「花莉くん、ただいま……あ、寝ちゃってる」
シャワーから戻った黄金は、机に伏せて眠っている花莉を見て笑った。花莉は気に入った写真を数葉、ポラロイド風に現像していた。余白に撮影日時や場所のメモを書き込む途中で、寝落ちしてしまったのだろう。机の上には写真とペンが散らばっていた。
「あ、オオミズアオだ」
黄金は一葉の写真をつまみ上げた。
『5月20日、午後5時30分、グラウンド脇の桜で“月の女神”を見つけた』
やや角ばった癖のある字で、メモが書いてある。黄金は写真を机に戻し、そっと花莉の背中と膝下に腕を回した。小柄な花莉の身体は、難なく持ち上がる。
「だから、先に寝てて良いって言ってるのにな」
『お風呂上がりの先輩にも、写真見せてあげますからね!』
先にシャワーを終え、そう意気込んでいた花莉を思い出してクスリと笑う。彼のその言葉は、今のところほぼ実現していなかった。花莉をベッドに押し込み、布団をかけてやる。
「おやすみ、花莉くん」
声をかけてから、部屋の電気を落とす。自分の机のライトだけをつけ、黄金は机に向かった。教科書と参考書を積んでノートを開く。午前中に聞き漏らした授業の復習をするためだ。
自分でも効率の悪いことをしていると思う。しかし、朝はどうしても頭が働かず、起きていられないのだ。
——コンコン
控えめなノックの音がして、
「消灯確認、」
という言葉と共に、カチャリとドアが開いた。
「——黄金クン、やっぱり起きてる」
顔を覗かせたのは夜空だった。
「見逃して、副寮長補佐」
黄金が笑うと、夜空は肩をすくめた。
「数学のノート、いる?」
「助かる」
黄金が笑うと、夜空は部屋に滑り込んできた。
「はい、ノート。明日の授業までに返してよ?」
「遅刻しないよう、頑張る」
黄金はノートを受け取ると、本立てから一冊の本を取った。
「これもありがとう。結構、予想外のラストで面白かったな」
「……今度、続編貸してあげる」
「マジで? 楽しみ。俺も何か貸してあげたいけど……」
夜空は黄金の本立てをチラと見て、わずかに口角を上げた。
「陸上の本ばっか増えてる。部活、頑張ってるんだ」
「うん、県大会も近いからね。でも……」
黄金は言い淀んで視線を落とす。夜空は首を傾げた。
「うまくいかないの?」
黄金はコク、と頷いた。夜空は反対側に首を傾げた。
「入学した時は、黄金クンもボクらとあんまり身長変わらなかったのにね。急に体型変わると、色々大変なんでしょ? クラムジーっていうんだっけ。本で読んだことある」
「よく知ってるね。さすが、読書家」
黄金は、目を細めて夜空を見た。
「中学の時にも、一気に伸びた時期あったんだけど。まさか高校入って、また急に伸びるとは思ってなくて。確かに戸惑ってるかも」
「そっか、」
夜空は深入りはせず、短い相槌を打った。黄金はため息をついて続けた。
「焦らず基礎を固めるしかないって分かってはいるんだけど、どうしてもね」
黄金は、椅子の上で長い足を抱え込んだ。
「クラムジー自体は、成長期なら珍しくもないかもだけどさ。でも高校入ってまで悩んでるの俺くらいだよ。みんなは安定して記録伸ばしてきてるのに」
ついに、黄金は顔を伏せてしまった。
「ハードルは競技人口自体が少ないから、地区大会は何とか抜けられたけど。でもこのままじゃ、県大会はボロボロ確定だ」
「……去年は、一年生なのに県大会入賞してたっけ」
夜空は、不器用に黄金の肩に手を置いた。
「出来てたことが出来なくなるのは、きっともどかしいよね」
「うん……」
黄金は顔を上げて笑った。
「まぁ、県大会まであと二週間あるし。もうちょい調整頑張ってみるよ」
夜空も表情を緩めた。
「そう。でもとにかく体調は安定させないと。出来るだけ早く寝てね」
「……善処します」
また俯いてしまった黄金に、夜空は肩をすくめる。そのまま手を振るとそっと部屋を出て、静かに扉を閉めた。
ひとりになった黄金はため息をひとつつき、夜空に借りたノートを机に広げる。サラサラとシャープペンシルを走らせていると、背後からは健やかな寝息が聞こえてきた。あれだけ夜空と話していたのに、花莉の眠りはびくともしない。漠然と心強く思った黄金は、思わず振り向いた。花莉は枕を抱くようにして、うつ伏せに眠っている。
「ふふっ、可愛い寝相」
小さく笑った黄金の表情は、少しだけ柔らかくなった。
——数日後
部活の居残り練習を終えた黄金が寮に戻ると、談話室が騒がしかった。何事かとのぞいてみると、周囲より頭ひとつ抜けた巨体が、笑顔で振り返った。
「お、小吹が帰ってきたか」
「青堂先輩! お久しぶりです」
元ルームメイトの青堂の姿に、黄金は表情を緩めて駆け寄った。
「久しぶり。……何かまたちょっと背が伸びたか? 小吹がここまでデカくなるなんて、思わなかったなぁ」
黄金は曖昧に笑って見せた。
「先輩こそ、何か身体一回り大きくなってません?」
「うん。大学でも柔道続けてるからな。身体作りもしてるよ」
近くの椅子に座った黄金に、青堂はニヤリと笑いかけた。
「で、お前は朝ちゃんと起きれてるか?」
「………………」
黄金が黙って視線を逸らす。その反応に、向かいに座っていた若葉がクスクス笑った。
「まぁ、なんとか遅刻は回避してます。な、黄金」
「……おかげ、さまで」
「鐘文一号が起こしてるのか?」
青堂の疑問に、若葉は軽く首を振った。
「僕が起こす日もあるけど、基本はルームメイトが。ね、花莉くん」
青堂の視線が小柄な一年生に移る。姿勢を正した花莉が、勢いよく頷いた。
「はい! 三日に一度は失敗して布団にされてますけど、頑張ってます!」
「布団に……される……?」
青堂は首を捻る。黄金の方を訝しげに見たが、黄金は視線を合わせないように努めた。花莉が不思議そうに言う。
「あれ……青堂先輩は、お布団にされたことないんですか?」
「花莉くん……」
黄金は小声で制しようとしたが、時すでに遅かった。
「布団にされるって、具体的にどういう状態だ?」
「え? こう、ベッドに引きずり込まれて、上に乗っかって、ぎゅうって抱き締められて………………」
客観的に言葉にしてみると、余りにも生々しい。花莉もそのことに気付いたらしく、顔を真っ赤にして俯いてしまった。黄金も、顔から火が出そうな思いだ。青堂はふたりの顔を見比べて何かを悟ったらしく、わざとらしく咳払いをした。
「と、とにかく、今は君が小吹を起こしてるんだな。大変だろう」
「はい……。あ、オレ青堂先輩に訊いてみたいことがあって、」
花莉は元気を取り戻した。
「先輩は一年間、黄金先輩を起こしてたんですよね。何かコツとかあったら教えてください!」
「コツと言うか何と言うか……」
青堂が黄金を見た。黄金は嫌な予感がして腰を浮かせたが、それよりも青堂の太い腕が伸びてくる方が早かった。
「こうやって、抱えて、」
「う、うわあ……!」
「担いで食堂まで連れて行ってた。どんどんデカくなるから、いいウエイトになってたよ」
青堂はカラッと笑った。一方、俵担ぎにされた黄金はバタバタと暴れた。
「お、降ろして、下さい……」
「え、すごい。黄金先輩のデカさでも持ち上がるんだ……」
呆然としている花莉に、若葉は苦笑する。
「あれは青堂先輩だからできるんだよ。真似しちゃダメだよ、花莉くん」
「いや、オレにはどう考えても無理ですよ」
「お、身体が小さくても、使い方次第だぞ。柔道やるか?」
すかさず花莉をスカウトし始めた青堂に、談話室には笑いが漏れた。笑う余裕がないのは黄金ひとり。
「あの、誰か、助けて……」
青堂の肩の上で弱々しく呟いたが、残念ながらその声は誰にも届かなかった。
「そうか、タイムが落ちてるのか……」
青堂は、黄金の話を聞いて眉を寄せた。黄金も頷き、サラダにフォークを伸ばす。
「先輩、お肉も食べなきゃダメです」
花莉がそっと皿を押し出す。その甲斐甲斐しい様子に頬を緩め、青堂は黄金に視線を戻した。
元寮長の青堂は首尾よく寮監に許可を取っていたらしく、夕食も一緒にとっていた。『念の為、三人前頼んだ』という夕食の定食セットを、もりもり平らげながら後輩たちの近況を聞いている。
「ハードルは、身体操作が複雑そうだもんな。背が伸びて、身体のバランスが変わったせいか?」
「多分、そうです」
青堂は腕組みした。
「背の伸び具合は、体重管理と違ってコントロールなんて出来ない。時間をかけて、慣れるしかないな」
「はい。……でもそれじゃ、県大会に間に合わない」
黄金は俯いた。青堂は気遣わしげに首を傾げた。
「高校時代は三年しかない。焦るのはよくわかるが……。でも、人生ってもっとずっと長いんだ。大学入って、俺はそう思ったよ」
青堂の言葉に、黄金は顔を上げた。
「俺は柔道続けてるけど、ガチガチに稽古する体育会も、緩く楽しむサークル活動も、どっちも良さがあるって思った。競技を引退しても、こうやって大人になっても、長く趣味として楽しむ道ってあるんだなって」
黄金と青堂は二歳しか違わないのに。ぐっと大人びた意見を聞いた気がして、黄金は目を見開いた。
それはその通りだ、と黄金も思った。人生全体で考えれば、今の悩みは限定的なものなんだろう。
(確かに、来年になればもう、解決してるのかもしれない。それでも、俺は……)
「青堂先輩の言うことはわかります。でも、」
黄金は拳を握りしめた。
「俺は、もう少しもがいてみます。来週、やっぱり結果が欲しいんです!」
青堂は目を見張った。そして、優しく微笑んだ。
「……そうか。じゃあ、頑張れよ」
「黄金先輩……」
「なあに、花莉くん」
シャワーの準備をしていた花莉が声をかけてきた。机についていた黄金が振り向くと、花莉はやけに難しい顔をしていた。
「先輩、あんなに綺麗に早く走れるのに……スランプ中だったんですか?」
「ああ……うん。去年より1秒以上遅くなってる。身体も技術も伸びる時期だから、本当ならもっと速くなってないといけないんだ」
「そうだったんだ」
花莉は肩を落とした。
「オレ、いっぱい先輩の写真撮ってたのに、全然わかってなかったな……」
「え? そんなに撮ってたの?」
黄金が目を丸くすると、花莉は慌てて手を振った。
「い、いえ! そんなには!」
「……よかったら見せて?」
「えっ?」
黄金に請われた花莉は、僅かに後ずさった。
「ここ数日どんどんタイム落ちてて……何かヒントになるかもしれない」
「え、いや……」
花莉はオロオロした。
「陸上部の人たちも、練習中に動画撮ってますよね? あっち見た方が……」
「いや、お前はもうハードル跳ぶなって部長に言われて、」
黄金は俯いた。
「ひとりで居残りしてる時は、うまく撮れないし。頼むよ、花莉くん」
「せ、先輩の、役に立つなら……」
花莉はオドオドとカメラを差し出した。
「……………………」
「す、すみません……」
「いや、ありがたいけど……ものすごい枚数撮ってたんだ……」
カメラロールを確認した黄金は苦笑した。そこにはたくさんの自分の姿があった。
「あ、じゃ、じゃあ……オレ、シャワー行ってきます、ので、ごゆっくり……」
そそくさと部屋を出た花莉を見送り、黄金は花莉のカメラを握りしめた。
(最初に写真撮られたのが、5月20日……いや、待って。これ、4月の写真だ……)
その写真の中で、黄金は真剣な顔をして正面を見据えていた。黄昏の光の中、前髪をなびかせ、前傾姿勢を保ち、抜き足をしっかりと引き付けてハードルを超える瞬間が映っている。黄金は知らず、そっと拳を握りしめていた。
黄金が気付くよりずっと前から、花莉は自分を見つめてくれていた——。それは決して不快な感情ではなく、どこか胸の内が温かくなるような感覚だった。
