夏休みの課題はできるだけ早めに終わらせたいから、自習室を借りたい。家ではスマホやお菓子なんかの誘惑が多くて、あんまり集中できないし。
俺の通っている塾は駅前のビルに入っている。そこまで自転車で漕いでいって、建物近くの駐輪場に止めた。
小腹が空いたから、近くのコンビニでパンを適当に買っていく。学校の近所にある激安のうどん屋もいいけど、人の多い場所で食事するガッツが今日はない。
ラウンジの椅子に座って食べていると、見慣れた顔が手を振りながら近づいてきた。
手を振り返すと、彼のメガネの分厚いレンズがぴかりと光る。
「梶原くんじゃん」
「三浦くん、やっほ」
梶原くんは、去年同じクラスだった同級生だ。理系選択ながら文芸部に入っていて、文学作品へ一家言のある情熱の人だ。ちょっと面倒臭い時もあるけど、それはつまり、やる気の裏返し。
「珍しく遅かったね」
梶原くんの言葉に、俺は苦笑いを浮かべた。
「生物部に行ってたから」
「あれ。三浦くん、幽霊部員だったよね。ずっと行ってなかったじゃん」
「部室の掃除があるって言われてさ。それだったら、文系でもできるから……」
今、「文系」を自虐的なニュアンスで使ってしまったかもしれない。ほんの少しうつむいてしまったけど、梶原くんは気にせず「そっか」と俺の前の席に座った。
「『生物部に入ってはいるけど、幽霊部員だから』って開き直って、文芸部に入り浸ってくれたから、俺としては楽しかったんだけど」
「それはね、ちょっと反省してるんだ」
意味もなく両手を挙げて、降参のポーズをとる。
そう? と梶原くんは首を傾げた。
「うん」
頷く。兄さんに頼まれて入っただけとはいっても、いろいろと不誠実だった。うちの高校は兼部を許可していないから、というのはあったとしてもだ。
梶原くんはまだちょっと納得していないのか、「うーん」と唸る。
「三浦くんが生物部に入ったのって、お兄さんに言われたからだろ。じゃあ、活動にまで付き合う義理ってないじゃん」
「付き合う義理っていうか……まあ、そういう見方もある」
「それより俺は、三浦くんの才能が浪費されていることの方が許せないね」
梶原くんのスイッチが入った。俺は首をすくめて「ありがとう」と小さな声で言った。梶原くんはメガネをかちゃりとかけ直す。
「ありがとうじゃない。三浦くん……いや、新月くんの小説は本当に面白いのに、それをうちの部誌へ載せられないなんてもったいないと常々言ってる」
「俺のペンネームをでかい声で言わないで」
「ごめん。でもさ、あの筆力を放っておくのは我が校の損失なんだよ。特に入り組んだ心理描写が秀逸で」
「その話、もう五回は聞いてるかも」
「俺はまだ言い足りないから言う」
そこから始まる、説教みたいな俺への怒涛の褒め言葉。俺はただ「ありがとう」しか言えない。
こういうところが暑苦しくて、でも本音を言えば嬉しい。
だけど俺は梶原くんからこれだけのラブコールを受けておきながら、生物部をやめられなくて、だらだらと惰性で籍を貸し続けた。
それってやっぱり不誠実だなぁ、と改めて思う。
梶原くんは一通り語って満足したのか、「じゃあ帰る」と言って塾から出ていった。
手を振って見送る。パンを食べきって、俺はひとり自習室へ移動した。
課題を進めようと思って、ノートと参考書を広げて、シャーペンをノックした。
だけど、なぜか集中できない。ただシャーペンをノックして、芯をしまっての繰り返しだ。
ぼんやりと、今日あったことを考えている。頭の中で理太郎くんのいろんな表情や言葉を繰り返していた。
ていうかピラニアってなんだよ。なんでピラニアを飼いたいんだ、理太郎くん。
こんな調子じゃ、ここにいたって仕方ない。俺はため息をついて、荷物を片づけた。
塾を出て、真っすぐ家に帰った。
「ただいまー」
玄関を開けて、なんとなくの小声で言う。返事はない。靴を脱いであがると、リビングから笑い声が聞こえた。
ドアを開けると、パジャマ姿の父さんと母さん、それから兄さんがテーブルに座っていた。兄さんの手元には一枚の大きな紙がある。大手予備校の名前がでかでかと書いてあって、模試の結果だと遠目に見ても分かった。
「あら、おかえり朔。充がすごいのよ」
母さんが言う。俺が兄さんを見ると、兄さんは笑顔だった。だけど何を考えているかはよく分からない、人形みたいな笑顔だ。父さんは模試の紙を引き寄せて、しげしげと眺める。
「このままだったら、充は日本で一番頭のいい大学へ行けるんだなぁ」
日本で一番頭のいい大学って、言葉の響きが逆に馬鹿だな。俺は他人事みたいに思った。
実際、他人事だし。
それが表情に出ていたんだろうか。俺の顔を見て、母さんがとってつけたように言う。
「朔もがんばってるのは知ってるよ。今日も遅くまで勉強して、えらかったね」
「うん。まあ」
俺は曖昧に濁して、「風呂入ってもいい?」と話題を変えた。
兄さんは「お先にどうぞ」とひらひら手を振る。
「じゃあ、入らせてもらう」
部屋に戻ろうとすると、「パジャマは洗濯したから脱衣所に置いてあるわよ」と母さんが教えてくれた。
「ありがと」
軽くそう言って、荷物を自分の部屋へ置きに戻った。
俺は恵まれている。父さんはときどき冗談めかして「さすがに二人とも私大に行って、一人暮らしされるときつい」と言うけど、塾へ通わせてくれているし、兄さんはたぶん国公立の大学へ行く。俺はたぶん、どの進路を選んでも、何も言われないはずだ。
パジャマだって、こうして洗濯してもらえる。食事代だって渡してもらっている。不自由なんて何もない。
これ以上を望むのはわがままだって分かってる。
だけど兄さんと俺へかけられる期待の差をまざまざと実感して、どうにも胸の辺りが重たい。
どうにもならないわけじゃないけど、もどかしくて唇を噛んだ。
ふとスマホの画面が光って、震える。チャットアプリの通知だ。
ロックを外すと、理太郎くんからの個チャが来ていた。送られてきたのは、夕方に言っていたDNAストラップの作り方の動画だ。
探してくれたんだ。その心遣いに、胸がじわじわと温かくなる。冷房で冷えたはずの身体が、ほんのりと熱くなった。
「……理太郎くんって、本当にいい人だな」
それで、ちょっと変で、面白い。
俺の通っている塾は駅前のビルに入っている。そこまで自転車で漕いでいって、建物近くの駐輪場に止めた。
小腹が空いたから、近くのコンビニでパンを適当に買っていく。学校の近所にある激安のうどん屋もいいけど、人の多い場所で食事するガッツが今日はない。
ラウンジの椅子に座って食べていると、見慣れた顔が手を振りながら近づいてきた。
手を振り返すと、彼のメガネの分厚いレンズがぴかりと光る。
「梶原くんじゃん」
「三浦くん、やっほ」
梶原くんは、去年同じクラスだった同級生だ。理系選択ながら文芸部に入っていて、文学作品へ一家言のある情熱の人だ。ちょっと面倒臭い時もあるけど、それはつまり、やる気の裏返し。
「珍しく遅かったね」
梶原くんの言葉に、俺は苦笑いを浮かべた。
「生物部に行ってたから」
「あれ。三浦くん、幽霊部員だったよね。ずっと行ってなかったじゃん」
「部室の掃除があるって言われてさ。それだったら、文系でもできるから……」
今、「文系」を自虐的なニュアンスで使ってしまったかもしれない。ほんの少しうつむいてしまったけど、梶原くんは気にせず「そっか」と俺の前の席に座った。
「『生物部に入ってはいるけど、幽霊部員だから』って開き直って、文芸部に入り浸ってくれたから、俺としては楽しかったんだけど」
「それはね、ちょっと反省してるんだ」
意味もなく両手を挙げて、降参のポーズをとる。
そう? と梶原くんは首を傾げた。
「うん」
頷く。兄さんに頼まれて入っただけとはいっても、いろいろと不誠実だった。うちの高校は兼部を許可していないから、というのはあったとしてもだ。
梶原くんはまだちょっと納得していないのか、「うーん」と唸る。
「三浦くんが生物部に入ったのって、お兄さんに言われたからだろ。じゃあ、活動にまで付き合う義理ってないじゃん」
「付き合う義理っていうか……まあ、そういう見方もある」
「それより俺は、三浦くんの才能が浪費されていることの方が許せないね」
梶原くんのスイッチが入った。俺は首をすくめて「ありがとう」と小さな声で言った。梶原くんはメガネをかちゃりとかけ直す。
「ありがとうじゃない。三浦くん……いや、新月くんの小説は本当に面白いのに、それをうちの部誌へ載せられないなんてもったいないと常々言ってる」
「俺のペンネームをでかい声で言わないで」
「ごめん。でもさ、あの筆力を放っておくのは我が校の損失なんだよ。特に入り組んだ心理描写が秀逸で」
「その話、もう五回は聞いてるかも」
「俺はまだ言い足りないから言う」
そこから始まる、説教みたいな俺への怒涛の褒め言葉。俺はただ「ありがとう」しか言えない。
こういうところが暑苦しくて、でも本音を言えば嬉しい。
だけど俺は梶原くんからこれだけのラブコールを受けておきながら、生物部をやめられなくて、だらだらと惰性で籍を貸し続けた。
それってやっぱり不誠実だなぁ、と改めて思う。
梶原くんは一通り語って満足したのか、「じゃあ帰る」と言って塾から出ていった。
手を振って見送る。パンを食べきって、俺はひとり自習室へ移動した。
課題を進めようと思って、ノートと参考書を広げて、シャーペンをノックした。
だけど、なぜか集中できない。ただシャーペンをノックして、芯をしまっての繰り返しだ。
ぼんやりと、今日あったことを考えている。頭の中で理太郎くんのいろんな表情や言葉を繰り返していた。
ていうかピラニアってなんだよ。なんでピラニアを飼いたいんだ、理太郎くん。
こんな調子じゃ、ここにいたって仕方ない。俺はため息をついて、荷物を片づけた。
塾を出て、真っすぐ家に帰った。
「ただいまー」
玄関を開けて、なんとなくの小声で言う。返事はない。靴を脱いであがると、リビングから笑い声が聞こえた。
ドアを開けると、パジャマ姿の父さんと母さん、それから兄さんがテーブルに座っていた。兄さんの手元には一枚の大きな紙がある。大手予備校の名前がでかでかと書いてあって、模試の結果だと遠目に見ても分かった。
「あら、おかえり朔。充がすごいのよ」
母さんが言う。俺が兄さんを見ると、兄さんは笑顔だった。だけど何を考えているかはよく分からない、人形みたいな笑顔だ。父さんは模試の紙を引き寄せて、しげしげと眺める。
「このままだったら、充は日本で一番頭のいい大学へ行けるんだなぁ」
日本で一番頭のいい大学って、言葉の響きが逆に馬鹿だな。俺は他人事みたいに思った。
実際、他人事だし。
それが表情に出ていたんだろうか。俺の顔を見て、母さんがとってつけたように言う。
「朔もがんばってるのは知ってるよ。今日も遅くまで勉強して、えらかったね」
「うん。まあ」
俺は曖昧に濁して、「風呂入ってもいい?」と話題を変えた。
兄さんは「お先にどうぞ」とひらひら手を振る。
「じゃあ、入らせてもらう」
部屋に戻ろうとすると、「パジャマは洗濯したから脱衣所に置いてあるわよ」と母さんが教えてくれた。
「ありがと」
軽くそう言って、荷物を自分の部屋へ置きに戻った。
俺は恵まれている。父さんはときどき冗談めかして「さすがに二人とも私大に行って、一人暮らしされるときつい」と言うけど、塾へ通わせてくれているし、兄さんはたぶん国公立の大学へ行く。俺はたぶん、どの進路を選んでも、何も言われないはずだ。
パジャマだって、こうして洗濯してもらえる。食事代だって渡してもらっている。不自由なんて何もない。
これ以上を望むのはわがままだって分かってる。
だけど兄さんと俺へかけられる期待の差をまざまざと実感して、どうにも胸の辺りが重たい。
どうにもならないわけじゃないけど、もどかしくて唇を噛んだ。
ふとスマホの画面が光って、震える。チャットアプリの通知だ。
ロックを外すと、理太郎くんからの個チャが来ていた。送られてきたのは、夕方に言っていたDNAストラップの作り方の動画だ。
探してくれたんだ。その心遣いに、胸がじわじわと温かくなる。冷房で冷えたはずの身体が、ほんのりと熱くなった。
「……理太郎くんって、本当にいい人だな」
それで、ちょっと変で、面白い。


