眩しい黄金色の光と、心地よく重い温かな布団。幸せな気持ちで瞼を持ち上げた黄金は、目の前でツヤツヤの黒髪が揺れているのを見て仰天した。
「うわっ、は、花莉くん……⁉︎」
「ん……黄金先輩、おはよ、ございます」
自分が花莉を抱き締めている事に気付き、黄金はそろそろと腕を離した。
「ごめん、また布団にしてたんだ……」
「三日に一度は掛け布団やってます。もう、慣れましたよ」
クスクス笑いながら花莉がぴょん、とベッドから降りる。
「そろそろ食堂しまっちゃいます。急ぎましょう!」
花莉は、自然に黄金の手を引いた。寝起きで動きの鈍い黄金は、引きずられるように部屋を出る。
食堂に辿り着いても、黄金がぼーっと座っていると、目の前にフォークがのびてきた。
「はい、先輩。あーん、」
反射のように口を開けると、甘く柔らかな果実が放り込まれた。
「むぐ、バナナ……」
花莉は、自分もモグモグとバナナを咀嚼しながら笑った。
「取り敢えず、朝はバナナ食べときゃ何とかなるって、母親に言われてました」
「ま、まあ、そうなのかな」
「オレ、小さい頃から朝早起きすぎて、母親が起きられなくて。取り敢えず食べとけって、バナナだけはいっぱい置いてあったんですよ」
あっという間に一本食べ終わり、花莉が二本目に手を伸ばすのを、黄金は見守った。
「先輩は少食ですね」
黄金はサラダだけが乗った自分のプレートに視線を落とした。
「朝は……特に食欲なくて」
「夕食でも、野菜ばっか食べてるイメージですよ」
自分はりんごに取り掛かりながら、花莉が容赦なく指摘する。
「葉っぱが好きなんだ」
「それでよくそんなデカくなりましたね。羨ましいなぁ」
花莉こそ、その小さな身体にどれだけ詰め込むのか、と黄金は思ったが、口には出さなかった。小さくため息をつく。
「今日も朝練、間に合わなかったな」
「朝練どころか始業もギリです。急いで、黄金先輩!」
ごくん、とりんごを飲み込んだ花莉は、いつまでもレタスを噛み締めている黄金の腕を引き、洗面所へと連行した。
花莉のやや強引なエスコートのおかげで、黄金は何とか一時間目に間に合った。が、教師が背中を向け、黒板にながながと公式を書き始めると、あっという間に船を漕ぎ始める。
(やば……眠い。まだ、一時間目、なのに……)
何とか耐えようと姿勢を正すが、睡魔には抗い難く、気付けば机に伏せて寝息を立てていた。
「……ちょっと、黄金クン」
前の席に座っている夜空が振り返り、遠慮がちに黄金の頭をつついた。
「ん……なに……」
「こら、小吹、」
担任の白須が、トン、と黄金の机を叩いた。弾かれたように身を起こした黄金は、顔を赤らめ俯いた。
「すみません……」
周囲からはクスクス笑いが漏れた。
「小吹、また居眠りしてる」
「朝練も全然出てこないよな」
白須は振り向きもせずに注意をした。
「そこ、私語しない。はい、次の公式行くぞ」
黄金は俯いたまま、慌てて教科書をめくった。
放課後、黄金は部室でジャージに着替え、念入りに準備運動をする。そうして、走り込みをした後はまたグラウンドの端で、黙々と柔軟や筋トレに励んだ。
「小吹、トラック使えるぞ」
しばらくすると、陸上部部長の瀬知が声をかけてくる。
「ありがとうございます」
念入りに股関節をほぐした黄金は、靴紐を締め直してグラウンドへ出た。
目の前には十台のハードル。黄金の専門はハードル走だった。ストップウォッチを持った瀬知に頷いて見せ、深呼吸をしてから地面を蹴る。
一台目までの加速が、その後のリズムを左右する。黄金はギュッと唇を引き結び、大きなストライドを保ってハードルに突っ込んだ。
長い足がしなやかに伸び、軽々とハードルを超える。勢いを殺さず、定石通りにハードルとハードルのインターバルは三歩で抜ける。また踏み切り、着地、三歩目で踏み切り。流れるようなフォームで走る黄金は、目の前の白いハードルに集中した。
しかし、勢いのまま八台のハードルを超えた辺りから、黄金のフォームはぎこちなくなった。ストライドが大きくなりすぎたのを狭めようとして、リズミカルだった動きが崩れる。背が伸びて長くなった脚に、まだ黄金自身の感覚が追いついていなかった。結果、歩幅を調整しきれずに、踏み切りがハードルの手前ギリギリになる。黄金のリード足はハードルを超えられずに接触した。
ガチャン、と九台目のハードルを倒した黄金の着地は乱れ、バタバタとしたフォームのまま十台目も倒す。そのままゴールまで走り抜けた黄金は、息を切らして膝に手をついた。
「……16秒03。後半の失速が痛いな。疲れた?」
瀬知の言葉に首を振り、黄金は汗を拭った。
「いや、歩幅が、合わなくなって、」
「お前、また背が伸びたもんな。……ハードルはインターバルが決まってるからキツイな」
黄金は俯き、倒したハードルを起こしにトラックを逆走した。
「おつかれさまでした!」
部員たちが挨拶を交わし、バラバラと部室に戻っていく。夕焼けに照らされたグラウンドで、黄金はひとり、ハードルの前に佇んでいた。瀬知が後ろから声をかける。
「小吹は今日も居残り?」
黄金は振り返った。
「はい、朝練参加してないし」
「……じゃ、部室の鍵頼むわ」
黄金は受け取った鍵をヒップポケットにしまった。そして息を吐き、ハードルに向かって駆け出した。
去年から10センチ近く伸びた、183センチの身体。ハードルをまたぐには有利なはずの身長。しかし今の黄金は、スピードに乗れば乗るほど次のハードルが目の前に迫ってくる。快感だったハードリングが、まるで逃げ場のない檻に囚われたようでもどかしい。スピードを殺さないように、でも歩幅が余らないように。どう走ればいいのか、自分の身体なのに全く正解が分からない。
——ガチャン、
またしてもハードルに接触してバランスを崩し、ついに黄金は転倒した。
(怪我しては元も子もない……。ハードルはここまでにして、走り込みしよう)
ため息をついて立ち上がり、ノロノロとハードルを片付ける。夕陽を浴びてトラックに落ちる、長い長い影を引きずりながら歩いていると、
「黄金せんぱーい!」
と、名前を呼ばれた。
校舎の方を見ると、花莉が伸び上がって手を振っている。彼の胸元でカメラのレンズが光っていた。
「花莉くん、」
黄金は片付けを中断し、ルームメイトの元へ足を運ぶ。花莉の方もパタパタと駆け寄ってきた。キラキラと光る瞳は、夕陽を受けて淡く緑がかって見える。
「先輩、お疲れさま……うわっ!」
「おっと、」
勢いよくつまずいた花莉を、黄金は慌てて抱き止めた。胸元にゴツンとカメラが当たった黄金の鼻先で、黒い髪の毛が揺れた。
「わっ、カ、カメラ……! ふぅ、良かった……」
「大丈夫、花莉くん?」
黄金が覗き込むと、花莉は弾かれたように身を離した。
「あ、ありがとうございます! オレ、また先輩に助けてもらっちゃった。カメラごとコケたらやばかったです」
大事げにカメラを撫でた花莉に、黄金は微笑んだ。
「また、撮ってたんだ。写真部入ったんだっけ」
「はい、夕方しか出てこない虫も居ますしね」
ニコニコとカメラを差し出した花莉が、いくつかの画像を小さな液晶に映して見せる。クローバーを登るナナホシテントウ、ショウリョウバッタが飛び跳ねた瞬間、松の木にしがみついた小さなハルゼミ、そして桜の枝にとまった美しいミントグリーンの蛾……
「へぇ、確かにハルゼミの声するなって思ってたけど。ねえ、これオオミズアオ? すごい、学内に居るんだ」
黄金が目を見張ると、花莉が得たりと頷いた。
「そうなんですよ! 桜が多いからもしかして、と思って狙ってたんです! 今日、初めて近くで撮れて嬉しくて……って黄金先輩、意外と虫に詳しいですね?」
花莉は目をぱちくりとさせている。黄金は苦笑した。
「俺も虫、結構好きでさ。中2で一気に背が伸びて、スカウトされてハードル始めたんだけど、元々は生物部だったんだ」
「そうなんだ……」
「オオミズアオ、まだ撮ってる? 見ても良い?」
「いいですけど…………あ、」
黄金の指が画面をスクロールしていると、幻想的な蛾の写真に混じって、夕陽をバックに走る自分の姿が液晶に映し出された。
「………………え?」
「えっと、これは、その……」
カメラを奪い取った花莉が俯いた。耳の先がほんのり赤くなっている。
「オオミズアオって、別名『月の女神』って呼ばれる綺麗な虫じゃないですか。すらっと羽が長くて、優雅で。やっぱ綺麗だなって思って、夢中でシャッター切ってて——で、グラウンド振り返ったら、黄金先輩がめっちゃ綺麗なフォームで走ってて、手も足もすんなり長くて、真剣な顔して、それで、なんか流れで、ほら、綺麗なものって撮っときたくなるじゃないですか……」
焦ってしどろもどろに喋りまくる花莉に、黄金は堪えられず笑い出した。
「ははっ、何それ。俺のこと、虫みたいだと思って写真撮ってたの?」
「いや、虫みたいっていうか、綺麗って思ったっていうか……」
小声で弁明した花莉の言葉は、笑っている黄金には届かなかった。花莉はカメラを抱きしめて、深く頭を下げた。
「勝手に撮ってごめんなさい。先輩が嫌なら、データも消すし……」
「別に良いよ」
「え?」
黄金はまだクスクス笑いながら、軽く首を傾げた。
「花莉くんが撮りたいなら撮って良いよ。虫みたいに、撮り甲斐のある被写体じゃなくて悪いけどね」
ぱっと顔を上げた花莉は、なぜだが真っ赤になっていた。
「いいんですか⁉︎ オレ、先輩のことじゃんじゃん撮っちゃうかもしれませんけど、」
「いいよ。あ、生態が気になるからと言って、風呂やトイレはちょっと困るけど……」
黄金が顎に手を当てて考えていると、花莉はぶんぶんと首を振った。
「そんなことしませんよ! オレを何だと思ってるんですか!」
「え? 虫マニアの昆虫カメラマン」
「それは、そう、だけど……」
なぜだかガックリした様子の花莉に、黄金はひらひらと手を振った。
「じゃあ、俺もう少し走ってから寮に帰るから。若葉が俺が帰寮してないって怒ってたら、夕食までには絶対帰るって伝えといてね」
「あ、黄金先輩……」
何か言いさした花莉に背を向けて、黄金はグラウンドを走り出した。思い切り腕を振って、足を前に前に出す。どんどん加速して風を切っていくのが気持ち良い。
(歩幅考えなくて良いのって、マジで開放感あるな。……でも、これじゃハードルやってる意味がない)
考えながらグラウンドを一周していると、まだ佇んでいる花莉がカメラを構え、レンズを光らせているのが見えた。
(何だろう、この感じ……。あ、あれかな、夜に光ってる灯台みたいだ)
ひとりで走っているのに、何も問題は解決していないのに。それでも、視線の先に花莉のカメラがあると思うと、なぜだか黄金の頬は緩んだ。
