花莉と黄金 〜黄昏に君が落ちてきた!〜

 黄金(こがね)の目の前には無数のハードルが並んでいた。腿を上げて、腕を振って、三歩のインターバルですすむ。リード足を伸ばして踏み切り、ハードルを超える。何度も繰り返して、身体に馴染んだ動きのはずなのに。
 まるで、水の中にでもいるようだった。足を上げたつもりがついてこない。バーに爪先がかかって、バランスが崩れる。
 ハードルを倒しても倒しても、ゴールが見えてこない。前に伸ばした右足に続き、胴に引き寄せた左足までも、バーにひどくぶつかった。

——倒れる! 黄金は転倒に備え、必死に身体を丸めた。


 はっと目を開けると、実際に何かがお腹の上に乗っかって、黄金の動きを制限していた。見下ろすと、ツヤツヤの黒髪が光っている。白い小さな顔が目を閉じていて、まだ幼さを残す頬にまつ毛の影を落としていた。

「…………え? 何? この子……誰だっけ?」

 自分が小柄な少年を抱き締めて眠っていたことに気付き、黄金の脳内は大パニックになった。フリーズした黄金の腕の中で、黒髪の少年がゆっくりと瞳を開く。

「あ……おはようございます、黄金先輩」

 彼が微笑み、自分の名を呼ぶ。その明るい響きに、黄金は一気に記憶を手繰り寄せた。
 昨日の夕暮れに、彼——城手花莉(しろてはなり)が、腕の中に落ちてきた時のことを。

*

 無数のハードルに阻まれいつまで経ってもゴールできない、いつもの悪夢。うなされていた黄金がハッと目覚めると、視界は一面黄金色に染まっていた。不穏な灰色の世界は消え、辺りは柔らかな光に満ちている。

「……あ、やば……。今、何時……?」

 眩しさに半分しか開かない目で、黄金(こがね)は枕元の時計を見る。

「うそ……もう、四時、過ぎてる……?」

 柔らかな茶色の髪を揺らし、黄金はパタン、と再度枕にダイブした。うらうらと春の夕暮れの光が差し込む寮のベッドで、大きなため息をつく。

(寝起きが悪いにも程があるだろう、俺——)

 もともと夜型の生活スタイルではあった。それが、高校生になって寮に入ってから、ますます悪化した。
 去年のルームメイトは、当時三年生の青堂(あおどう)だった。彼は毎朝黄金を起こして、食堂まで引っ張って行ってくれた。三月に彼が卒業して以来、黄金は束の間の一人部屋となっている。その、春休みの生活リズムは散々だった。

(早く、次のルームメイト来てくれないかな。新一年生か……朝が強い子だとありがたいんだけど)

 黄金はぼんやりそんなことを考えてから、ガバリと布団から起き上がった。勉強机の上のカレンダーを確認する。そこには、『四月四日、新入生入寮』と書き込んであった。

「やばっ、ルームメイト来るの今日じゃん!」

 寝起きでもつれる足を叱咤して、黄金はベッドから降りた。そして、可能な限り素早く、顔を洗いに洗面所に向かった。




 黄金は身支度をしてから慌てて寮の談話室に駆け込んだ。しかし、ルームメイトはまだ着いていなかった。ほとんどの一年生はもう到着している。それぞれのルームメイトとなる上級生や、同学年となる新入生と話していた。入寮時刻は午後一時から五時までの間。もう、四時半をまわっている。

「遅いな。どこかで迷っているのかも」

 少し心配になり、黄金は寮の玄関まで様子を見に出てみた。入り口のドアの向こうでは、春の夕暮れの空気の中で、桜の花がほころびかけていた。
 やがて、ト、ト、ト、と軽い足音が聞こえ、寮のアプローチを走ってくる小柄な人影が見えた。黄金が玄関のドアを開けて待っていると、入り口の石階段につまずいた男の子が、目の前で転びかけた。

「うわっ、」

「おっと、危ない」

 手を伸ばした黄金は、咄嗟に彼を抱き留めた。何とか間に合い、怪我をさせずに済んだようだ。腕が長くて良かった、とほっとする。まだ線の細い少年の身体が、高めの体温を伝えてくる。黄金は何故かどぎまぎとして、彼の顔を覗き込もうとした。
 腕の中では黒髪がうごめいている。ツヤツヤの綺麗な髪を黄金が羨ましく見ていると、ひょっこりと小さな顔が見上げてきた。

「あ……すみません。オレ、すぐ転んじゃうんで……えっと、時間ギリギリになっちゃったけど、504号室ってどこですか?」

 その言葉に、黄金は思わず頬を緩めた。周りからおっとり笑顔だと言われる、きゅっと目尻が下がった顔になる。

「それ、俺の部屋だよ。俺は二年の小吹黄金(こぶきこがね)。よろしくね、新しいルームメイトくん」​​​​​​​​​​​​​​​​

 黒髪の一年生は驚いた顔をした。

「あっ、よ、よろしくお願いします。オレは城手花莉(しろてはなり)です。えっと、小吹先輩……」

「黄金でいいよ。どうしたの、花莉くん?」

 花莉は何故だか、顔を真っ赤にしている。

「あの、えっと……こ、黄金先輩、そろそろ離して、もらえると、助かります……」

 俯いてしまった彼を見て、黄金は自分がまだしっかりと花莉を抱きしめていることに気付いた。慌ててばっ、と身を離す。

「ご、ごめんね。転んだら大変だって思って、つい……」

「いえ……ありがとう、ございます。えっと、先輩、腕長いし、結構筋肉すごいんですね……あっ、いやっ、変な意味じゃなくて!」

「そ、そうかな。陸上部だから……かな」

 ふたりはぎこちなく微笑み合い、ポツポツと会話しながら寮の部屋に向かった。



「取り敢えず荷物置いて、談話室に戻ろう。五時から歓迎パーティだよ」

 珍しげにキョロキョロと寮の部屋を観察している花莉に、黄金は声をかけた。花莉は慌てて頷き、ボストンバッグとリュックを床に置いた。

「パーティって……オレ、この服で大丈夫ですか?」

 不安げにいう花莉が、黄金には可愛らしく見えた。腕を広げた花莉は、黒のダメージジーンズにスタッズのついた革ジャンというパンク少年っぽい服装をしている。寮では私服OKなので、黄金は頷いた。

「もちろん。ただの歓迎会なんだから、好きな服着てればいいよ」

 花莉はおずおずと黄金を見上げた。その指先は、シルバーの星モチーフのヘアピンをいじっている。

「黄金先輩は、ラフな服着ててもきまってますね。背が高いからかな、羨ましい」

「きまってるかは分かんないけど……ありがとう」

 黄金は慌てて自分の服を見下ろした。ベージュのネルシャツに、アイボリーのコーデュロイパンツ。寝坊してバタバタ着替えたので、正直自分が何を着ているか意識していなかった。取り敢えず後輩に馬鹿にされるような服は着ていなかったようで、ほっとする。
 黄金は花莉の背中を押して、部屋を出た。鍵をかける手元を花莉が覗き込む。彼の頭は、黄金の口元あたりにあった。この感じだと、165センチくらいだろうか? と黄金は当たりをつけてみた。
 確かに黄金は背が高い。身長183センチは陸上部の中でも大柄な方だ。

(——それを全然活かせていないのが、問題なんだ)
 
 ため息を飲み込んだ黄金は、花莉に笑いかけた。

「じゃ、行こうか。にぎやかだけどびっくりしないでね」




 黄葉(おうよう)学園高等部の寮談話室は、アットホームな雰囲気だ。食堂から持ち込んだ長机には軽食やジュースが並び、『入学おめでとう』と書かれた横断幕がかかっている。そこここですでに寮生が談笑している。緑がかった髪の少年が、黄金たちに気付いて手を上げた。

「あ、黄金来たね。同室の……城手くんだっけ、こっちにどうぞ」

 他の新入生と同じ、真ん中のテーブルに誘われた花莉は、さっそくジュースのコップを配られている。緑髪の少年が、パンパン、と手を叩いた。

「それでは寮生が全員揃ったので、新入生歓迎パーティを始めるよ。僕は今年度寮長を勤めます、二年生の鐘文若葉(かねふみわかば)です。一年生たち、よろしくね」

 にっこりと笑った若葉は感じがよく、明るく朗らかで優等生然としている。その隣に、赤髪の少年が寄ってきた。若葉と全く同じ顔をしているのに、印象がパッと鮮やかだ。

「で、オレが副寮長の鐘文緋色(かねふみひいろ)です。若葉の弟だよ。ひーくんって呼んでね♡」

 ファンサよろしくあちこちにピースサインをして見せる緋色に、若葉は苦笑していた。

「で、すぐにわかると思うんだけど、一応紹介しとくね。あっちの隅っこで気配を消してるのが、一番下の弟の夜空。僕たち三つ子なんだ。だから、同じ顔が三人いてもびっくりしないでね」

 新入生の視線が一斉に談話室の隅に集まる。そこにちんまりと座っていた黒髪の少年が、更に身を縮めた。

「鐘文夜空(かねふみよぞら)です」

 辛うじて蚊の鳴くような声で挨拶した夜空は、眼鏡の奥の瞳をさっと伏せた。恥ずかしがり屋な雰囲気を察し、みな視線を外す。若葉と緋色が場をとりなすように笑顔を作った。緋色が元気よくコップを掲げて見せた。

「それでは、寮長が乾杯の音頭をとりまーす」

 若葉も頷き、腕を伸ばす。

「はい、僭越ながら。入学おめでとう、進級おめでとう。かんぱーい」

「かんぱい」

 あちこちでコップがカツン、と当たる。黄金は周囲の寮生と乾杯をした後、りんごジュースを握りしめて花莉のもとへと向かった。

「入学おめでとう、花莉くん」

「ありがとうございます、黄金先輩」

 ルームメイトになったふたりは、カチリ、とプラスチックのコップを鳴らした。




 黄金と花莉は、食事をしながら周囲の学生と話していた。すると、ポン、と花莉の肩を叩いた人物がいる。サラリ、と長めに整えた赤い髪が揺れた。

「やっほー、花莉くん、だっけ。はなりんって呼んでも良い? オレのことは、ひーくんって呼んでよ」

「え? はなりん? ひーくん……先輩?」

 初手から距離感の近い緋色に、黄金は眉を寄せた。

「緋色、いきなり絡むなよ。花莉くん困ってるだろ」

「えー、だって仲良くなりたいんだもん。ねぇ、はなりん、その革ジャンいいね。どこのブランド?」

 今日の緋色は、ルーズなデザインの白いニットを着ていた。ボトムはスカート付きの赤いパンツ。花莉はパッと顔を輝かせ、緋色の顔を見た。

「そうですよね! 古着屋で見つけて、お年玉はたいたんです。ここのスタッズが……」

 パンクファッション好きのふたりは話が合うらしい。盛り上がるふたりを交互に見て、黄金はほっと胸を撫で下ろした。

(緋色は押しが強いから心配したけど、気が合うみたいで良かったな。花莉くんも楽しそう)

 花莉は熱心に語ったかと思うと、照れたように目を伏せる。黄金がふたりの会話を聞きながらも、くるくると変わる花莉の表情に目を奪われていると、緋色の口角が悪戯っぽく上がった。

「こがねん、そんな後方彼氏……おっと失礼、先輩ぶっていられるのも今のうちだからねー。明日からは若葉が、新学期モードでビシバシスパルタで行くって言ってたよ」

「あ……うん、ごめん」

 黄金は思わずしゅんとしてしまった。花莉は、不思議そうに黄金を見る。緋色は、花莉にも歪んだ笑顔を見せた。

「はなりん、朝弱い?」

 花莉は首をひねった。

「オレですか? いえ、どっちかっていうとかなり朝型です」

「じゃあ、迷惑にはならないかな。明日の朝、ちょっと若葉が様子見に行くけど気にしないでねー。うちの寮の風物詩みたいなもんだから」

「は、はぁ……」

 説明を求めるように花莉が黄金を見たが、黄金は目を伏せて沈黙を守った。

「ふふっ、明日になったらわかるよ」

 緋色が喉の奥で笑いながら、思わせぶりにそう言った。