた。
「ありがとう、辛いからどうしようかと思ってたの。通だね、幹人くん!」
「いや、辛い物に生卵くらい普通ですよ」
 と言われてしまい、せっかく差し伸べられた手がまた離されて、縮まった距離が再び遠くなってしまった。
 近づけたと思えば、また離れる。先輩として導いているつもりが、実は自分のほうが助けられてばかりだ。
 佳奈は、すぐに出された生卵を皿の中心に落とすと、丸い黄身がテカテカと輝いた。黄身をつぶして、汁で赤く染まった器に黄色を混ぜながら、先ほどまでの一連の出来事を思い返してちらりと隣を盗み見る。
 この後輩と仲良くなるには、もう少し時間がかかりそうだ。この1回の出張で、劇的に仲良くなろうとなんて思わなくていい。時間をかけて、ゆっくりじっくり。
 赤と黄がきれいに混ざらなくても、だいたい混ざっていれば美味しい。ちょっとの歩み寄りと工夫が、きっと距離を変えていくから。

 帰りにレモンケーキを買うのを忘れないようにしなきゃ。
 自分に出張の楽しみを教えてくれた上司の顔を思い浮かべながら、無言で麺をすする後輩の横で、佳奈も箸をつかみ、麺をすすった。
 うん、まろやか!

 なお、合同説明会で2人を待っていたのは、人事部のメンバーたちのなんとも言えない苦笑いだった。