『おはようございます! 起きてますか? オレは朝散歩でコフキコガネ発見』
目をこすりながらスマホを見た黄金は、メッセージに添付された写真を見て頬を緩めた。おそらく花莉の掌の上に乗せられドアップになったコガネムシは、つぶらな黒い瞳で黄金をじっと見つめていた。
『おはよう、今起きた。可愛いな、コイツ』
数時間遅れて返信したのに、花莉の既読はあっという間についた。
『もうお昼ですよ? 今夜は満月なので、夜の昆虫採集にチャレンジします!』
『起きてられるといいね?』
『意地悪言わないで起こしてくださいよ! オレ、いつも起こしてあげてるのに』
ふふふ、と声に出して笑った黄金は、かろやかに指先を動かした。
『ついに、俺の夜型生活が役立つ時がきたね。いいよ、何時でもナイトコールしてあげる』
約束の夜十時、黄金は花莉にメッセージを送ってみた。しばらく待っても既読がつかないので、電話もかけてみる。花莉の名前をタップすると、呼び出し音が鳴り始めた。短い電子音が何度も繰り返される。花莉はなかなか反応しなかった。黄金はぼんやりと液晶画面を見ながら、何故だか自分がドキドキしていることに気付いた。
(あれ……何だ、この感じ。後輩を起こす約束、しただけなのに……)
自分の感覚に自分で首を捻りつつ、黄金は手の中の機械を見つめていた。
数十回の呼び出し音の末、画面は通話中に切り替わった。黄金が思わず息を詰めると、画面の向こうから『うーん……』と無防備な声が聞こえた。
『ん……だれ、よなかに……』
寝起きの花莉の声は、普段より一段低く、ざらついていた。気だるげで敬語も外れた、聞いたことのない喋り方に、黄金の心臓は早駆けを始める。
『あ、花莉、くん? えっと……黄金、だけど。ほら、夜起こすって、約束しただろ?』
『う、ん……こがね、せんぱい?』
ふわぁ、とあくびの音がする。まるで耳元で囁かれたようで、黄金は首筋の産毛が逆立つような心持ちがした。
『そう、黄金。今夜は満月だから、採集に行くんだろう? ほら、起きて』
んー、と伸びをするような声がする。いつも元気でハキハキとした花莉しか見ていなかった黄金は、初めて寝起きの彼に接していることに気付く。
(俺も、こんな無防備な姿を毎朝晒してたのか……?)
余りにも今更な感想だが、花莉から見た朝の自分を想像して、黄金は顔を赤らめた。
『ん……こがね、せんぱい……。電話、ありがと、ございます』
少し花莉の口調がはっきりしてきて、黄金はほっとため息をついた。
「行けそう? 採集」
『行きます……!』
「ふふっ、気をつけてね」
余裕のある先輩ぶって電話を切ったものの、花莉の意外と低い声は、いつまでも黄金の耳の奥に居座った。
深夜、ストレッチをしながら本を読んでいると、黄金のスマホが震えた。チラと視線を送ると、花莉からのメッセージだった。
トン、と画面をタップすると、繊細な薄青い色をした昆虫が現れた。
『月の女神様、再び。黄金先輩と一緒に、見たかったな』
オオミズアオの写真に添えられた花莉のメッセージに、黄金はそっと胸元を押さえた。震える指先でフリック入力する。
「また誘って。いつか、きっとね」
短く返信してからも、黄金の鼓動はおさまらなかった。静かに目を閉じて、不覚吐息を吐いた。
灼けるような陽射しの猛暑日が続く。気温が高すぎるのか、蝉の声もどこか切迫感があるように聞こえた。部屋の中で筋トレに励んでいた黄金は、ふと壁にかけられたカレンダーに目をやった。
(そう言えば、今日は花莉くんから連絡が来てないな……)
ふと気付いた黄金は、スマホの履歴を辿った。毎日のように写真付きのメッセージを送ってきていた花莉なのに、ここ二日ほど連絡がない。
(忙しいのかな。……いや、そもそも別に毎日連絡する必要もないんだけど)
自分たちは、ただのルームメイトの先輩後輩。黄金は自分の感覚に自分で首を傾げ、スマホをベッドの上に投げ出した。
「ん——、ダメだ! 気になる!」
その日の夜まで待ってみても、花莉からの連絡は来なかった。夕食も終え風呂にも入り、黄金にとってのゴールデンタイムである深夜が近付いている。もしも今電話したとして、花莉はほぼ間違いなく寝ているだろう。
黄金は机にコツン、と額を打ちつけた。
(こんな事なら、昼のうちに連絡してみればよかった……)
気になっていたのに、変な意地を張ってしまった。花莉はいつもカジュアルに連絡してくるのだから、自分も気軽に連絡すれば良いだけだ。
(でも、俺は花莉くんみたいに綺麗な写真とか撮れないし。筋トレしてるよ、とか飯食ったよとか、そんなこと送られても困らない?)
悶々と考えていると、読書にもまるで集中できない。ため息をついた黄金は、窓の外を見上げた。窓の外には痩せていく月が、薄い雲を纏って天頂に貼り付いていた。
(何で、出ないんだ……)
翌日、昼前に目覚めた黄金は、すぐにスマホを確認した。しかし、花莉からのメッセージは届いていない。落ち着かない気持ちに駆られた黄金は、花莉に電話をかけてみた。呼び出し音はなっていたが、花莉は出なかった。
『おはよう。どうしてる? 俺は今日はプール行く予定』
五分ほど自分の送ったメッセージを睨んでいたが、既読は付かなかった。ため息をこぼした黄金はスマホを裏返し、食事をとりにリビングに向かった。
(既読が付かない……)
黄金は自室でスマホを確認し、肩を落とした。何度メッセージを送ったところで、スマホを見られない環境なら意味はない。そう頭ではわかっていても、指先は自然と画面をなぞる。
『プール行ってくるね』
(いや、さすがにしつこいか……)
頭を抱えて文字列を消去し、黄金はプールバックを掴んで部屋を飛び出した。
泳ぐのは好きだ。走るのとはまた違う、全身の筋肉をフルに使う運動。空気よりも抵抗の大きな水に包まれていると、漠然とした安心感があった。
(実際の身体の動きと、脳の認識する身体の動きがズレてるのがクラムジー。こうやって少しずつ、今の身体に慣れていくしかないんだな……)
長い腕で水を掻く。伸びた足で水を蹴る。黄金はのんびりとしたスピードでプールを往復した。何も考えずに、ただ身体を動かすのは心地よい。ふと、自分のフォームがどうなっているのか気になった。無意識にプールサイドに目をやったが、もちろんそこには誰も知り合いはいない。
(……花莉くん、何してるのかな)
グラウンドを走っている時には、気付けばいつも花莉がいた。カメラのレンズの向こうで、真剣な顔をしてこちらを見つめていた。
(あれ……俺、花莉くんに会いたい、のかな……)
自分の思考に驚いた隙に、僅かに水を飲んでしまった。ツン、と鼻の奥まで届く痛みに唇を噛む。黄金は意地でも動きを止めるまいと、必死に水を掻いて進んだ。
休憩を挟みつつ、二時間みっちり泳いでロッカーに帰ってみると、花莉へのメッセージは未読のまま。黄金はヘナヘナとしゃがみ込んだ。
(こんなに既読つかないことある? ……いやあるな。普通にある。どこか出かけてるかもだし、何か作業に集中してるのかも)
自分でそう言い聞かせて、黄金はタオルを被った。ポタポタと足元に落ちる水滴は生ぬるく、塩素の匂いが鼻につく。
家に帰ってもまだ既読が付かなければ、一度電話してみようと。そう決めた黄金は水着に指をかけ、ずるり、と濡れてまとわりつく布を下ろした。
『おかけになった番号は、電波の届かないところにあるか、電源が入っていないため、かかりません。おかけになった番号は……』
黄金はバフン、とベッドに飛び込んだ。意を決して花莉の名前をタップした分、空回り感が大きかった。
(圏外か、電池切れ……。え? どっち? どこにいるの花莉くん……)
黄金は枕を抱きしめ天井を見上げた。思い出されるのは、寮のベッド。目を覚ますと、腕の中で笑っている花莉の顔。
(花莉くんの声が聞きたい。何処にいるのか探してみよう)
腹筋の力でサッと起き上がった黄金は、再びスマホを手に取り、メッセージアプリを開いた。
『元気? 夏休み、寮生と連絡取ってる?』
まずは、同じクラスの夜空に訊いてみることにした。彼とはよく話しているし気安い。口数も少ないから、余計な詮索もしないだろう……と、思ったのだが。
夜空の既読がついて数秒後、黄金のスマホを震わせたのは“鐘文緋色”の名前だった。
「こがねん、久しぶりじゃん! 元気元気?」
「……何で、緋色?」
黄金の声に緋色はクククと笑った。
「何だよ、つれないなぁ〜」
「ごめん、黄金クン。緋色に画面、見られちゃって、」
隣にいるのだろう夜空の、小さな声が聞こえた。黄金はため息を飲み込み、気を取り直す。
「まぁ、みんなに訊いてまわる手間が省けたか。緋色、花莉くんと仲良かったよね。夏休み、出かけたりした?」
「はなりん? 休み入ってすぐ買い物行ったけど、それ以来会ってないな。どしたの?」
「いや……」
どうした、と聞かれて黄金はぐっと詰まった。ここ三日連絡してない、今日一日既読が付かなかった。客観的な事実はそれだけだということを、突き付けられる。
「いや……ここんとこ急に連絡つかなくなったから、ちょっと心配で……」
「えー、こがねんとはなりん、そんな頻繁に連絡取ってたんだぁ。仲良しだねぇ」
「そ、そんな、俺らはルームメイトだし、ほら、花莉くんが起こしてくれるのが、俺も、もう癖になってるっていうか、」
黄金があたふたと墓穴を掘っていくのを、緋色は笑いながら聞いていた。
「はいはい、ご馳走様。毎朝モーニングコールされてたのが途切れてるってこと? そりゃ心配だよねぇ」
「……黄金クンが連絡先知ってる一年生で、花莉クンと同じクラスの子はいないの? クラスラインとかで、遊ぶ約束したり、してるかも」
「あ……」
夜空の言葉で、黄金は思い出した。陸上部の後輩の研平。確か花莉と同じクラスだった。
「あれ、ふたりしてスマホ見つめてどうしたの?」
スマホの向こうでもうひとりの声がした。黄金は苦笑してしまう。
「……若葉まで」
結局、鐘文家の三つ子が顔を揃えてしまった。
「夜空、ありがとう。陸部の後輩に連絡してみるよ」
「大丈夫か、黄金。モーニングコールがいるなら、してやろうか?」
若葉の申し出は100%の親切心からのものだろうが、弟たちにはすこぶる不評だった。
「若葉……鈍いね……」
「そういうことじゃないんだよなー」
黄金は首を傾げる。
「どういうこと?」
スマホの向こうからは、夜空と緋色のため息が二重奏になって聞こえた。
「黄金クンも……たいがい鈍いよね……」
「はなりん、苦労してるんだろうなー」
「?」
黄金は釈然としない思いをしたが、とにかく研平に連絡を取りたい。
「とにかく、ありがとう、三人とも」
「連絡取れるといいね〜」
「バイバイ」
「早寝しろよ」
三者三様の返事を受け、黄金はスマホをタップして通話画面を閉じた。
『小吹先輩、お久しぶりです』
一年の研平は、急な連絡に対して丁寧な挨拶を返してきた。黄金はどう切り出そうかとしばらく指を彷徨わせていたが、誤魔化しても仕方がないと腹を括った。
『研平は、俺のルームメイトの城手花莉と同じクラスだったよね?』
『はい、そうです。城手がどうかしましたか?』
律儀な後輩に、勇気を出して訊いてみた。
『ここ数日、連絡が取れなくて。何か予定聞いてる?』
ドキドキしながら返信を待っていると、すぐにスマホが震えた。
『城手は今、おばあちゃんの家に行ってるんじゃないですかね? 前にクラスラインでみんなの予定合わせた時、確かそう言ってました。すげぇ田舎で、お天気次第で圏外になるって』
黄金は、一気に脱力した。
『そ、そうなんだ……ありがとう』
『二、三日って言ってたから、そろそろ帰ってくるはずなんですけどね。俺も連絡取れたら、先輩に教えますね』
『ありがとう』
(二、三日……それなら、もう帰って来てても良いはずだけど……)
一度は胸を撫で下ろしたが、黄金の胸中にはまたもや暗雲が立ち込めた。
液晶に『城手花莉』の名前が表示された時、黄金は自分史上最速のスピードでスマホを拾い上げた。
「もしもし、花莉くん?」
「あ、黄金先輩。しばらく連絡できなくて……」
「心配した、」
「え?」
花莉の言葉を遮ってそう言った黄金の語尾は、僅かに震えた。
「急に連絡来なくなって……なんか、怖くなったっていうか……いや、そうじゃなくて、えっと……」
黄金は咳払いした。
(落ち着け。俺は花莉くんの先輩だろう)
「……めっちゃ心配したよ。電話、繋がらなかったし」
「すみません……」
花莉の声が小さくなった。
「ばあちゃん家に行ってたんですけど。先輩にはついてから連絡しようと思ってたんですよ。そしたら、全然どこも電波届かなくて、」
花莉はため息をついた。
「プラスばあちゃん怪我しちゃって、病院とかいろいろ調べてバタバタしてたらスマホの充電切れてたし。予定より帰るのも遅くなっちゃって。先輩、起きれてました?」
「………………」
黄金は息を吸い込んて、ゆっくりと吐いた。
「連絡来なくて、あれ?って思って、こっちから連絡しても繋がらなくて、俺、花莉くんに何かあったらと思うと気が気じゃなくて……。おばあちゃん、大変だったんだ。大丈夫だったの?」
「はい、何とか」
花莉はしばらく黙った。
「……オレ、先輩に連絡できなくて、すごく淋しかったです。綺麗な写真も結構撮れてたのに、全然見せられなくて」
「………………」
「いつの間にか、良い写真撮れたら、先輩に送るの癖になってて」
「………………」
黄金はぐっと拳を握った。素直に言葉にする花莉の潔さ。それに引き換え、ぐずぐずと小さなプライドにしがみついている自分の弱さが悔しい。
「……俺も、淋しかったよ」
「本当ですか? ふふっ、何か嬉しいです」
はにかんで笑った花莉の顔が目に浮かぶ。
——会いたい。
数日堪えていた黄金の気持ちが、一気に膨らんだ。
「ねぇ、花莉くん。もし都合がついたら……少し早めに寮に帰れない? 新学期の二日前から帰寮できるから……」
「そうしましょう!」
花莉は食い気味の返事をした。
「えへへ、もうすぐ会えますね」
花莉の声は弾んでいた。黄金もつられて微笑んだ。
「宿題、終わらせときなよ?」
「えーっと……。解んないところは、先輩に教えてもらいたいなー、って」
「ふふっ、いいよ」
黄金は笑ってカレンダーを見た。もうすぐ花莉に会える。同じ部屋で寝起きして、毎日起こしてもらって。
「じゃあね、花莉くん」
「また、写真送りますから」
何日もわだかまって萎んでいた気持ちが、一気に晴れた気がした。黄金は花莉の顔を想像しながら、スマホをそっと抱きしめた。
「黄金せんぱーい!」
大きなボストンバッグをさげた花莉が、手を振りながら駆け寄って来た。寮の玄関に立っていた黄金は、わずかに腰を落として衝撃に備える。
「花莉くん、そこのアプローチの石畳、剥がれかけてるから気をつけて……」
「うわぁ!」
案の定、石に足を取られた花莉が黄金の胸に飛び込んできた。
「……ゴメンナサイ」
「ふふっ、おかえり、花莉くん」
夏の終わりの夕焼け雲は、もくもくと膨らんでいた。数ヶ月分距離を縮めたふたりは、顔を見合わせて笑った。
「何か、やっぱり落ち着くな……」
寮の部屋のベッドに横になり、黄金はつぶやいた。身体を転がすと、反対の壁際のベッドには小柄な花莉の姿が見える。黄金が常夜灯にも光るツヤツヤの黒髪を見つめていると、くるり、と白い顔がこちらを向いた。
「あ、ごめん。起こした?」
黄金が慌てて眉を寄せると、花莉は首を振った。
「いえ、オレも起きてたから」
「花莉くんが……九時過ぎに……起きてる……?」
黄金がおののくと、花莉は決まり悪そうにブランケットに顔を半分引っ込めた。
「何か……寝られなくて。先輩は本当にリラックスできてるんですか?」
「え? うん。……あれ、花莉くんは違うの?」
黄金は身体を起こした。
「俺、何か変なことしてた? ごめんね、気付かなくて」
「……そういう所なんですよね」
花莉はボソボソとつぶやいた。
「なあに?」
「何でもないです」
「でも……」
花莉はブランケットに完全に引きこもった。モゴモゴと声だけが聞こえる。
「久しぶりに黄金先輩と一緒の部屋で寝たら、何かドキドキしちゃうなって話です。……おやすみなさい」
「……? おやすみ、なさい」
黄金は釈然としなかったが、花莉の顔はもう出てこなかった。仰向けになって、自分も布団を被る。
(俺は落ち着くなって思ったんだけど、花莉くんはドキドキしてるって。……どういうこと?)
ぐるぐると考えても答えは出ない。かと言って、花莉を起こして問い詰めるのも気が引ける。黄金はため息をついて、花莉のベッドを盗み見た。小さな膨らみを確かめると、やはり胸のうちは暖かくなる。
(緊張してるのかな、花莉くんはまだ一年生だし)
黄金はいったんそう結論付けて、ブランケットを握りしめて目を閉じた。
