花莉と黄金 〜黄昏に君が落ちてきた!〜


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——五年後

 ネクタイを緩めた黄金は大きなため息をついて、マンションのエレベーターのボタンを押した。ずっしりと重いバッグを肩に掛け直し、回数表示を見つめる。ひとつ大きな山場を超えて、一刻も早く家に帰りたかった。

「ただいま」

 ドアを開けると、ぱたぱたと軽い足音が鳴った。

「おかえりなさい!」

 グレーのパイル地の部屋着を着た花莉が飛び出して来た。靴を脱ぎながら、器用に恋人の身体を抱きとめて、黄金は花莉の頬に軽いキスをした。

「どうだった? 教育実習」

「大変だったけど、楽しかったよ。学園もあんま変わってなかったし」

 黄金の言葉を聞きながら、花莉は顎に指をかけた。

「オレも今度行ってみようかな」

「いいね。文化祭にでも合わせて行ってみる?」

 スーツを脱いで、ベージュのスウェットに着替えた黄金に、花莉はビールの缶を手渡した。

「すぐご飯あっためるから。先に飲んでて」

「いいよ、待つよ」

「いいから! 黄金は疲れてるでしょ」

 強引な恋人に苦笑して、黄金は缶のプルタブを開けた。
 黄金は教育学部の四年生、花莉は専門学校を出て駆け出しのカメラマンになっていた。ひと足先に社会人になったことで、花莉の世話焼きは加速したように思う。甲斐甲斐しく食事の準備をする花莉を、黄金は目を細めて見つめていた。
 ふたりで食卓に向かい合って食事をする。黄金は好物の野菜サラダを口に運び、満足げなため息をこぼした。

「ふう、やっと実習終わった。これでまた夜走れるな」

 黄金がそう言うと、花莉が肩をすくめた。

「実習中は、さすがにそんな余裕なかったもんね。指導案?っていうやつ? ずっと書いてたよね」

「そうだね……ほんとに教師になったら、あれ毎回書くんだよな、大丈夫かな……」

 黄金の空気が澱み始めたのを察したのか、花莉はくるりと話題を変えた。

「ねぇ、これ見て!」

 子供向けの科学雑誌を、黄金に渡す。黄金がパラパラとページをめくっていると、花莉の指が差し込まれた。

「ここ! 見て!」

「おお、すごいじゃん」

 『身の回りの虫』と題されたコーナーには、いくつかの昆虫の写真が載っている。ページの横に小さく『写真/城手花莉』とクレジットされているのを見て、黄金は瞳を輝かせた。

「オレの写真、気に入ってもらえたみたいで。虫以外の写真も見せて欲しいって」

「やったじゃん!」

 黄金は花莉の頭をワシワシと撫でた。花莉は何故かもじもじしている。

「それでね……」

 花莉はチラチラと時計を気にしていた。黄金は頷く。

「大丈夫、覚えてるよ。今夜、満月の写真撮るんだろ? 科学雑誌なら持ち込みのチャンスにもなる」

 黄金が水を向けると、花莉は首をすくめた。

「でも、黄金は実習明けで疲れてるし……」

 黄金はウインクしてみせた。

「夜更かしは任せなさい。撮影の間くらい、起きてられるよ」

「じゃあ、食べてお風呂入ったら、ベランダに来てくれる?」

「うん、」

 黄金が力強く頷くと、花莉はホッとしたように笑った。




 ムーングラスをつけたカメラを満月に向け、花莉はあっという間に健やかに寝息を立て始めた。黄金は苦笑しつつ、ファインダーをのぞいてみた。肉眼ではただの円盤に見える月なのに、ズームすると無数のクレーターが目に入る。

「花莉、花莉! このままで良いの?」

 ベランダに持ち出したスツールに座って、花莉は居眠りをしている。黄金は彼の身体を何度かゆすった。花莉が目を覚まさないので、黄金は試しに何度かシャッターを押してみた。小気味良い音がするが、残念ながらこれで良いのかは判らない。

「はーなーりー!」

 耳元で名を呼んで、鼻をつまむ。ここ数年の同棲生活で見つけた必勝技だ。花莉の瞳がうっすらと開く。

「おーきーてー! これ、どうするの?」

「んー、待って……設定、する」

 ノロノロと動き始めた花莉を、黄金は目を細めて見守った。

「これで……二時間……待ち、ます……」

 あっという間に眠りの世界に戻って行った花莉。黄金は彼の額にキスをして、黒髪を撫でた。花莉の髪の毛には月光が落ち、銀砂のように艶めいていた。

「おやすみ。二時間後に起こしてあげるね」

 花莉は唇を動かし、わずかに微笑んだ。黄金は彼にそっと毛布をかけ、月光浴を楽しもうとコーヒーカップに口をつけた。


*


 花莉がベランダの植物に水やりをしていると、ガラリと掃き出し窓が開いた。ぼんやりと目を擦りながら、寝巻き姿の黄金が立っている。

「おはよう、黄金」

「花莉、おはよ……」

 成長期が終わって心身が安定して来たのか、黄金は学生時代よりは随分と早起きできるようになった。

「コーヒー落としてるよ」

「ん……ありがと」

 朝は相変わらず苦手だが、それでも起き出して花莉と過ごそうとしている。ゆらゆらと長身を揺らして心許なく歩く姿も、舌足らずになる喋り方も、朝の黄金の様子を花莉は心から愛おしく思っていた。
 花莉が部屋に戻ると、黄金は長い足を折りたたみ、ソファに小さくなって座っていた。湯気の立つマグカップがふたつ、机の上に並んでいる。

「オレのも入れてくれたんだね。ありがとう」

「ん……」

 黄金は黄色いカップ、花莉は淡いグレーのカップ。それぞれ自分のカップを持って、香ばしい香りを楽しんだ。やがて、こてん、と黄金の頭が花莉の肩に乗る。じっとしていると小さな寝息が聞こえてきた。

「ふふ、おやすみ」

 黄金のカップを取り上げ、花莉は年上の恋人の頭を撫でた。
——少し寝かせて、その間にホットケーキでも焼こうかな。しっかりと卵を吸わせた、ふわふわのフレンチトーストでも良いかもな。

「起きたらブランチだよ、黄金」

 鼻の頭を指の先でつつくと、黄金はくすぐったそうに頬を緩める。花莉は黄金の頬にキスをした。


 朝の静かなリビングには、明るい光と、コーヒーの香りと、甘やかな空気が流れている。微笑んだ花莉は黄金の耳元で囁いた。

「大丈夫。オレがちゃんと起こしてあげるからね」