花莉と黄金 〜黄昏に君が落ちてきた!〜


「小吹、ちょっとタイム戻ってる」

「え?」

 瀬知にストップウォッチを見せられた黄金は、目を見張った。

「やったな。何かつかんだか?」

「…………わからないけど」

 瀬知は頬を緩めた。

「このままもう少し縮めば、県大入賞も視野に入るな」

「まさか……」

「そんなおかしな事じゃないだろ。去年は入賞してるわけだし」

 黄金は俯いた。

「でも、何が変わったかわからないから、再現できない……」

「お前はまだ二年だ。引退まで一年以上あるんだから、そんな焦るなよ」

「でも……」

 首を傾げた瀬知は、トンと黄金の背を軽く叩いた。

「身体の使い方だけじゃない。メンタルもタイムへの影響大きいんだぞ。お前は、もうちょっと力抜け」

(メンタル……か……)

 黄金は思いを巡らせた。確かに、ここの所タイムのことばかり考えていたかもしれない。

「何か、ホッとすることでもあった?」

「あ……」

 黄金が顔を上げると、瀬知はニヤリと笑っていた。

「それ、大事にしろよ」

 深くは聞かずに立ち去る部長の背中を、黄金はじっと見つめた。




「ちょっとタイム縮んでた」

 寮の部屋に帰って報告すると、勉強机についていた花莉はクルッと振り返った。

「えー、やったじゃないですか! うわっ、今日も部活サボって先輩のとこ行けば良かったな」

 本気で頭を抱える花莉を見て、黄金はクスクス笑った。

「こら、写真部の活動もしろよ」

「先輩撮るのも活動ですもん」

 ぷくっと膨れて見せた花莉に近付き、黄金はその頬はツン、とつついてみた。

「それは……まぁ、そうなのかな」

「そうです。先輩はオレの大事な……」

「大事な?」

 花莉は何故か、僅かに視線を逸らした。

「……大事な被写体なんで」

「そう、ありがとう」

 黄金はくしゃっと花莉の髪の毛をかき回した。

「部長に言われたんだ。タイム決めるのはクラムジーだけじゃなくて、メンタルも大事だって。焦らず力抜けって」

「ふうん? オレにはよくわかんないけど、そうなんでしょうね」

 花莉は首を傾げた。そのきょとんとしたかおをみて、黄金の眉が下がる。

(そう。陸上のことなんか判んないのに、花莉くんは俺を見てくれてる……)

「時々でいいんだ。また写真撮ってくれる?」

「それはもちろん!」

 花莉はピンと背を伸ばした。緑がかった茶色の瞳がキラキラと輝いた。

「さっそく、明日は行きますよ!」

「ふふ、お願いするね」

「はい!」




——三日後、男子寮504号室

 黄金はベッドにうつ伏せに転がり、枕に顔を埋めていた。花莉はカメラをいじっている。大きなため息をついた黄金が、そっと花莉の方を見た。

「せっかく見に来てくれたのに。またタイム遅くなっちゃった。今日は、ハードル三台も倒したし」

 花莉はチラと黄金を見た。

「でもあのガシャン、って倒しながら進む姿も、オレ好きなんです」

 黄金は目を見開いた。花莉の言葉は、これまで聞いたことのない斬新な意見だった。

「……タイムのロスになるんだけど。推進力削がれるし」

「そうなんでしょうね。——陸上のことは、オレは判んないんですけど。でも、あれってすごく一生懸命な感じがして、」

「………………」

「氷を割って進む船あるじゃないですか。あんな感じで、すごく魅力的で、」

「………………」

 花莉はハッと顔を上げた。黄金の瞳がまん丸になっているのに気付いたのだろう。彼は慌てて手を振った。

「……あっ、ごめんなさい! 今のなし! 先輩悩んでるのに……」

 あたふたと、無意味に立ち上がったりまた座ったりしている花莉を見て、黄金は堪えきれずに笑った。

「……ふふっ、あはは。いや……何か、俺、狭い世界で悩んでんだなって」

 ひとしきり笑った黄金は、ベッドに身体を起こした。

「砕氷船のこと言ってるんでしょう? 確かにあれは格好いいよね」

 黄金の脳裏に、真っ白な氷の海を進む大型船が思い浮かんだ。

「——とにかく前に進むしかない。俺、頑張るからね」

「はい! 応援してます! それで……」

 花莉は、上目遣いに黄金をうかがった。

「県総体、オレも応援行って良いですか?」

 黄金は目をぱちくりとさせた。

「え? いや、それは誰でも入れるけど……」

「良かった。黄金先輩のカッコいいところ、いっぱい撮っちゃいますよ」

「…………えっと、予選落ちするかもしれないし、そんなにたくさんは、」

 急に腰が引けた黄金に、花莉はぐいと近づいた。

「先輩が一本走るだけで、撮りたい絵がいくらでも出てくるんですよ! 安心してください!」

 圧倒された黄金は、思わず苦笑した。

「……ふふふ、そうなんだ。じゃあ、大丈夫かな」

 黄金は自分の机のカレンダーを見た。県総体まであと三日。タイムは安定しないが、とにかく走り切ろう。黄金は頷き、拳を握りしめた。




——県総体、当日

「……ぱい……先輩、黄金先輩!」

 黄金がまぶたを持ち上げると、目の前には花莉の顔が迫っていた。

「お、はよ……」

「あー、良かった、起きた。今日、大会でしょう? 早く着替えて! 集合何時でしたか?」

「…………七時、半……?」

「もう七時過ぎてます! 遠征バスの中で食べられるようにバナナとおむすびもらってきますから! 先輩は顔洗って着替えて……こら、ベッドに戻ったらダメです!」

 黄金は温かいベッドから引き摺り出された。



 ぼんやりしている間に花莉に引っ張られ、校庭まで連行され、陸上部の手配したバスに押し込まれていた。かろうじて握らされたバナナは口にしたが、黄金の意識はあっという間に柔らかなバスのシートに沈んだ。
 次に目を開けるともう競技場に到着しており、隣に座った部員に必死に揺さぶられていた。

「あっ、部長! 小吹先輩、起きました!」

「お疲れ、研平(とぎひら)。おい、小吹。すぐアップしろ。今年はハードル出番早いぞ」

「…………はい……」

 寝起きの黄金にあれよあれよという間に、出番が近付いてくる。ユニフォーム、よし。ゼッケン、よし。他校の出場者に混ざってトラック脇に待機している間も、まだ半分夢の中にいるような心地だった。

「黄葉学園高等部二年、小吹黄金くん」

 アナウンスで名を呼ばれ、漠然と一礼する。あちこちでいろんな種目が同時進行している上、観客席もグラウンドをぐるりと取り囲んでいる。黄金の視線はウロウロと定まらなかった。

(どこかに花莉くんが……)

 見つけきれないうちに、スタート位置を案内される。

「On your marks(位置について)」

 アナウンスにしたがって、スターティングブロックに足をのせる。トラックに両手をつくと、温かいを通り越して暑かった。まだ午前中だというのに、初夏の日差しは強烈だ。

(雨よりはマシだけど……)

「Set(用意)」

 思考を強制的に中断され、黄金は腰を上げた。この時ばかりは雑念にとらわれている余裕はない。ピストルの音を聞き漏らさないよう、目の前だけを睨んで集中した。

——パン!

 軽い音と共にブロックを蹴り、思い切り飛び出す。トラックを蹴る周りの選手の足音が耳についた。
 気付けばあっという間に一台目のハードル。姿勢低く、足を伸ばして。着地も決まる。見える範囲には他の選手はいない。リードできている。
 二台目、三台目、四台目——

(あれ、でも、なんか……)

 後半に入ると、黄金の足がもつれ始めた。ガツンと抜き足が七台目にぶつかる感覚。着地が乱れる、ますます歩幅が合わない、どんどん抜かされる。

(おかしい。水の中みたいに、身体が、思うように動かない)

 ——ガタン。

(また引っかけた、かも、もうわからない。とにかく進め、一歩ずつ、進め……)

 ゴールに辿り着く。腿を押さえて息を整えた。

(着順は、タイムは……)

 電光掲示板を凝視する。予選最終組をまだ残した段階なのに、既に黄金は予選通過に届かない順位にいた。

 コンディション的にもそりゃそうだ、という気持ちと。あれ、なんで、いつの間に抜かされたんだろう……という気持ちと。黄金が呆然と佇んでいると、部長の瀬知が駆け寄ってきた。

「お疲れ、」
 トン、と背中叩かれた黄金は、はたと悟った。

——予選敗退。

(終わっちゃったんだ……)

 実感した黄金は、唇を噛んで俯いた。


 汗をぬぐい、ジャージを羽織り、競技場から外に出る。黄金の足元は何だかふわふわとして、競技中の続きのように現実味がなかった。
 頭の中も同様で、色んな方向の思考がぐるぐると回って定まらない。調子戻り切らなかったし——やっぱりそうだよな、でも、悔しい——なんで……去年はもっと走れたのに——

「黄金先輩っ!」

 思考の渦を切り裂くように、元気の良い声が降ってきた。黄金が頭を上げると、花莉が手を振りながら走ってきて……目の前でけつまずいた。

「おっと、危ない」

 出会った時と同じように、黄金が花莉を抱き留めた。——相変わらず綺麗な髪。黄金はどこか場違いにそんなことを思った。いつまでも離れない花莉に、黄金は僅かに身じろぎした。

「ちょっと、花莉くん、気をつけて。あとさ……離れてくれる? 俺、試合直後で、汗めっちゃかいてるし……」

「先輩! 今日もめちゃくちゃ綺麗な走りでした!」

 顔を上げた花莉の瞳は、いつも以上にキラキラ輝いていた。黄金は戸惑って瞬きをする。

「……え? ……いや、せっかく応援してくれたのに、あんな情けない結果で……」

 花莉はブンブンと髪を揺らして首を振った。

「スタートダッシュの瞬間も、一台目に飛び込んだ時の姿勢も、六台目に足引っかかった瞬間の顔も、八台目薙ぎ倒した時の大腿四頭筋も、ゴールした瞬間の腕の振り抜きの角度も、何もかも綺麗だったんです!」

 一拍おいて、黄金は吹き出した。

「…………ふふっ、何そのマニアックな視点。でも……ありがとう」

 黄金はまだ腕の中にいる花莉に、そっと身を寄せた。悔しさも、情けなさも、安らぎも、少しの照れも。全部まとめて、花莉の小さな背中と一緒に抱きしめた。



 
 黄金と花莉は一緒に客席に向かった。

「こっちです、先輩」

 花莉が陣取っていたのは、ハードルのコースの真ん前だった。

「こんな所に居たんだね。見えなかった」

「へへへ、先輩を撮りにきましたからね。ハードルどこでやるか、係の人に聞いちゃいました」

 花莉は照れたように頬を染めた。黄金も視線を逸らす。自分を見に来たとはっきり言われ、嬉しかったが同じくらいに恥ずかしかった。
 ふたりで並んで座り、他の部員を応援する。しばらく声援を送っていたが、黄金は花莉が全く写真を撮っていないことに気付いた。

「花莉くん、見て、あの甲樹学院の三年生。去年100メートルで優勝した人だよ。相変わらず綺麗なフォームだな。……ねぇ、撮らないの?」

「え? 何でですか?」

 花莉は不思議そうに黄金を見た。黄金も花莉を見つめ返す。

「いや、綺麗なもの撮るの好きなんだろ?」

「……?」

 花莉はしばし沈黙した。あちこちから聞こえる声援の中、二人は無言で見つめ合う。花莉がふっと視線を逸らす。

「……オレは黄金先輩の走り方の方が綺麗だと思いますよ?」

「……?」

 小さな声で言われたその言葉の意味がすぐには判らず、今度は黄金が黙った。じわじわと理解が追いつき、黄金の耳は真っ赤になった。

(100メートル県代表のフォームより、俺の方が綺麗だと言いたい……のか……?)

 黄金は俯き、ギュッとジャージの裾を握った。喉元に熱くわだかまっているのがどんな感情の結果なのか、黄金自身にもまだ判らなかった。
 花莉もしばらく沈黙していた。そんな彼が、ふと身を乗り出した。

「あ、あれ研平(とぎひら)だ」

 黄金は花莉の視線の先を辿り、自分と同じ、黄葉学園のモスグリーンのユニフォームを着た一年生を認めた。

「高跳びの研平か。知り合い?」

「はい、同じクラスで。……一応、撮っといてあげよう」

 花莉はカメラを構えた。レンズを回してピントを合わせる仕草は真剣だったが、どうにもノリが軽い。

「……一応とは?」

 花莉は集中しているのか、応えない。黄金は肩をすくめた。

(俺の時と何かテンション違うな……)

 漠然と不審に思いつつ、黄金も研平に声援を送った。




 ハードルの本戦が始まると、黄金は食い入るようにして選手の走りを見つめた。
 ため息をこぼした黄金に、花莉が反応する。

「……参考になるフォームがあったら、写真撮っときましょうか? どの人が良さげです?」

 黄金の視線はウロウロと揺れた。

「そうだな……体型的には鍬里(くわさと)の深山くん、かな……あのオレンジのユニフォームの子だよ」

 花莉は勢いよく頷いた。カメラのレンズをトラックに向ける。

「お任せください!」

 記録を花莉に任せ、黄金自身は深山の走りを凝視した。軽やかな足運び、安定したストライド。あんな風に走れたら……。
 次々とゴールしていく選手たちを見て、黄金は唇を噛んだ。

(次のチャンスは秋のシーズン。それまでに、俺ももっと安定しなきゃ)

 黄金はそっと拳を握りしめ、決意を新たにした。