ラブレターの差出人は、同じクラスの『姫』だった。

 ——しょき、しょき。

 薄く艶がかった細めの直毛に、鋏を入れて切り揃えていく。
 言われた通りに無言で鏡を見つめる勇助に、初は『独り言』を語りはじめた。

「覚える必要もないけど、関西圏でしか活動してない『デクスマキナ』っていうお笑いコンビがいて。その片割れの、姫嶋(もとい)って奴が、オレの血縁上の父親」

 物心がつく前から、初の父と母は離婚していた。
 離婚の原因は父の不倫。地方局の深夜番組での共演をきっかけにアナウンサーである現在の妻にアプローチを掛けられ、そちらに鞍替えしたのだ。
 初は母と東京で二人暮らしをしていたらしい(・・・)が、離婚後の面会交流で例の火傷を見つけた父が裁判を起こし、親権が母から父へと移った。そうして、初は父と後妻の三人で五年ほど大阪にほど近い京都で過ごしたが、後妻の妊娠によって"お役御免"となり、多摩響市内で理容室を営む父方の祖父に預けられることになった。
 祖父は、自分が初を養子にするから、金輪際初の前に姿を見せるなと、息子である父に激怒した。父はこれに同意し、再び初を手放した。

「引き取られた当時は、荒みまくってたけど。
 じーちゃんがいてくれたから……じーちゃんが、オレの父親になってくれたから。
 オレは道を踏み間違えずに、陸上に打ち込むことができた」

 初の祖父は、時に厳しく、時に優しく、親代わりとなって初を育ててくれた。陸上に本格的に取り組むよう勧めてくれたのも、橿古井高校への受験を進言してくれたのも、すべて祖父だった。
 橿古井高校は祖父の出身校でもあった。いつか母校のユニフォームを着た初が、インハイの全国大会でトラックを駆ける姿を見るのが夢だと、何度も語っていた。
 しかし祖父は、初が高校入学を目前に控えた三月に、急性心不全で息を引き取った。
 突然、唯一の家族との別れを突きつけられた初は茫然自失状態になった。そこに現れたのが、祖父の旧知の友人であり、理容室の顧客でもあった、初もよく知る一人の弁護士だった。
 祖父は最悪の事態を見越していたのか、公正遺言証書を遺していた。難しいことはよくわからないが、弁護士が初の後見人となって祖父の遺産の整理を行い、現在は初の生活に係る費用の一切を管理してくれている。
 児童相談所と弁護士による定期的な現況調査はあるが、そのおかげで初は今も祖父と過ごしたマンションで一人暮らしを続けられている。
 しかし高校入学から程なくして、見知らぬ番号から電話が入った。
 不審に思いながらも出ると、その相手は父だった。
 父は祖父の死を聞きつけ、『京都に戻ってこい』と初に迫った。当然拒否したが、父は様々な番号から初に電話を掛けてきた。一度電話番号を変えてみたが、どこから聞き出したのか、再び着信がひっきりなしに入るようになった。
 父は甘い言葉を並べ立てたが、以前に弁護士から父と後妻の間に生まれた男子に発達障害の嫌疑があるという話を聞いていた。いわゆる健常児である初を、今更ながら彼の代わりにしようとする思惑が透けて見えた。
 一度、強い口調できっぱり断ると、父は初にこう言った。

『姫嶋初って、"姫初め"みたいな名前やな。
 お前のおかんは、何を考えてこんなけったいな名前付けたんやろな』

「……大っ嫌いや。父も母もあの女も、下品な名前も、関西弁が直りきらねえこの口も……。
 ぜんぶぜんぶ、けったくそわるい……」

 初は(はな)をすすると、鋏をバスタブの隅に置き、勇助の首周りに付いた毛髪をブラシで払いながら言った。

「つまんねー話聞かせて悪かったな。
 これでおしまいだ。勇助。こんな感じでいいか?」

 無言で頷いた勇助の目から、涙が流れ落ちるのが鏡越しに見えた。

「ありがとうございます。

 ……すみません。髪の毛が目に、入ってしまって……」

 静かな浴室の中。勇助が目元を拭う動作をやめるまで、初は勇助の後頭部を丁寧にブラシで払い続けた。