麗らかで、ちょっと強めの風が吹き渡る四月の朝。
二年一組の教室の扉を開けて「おはようございます」と声を掛けると、それに気付いた二、三人が「おはよ」と返事をくれた。
私立橿古井高校は、高めの偏差値と緩めの校則が地味に人気の男子校で、東京都下の多摩響市にある。
鈴木勇助はそこに通う、至って平凡……どころか地味で冴えない、典型的な三軍男子だ。
学校での成績は上の中、運動に至っては下の下の下。
そんな勇助にとって唯一の自慢は、亡き母が付けてくれた自分自身の名前だ。
『困っている人が目の前にいたら、迷わず助けられる勇気を持った子に育ちますように』
すべての人を助けることはできないが、身近な人が困っていたら、迷わずこの手を差し伸べる。
だって自分は、『勇助』なのだから。
勇助は中学から使い続けているヨレヨレのスクールリュックを机の上に置くと、窓際に飾られたトルコキキョウの花瓶を持って、手洗い場へと向かった。
勇助が花瓶の水換えを終えた直後、背後から柔らかなテノールボイスが響く。
「おはよう、勇助君。
昨日蕾だったトルコキキョウ、花が咲いたんだね」
振り返ると、右肩に通学鞄を携えた背の高い美男子が優しく微笑んでいた。
淡いセピア色のストレートヘアが朝の光を含み、艶やかな天使の輪を形作っている。
「桜慈くん、おはよう。
……ほんとだ。一番上の蕾、いつのまにか咲きましたね。今気付きました」
『桜慈くん』こと鈴木桜慈は、おとぎ話の王子様のように爽やかで端正なルックスの持ち主で、『王子』『プリンス』と呼ばれている。おまけにスポーツ万能で、試験は常に学年トップ。六月から生徒会長を務めることも決まっており、誰もが認める橿古井高校きっての『王子様』だ。
にわかに信じ難いが、勇助はその『王子様』とクラスで一番仲が良い。
入学時も同じクラスかつ席が前後で、前の席にいた桜慈が後ろを向いて、
『同じ"鈴木"同士だね。
勇助君、って呼んでもいいかな?』
と声を掛けてくれたのがきっかけで、言葉を交わすようになった。
進級後も新しいクラスに慣れていないこともあって、在校時間のほとんどを桜慈と一緒に過ごしている。
未だにクラス一、いや学校一の人気者である桜慈が、地味で影の薄い自分と親しくしてくれているのが不思議だが、それは彼が"桜を慈しむ"という名の通り、穏やかで優しく、慈愛に満ちた人格者であるからだと勇助は思っている。
彼の祖父がこの学校の理事長らしいので、その指示で……なのかもしれないが、仮にそうだとしても、こうして気に掛けてくれるのは有り難い。
「勇助君の丁寧なお世話の賜物だね。
それより、濡れたままの手を拭きなよ。
花瓶は俺が持つから、一緒に教室に戻ろう」
「ありがとう、桜慈くん」
一緒に教室へ向かう途中、桜慈の鞄から勇助の足元になにかが落ちた。
「あ、拾いますね」
「すまない、助かるよ」
それは、先ほど勇助が桜慈の靴箱に入れ直した、ラブレターと思しき手紙だった。
「これ……」
「ああ……ありがとう」
桜慈はわずかに顔を強張らせると、勇助から手紙を受け取った。
——よかった、ちゃんと桜慈くんの手に渡って。
非の打ち所がないせいか、桜慈は異常なまでにモテる。通学中の女学生や在校生の姉妹などから頻繁にラブレターを貰っているようだが、それとは別に——ここは男子校だが、在校生本人達から貰うことも珍しくない。
しかし、桜慈は毎回なにかと理由をつけて断っているようなのだ。先日も五組の『姫』が振られてしまったらしく、廊下で号泣する彼を友人達が慰める姿を見かけた。
かくして、誤配と落下の危機を乗り越えたあの手紙に、桜慈はどのような返事をするのだろう。
完全に余計なお世話だとわかりつつ、勇助は差出人の想いが報われることを願って、教室の扉を再び開けた。
ホームルームの鐘が鳴ると、担任である中年男性教師の「席に着け〜」という声とともに、ぱらぱらと生徒が着席した。
ふと、勇助は左隣に座る"ラブレターの差出人"に視線を向けた。
姫嶋初——二年一組の『姫』。
烟るようなピンク色に染めたマッシュウルフの髪を四月の風に靡かせ、学ランの下には真っ赤なオーバーサイズのパーカーを重ねている。いささか派手で異質な服装を着こなせてしまうのは、彼が同学年に四人ほどいる『姫』達の中でも、気位が高く無愛想だが抜群に美人だと一目置かれているからかもしれない。
初は左手で頬杖をついて足を組み、パーカーの袖でほぼ隠れた右手を振り子のように揺らしながら、担任の話を退屈そうに聞いている。
長い睫毛に縁取られた吊り目がちで大きな瞳は、眠たげに担任へと向けられていた。が、勇助の視線に気付いたのか、ばちっと目が合った。
——大丈夫。ラブレターは、ちゃんと桜慈くんが受け取りましたから!
心の中でサムズアップをしながら勇助がにっこり微笑むと、初は眠気が飛んだように両目を瞬き、ふいっと視線を逸らした。
いきなり笑い掛けてしまったから、気味が悪かったのだろうか。
恐らく伝わらないだろうが、勇助は初の横顔に「ごめんなさい」と念じて、黒板に向き直った。
二年一組の教室の扉を開けて「おはようございます」と声を掛けると、それに気付いた二、三人が「おはよ」と返事をくれた。
私立橿古井高校は、高めの偏差値と緩めの校則が地味に人気の男子校で、東京都下の多摩響市にある。
鈴木勇助はそこに通う、至って平凡……どころか地味で冴えない、典型的な三軍男子だ。
学校での成績は上の中、運動に至っては下の下の下。
そんな勇助にとって唯一の自慢は、亡き母が付けてくれた自分自身の名前だ。
『困っている人が目の前にいたら、迷わず助けられる勇気を持った子に育ちますように』
すべての人を助けることはできないが、身近な人が困っていたら、迷わずこの手を差し伸べる。
だって自分は、『勇助』なのだから。
勇助は中学から使い続けているヨレヨレのスクールリュックを机の上に置くと、窓際に飾られたトルコキキョウの花瓶を持って、手洗い場へと向かった。
勇助が花瓶の水換えを終えた直後、背後から柔らかなテノールボイスが響く。
「おはよう、勇助君。
昨日蕾だったトルコキキョウ、花が咲いたんだね」
振り返ると、右肩に通学鞄を携えた背の高い美男子が優しく微笑んでいた。
淡いセピア色のストレートヘアが朝の光を含み、艶やかな天使の輪を形作っている。
「桜慈くん、おはよう。
……ほんとだ。一番上の蕾、いつのまにか咲きましたね。今気付きました」
『桜慈くん』こと鈴木桜慈は、おとぎ話の王子様のように爽やかで端正なルックスの持ち主で、『王子』『プリンス』と呼ばれている。おまけにスポーツ万能で、試験は常に学年トップ。六月から生徒会長を務めることも決まっており、誰もが認める橿古井高校きっての『王子様』だ。
にわかに信じ難いが、勇助はその『王子様』とクラスで一番仲が良い。
入学時も同じクラスかつ席が前後で、前の席にいた桜慈が後ろを向いて、
『同じ"鈴木"同士だね。
勇助君、って呼んでもいいかな?』
と声を掛けてくれたのがきっかけで、言葉を交わすようになった。
進級後も新しいクラスに慣れていないこともあって、在校時間のほとんどを桜慈と一緒に過ごしている。
未だにクラス一、いや学校一の人気者である桜慈が、地味で影の薄い自分と親しくしてくれているのが不思議だが、それは彼が"桜を慈しむ"という名の通り、穏やかで優しく、慈愛に満ちた人格者であるからだと勇助は思っている。
彼の祖父がこの学校の理事長らしいので、その指示で……なのかもしれないが、仮にそうだとしても、こうして気に掛けてくれるのは有り難い。
「勇助君の丁寧なお世話の賜物だね。
それより、濡れたままの手を拭きなよ。
花瓶は俺が持つから、一緒に教室に戻ろう」
「ありがとう、桜慈くん」
一緒に教室へ向かう途中、桜慈の鞄から勇助の足元になにかが落ちた。
「あ、拾いますね」
「すまない、助かるよ」
それは、先ほど勇助が桜慈の靴箱に入れ直した、ラブレターと思しき手紙だった。
「これ……」
「ああ……ありがとう」
桜慈はわずかに顔を強張らせると、勇助から手紙を受け取った。
——よかった、ちゃんと桜慈くんの手に渡って。
非の打ち所がないせいか、桜慈は異常なまでにモテる。通学中の女学生や在校生の姉妹などから頻繁にラブレターを貰っているようだが、それとは別に——ここは男子校だが、在校生本人達から貰うことも珍しくない。
しかし、桜慈は毎回なにかと理由をつけて断っているようなのだ。先日も五組の『姫』が振られてしまったらしく、廊下で号泣する彼を友人達が慰める姿を見かけた。
かくして、誤配と落下の危機を乗り越えたあの手紙に、桜慈はどのような返事をするのだろう。
完全に余計なお世話だとわかりつつ、勇助は差出人の想いが報われることを願って、教室の扉を再び開けた。
ホームルームの鐘が鳴ると、担任である中年男性教師の「席に着け〜」という声とともに、ぱらぱらと生徒が着席した。
ふと、勇助は左隣に座る"ラブレターの差出人"に視線を向けた。
姫嶋初——二年一組の『姫』。
烟るようなピンク色に染めたマッシュウルフの髪を四月の風に靡かせ、学ランの下には真っ赤なオーバーサイズのパーカーを重ねている。いささか派手で異質な服装を着こなせてしまうのは、彼が同学年に四人ほどいる『姫』達の中でも、気位が高く無愛想だが抜群に美人だと一目置かれているからかもしれない。
初は左手で頬杖をついて足を組み、パーカーの袖でほぼ隠れた右手を振り子のように揺らしながら、担任の話を退屈そうに聞いている。
長い睫毛に縁取られた吊り目がちで大きな瞳は、眠たげに担任へと向けられていた。が、勇助の視線に気付いたのか、ばちっと目が合った。
——大丈夫。ラブレターは、ちゃんと桜慈くんが受け取りましたから!
心の中でサムズアップをしながら勇助がにっこり微笑むと、初は眠気が飛んだように両目を瞬き、ふいっと視線を逸らした。
いきなり笑い掛けてしまったから、気味が悪かったのだろうか。
恐らく伝わらないだろうが、勇助は初の横顔に「ごめんなさい」と念じて、黒板に向き直った。

