人の数が、だんだん減っていく。やがて生物室には、俺と理太郎くんの二人だけになった。
やっと理太郎くんを振り向く。彼はほっとした顔でこちらを見ていた。
「お疲れ様」
そう言って、理太郎くんは白衣を脱ぐ。ふうと一息つく姿に、俺はいろんな気持ちがあった。
「あの……さっきは、ごめんね。勝手にいろいろ口出しして」
理太郎くんは目を丸くして、「ああ……」と呟いた。
視線はそらされてしまったけど、表情は柔らかい。
「情けないところを見せてしまった」
「ううん。そんなの、全然」
家族からの悪意のない発言がどれだけしんどいかは、俺も分かる。
だからあれくらいは全然迷惑とかじゃなくて、逆に俺の方が迷惑をかけてしまったんじゃ……。
「こちらこそ、余計なお世話を」
深々と頭を下げる。
理太郎くんは「朔くん」と慌てた声で言って、俺の顔をあげさせた。
「むしろ、僕がお礼を言うべきなんだ」
そうなんだろうか。首を傾げると、準備室のドアが開いた。焦った顔の太田先生が出てくる。
「悪い、担任クラスの方で忙しくて、こっちに全然顔を出せなかった。何もなかったか?」
理太郎くんはかすかに微笑んで、「はい」と頷いた。
「順調でした」
先生は「そうかそうか」と言って、ほっと肩の力を抜いたみたいだ。
ちょうどその時、文化祭終了のアナウンスが響く。先生は「片づけだな」と言って、俺たちへてきぱきと指示を飛ばした。
「ポスターや冊子類はまるめて部室へ置いておいてくれ。標本類も部室へ戻すこと。俺も手伝うから、はやく終わらせよう」
腕まくりをする先生と一緒に、生物室を片づける。
壁のあちこちへ貼っていたポスター類、展示した研究冊子。蝶の標本。
全部部室へおさめると、生物室はいつも通りの風景に戻った。あっけないくらいだ。
ふー、と息をついて、先生が伸びをする。
「じゃあ俺は、担任のクラスに戻るな。ここは鍵閉めするから、あとは自由解散だ」
生物室を追い出されて、理太郎くんと顔を合わせる。先生は忙しそうに階段を駆け下りていった。
「……帰る?」
俺がそう言うと、理太郎くんは穏やかに笑った。
「打ち上げ、するんだろう」
声が甘い。急に恥ずかしくなってうつむくと、理太郎くんの手が視界に入りこんできた。そっと俺の手を握ったから見上げると、その顔は真っ赤だ。
「……部室に行くのは、セーフだろうか」
グレーゾーンを探る理太郎くんに、グレーと言わずに「セーフだと思う」と返した。
二人で狭い部室へ入って、理太郎くんが後ろ手にドアを閉じる。
鍵なんてかけられない。なのに俺はたまらなくなって、理太郎くんへ飛びついていた。
理太郎くんは固まる。だけど俺はぎゅうぎゅうと抱きしめて、「がんばったね」と呟いていた。
だんだん、腕の中の大きな身体が固くなる。俺の背中におそるおそる腕が回って、抱きしめ返された。
制服越しなのに、お互いの心臓がうるさいくらい高鳴っているのが嫌ってくらい分かる。ぴったりと胸板が合わさって、それで余計にドキドキしているのかもしれない。
「……うれしかった」
理太郎くんの呟きに、俺は何のことなのかなんとなく察した。いやぁ……と言葉を濁す。
「こっちこそ、その……ご迷惑を。ご家族の前でとんだ醜態を……」
「あれが迷惑なわけあるか。醜態なんかでもない」
ただただ真剣な声だ。
俺はどうしたらいいのか分からなくて、理太郎くんの腕の中でへにゃへにゃになるしかない。
「そっか。じゃあ、よかった」
「ああ。よかった。俺を守ってくれて、ありがとう」
理太郎くんの大きな掌が頭に回って、抱え込まれる。
これは嬉しい。いいものだな。安心して、幸せだ。
うっとりしていると、身体が離れる。
奥の窓から差し込む光が、理太郎くんの顔を照らしていた。赤い光が黒々とした瞳を凛と輝かせている。
かっこいい。この人はさっき、俺が守った人だ。
でもそれだけじゃないよな。俺はそっと身体を離して、「理太郎くん」と話しかけた。
「文化祭まで、いろいろ、ありがとう。これからは……」
どうしようかちょっと悩む。だけど、言ってしまおうと思った。
俺の気持ちは、ちゃんと固まったんだから。
「……俺も、ちゃんと活動、やるよ。ば、ばいち? 作る」
理太郎くんの表情が、とたんにぱっと明るくなった。俺はしどろもどろになりながら「べ、別に」と続けた。
「これは恋人であるとか関係なくて。俺が抜けたら、生物部の人数が減って大変だから」
「ああ」
「だから本当に、理太郎くんのためとかじゃないから。……分かってる?」
「分かっている」
ただただニコニコしている理太郎くんは、本当に「分かって」いるんだろう。かなわない。
俺はため息をついて、理太郎くんの肩へくっついた。
「……文化祭、終わっちゃったなぁ」
理太郎くんはなんてことないように「ああ」と言って、でも迷うように目を伏せて唇を噛んだ。
ふと、指と指が触れる。そのまま指が絡まって、俺たちは手を繋いでいた。
大きな掌を、俺はためらいなく親指でさする。
「そろそろ、打ち上げ行く?」
囁くみたいに尋ねると、理太郎くんは首を横に振った。
「それよりはギリギリまで、ここにいたい。外ではこういうことが、できないから」
なんて熱烈なんだ。俺はうつむいて「そう」としか言えなかった。頬が熱い。
理太郎くんがちょっと笑って――初めて聞くようないじわるな、だけど優しい声で言う。
「顔が赤い」
おいおい、俺をこれ以上メロメロにしてどうする。
何も言葉が出てこなかった。二人で手を繋いで、ぼんやりと小さな窓から外を眺める。すっかり夕暮れ時で、雲が綺麗な赤色に染まっていた。青かった空は暗い色に澄んでいて、綺麗だ。
こんな綺麗なものを、この人と一緒に、たくさん見てみたいと思う。
「そういえば理太郎くんは、今もピラニアを飼いたいって思う?」
ふと思い出して尋ねると、理太郎くんは「どうだろう」と首を傾げた。
「率直に言うと、別に飼わなくてもいい。僕は自己投影の対象が、手元に欲しかっただけだから」
そうか。頷いて、理太郎くんを見上げて、続きを促した。
理太郎くんは微笑んで、ちょっとだけ俺に顔を寄せた。
「でも朔くんには誤解されても、逆に僕が誤解しても、それでいいと思った。だからもう、ピラニアは飼わなくていい」
「どういうこと?」
「僕はもう理想を追わなくてもいいと思った。朔くんが、現実の僕を認めようとしてくれているから」
顔がもっと近づく。
このままだと、キスしちゃうんじゃないか? 俺は焦るやらときめくやらで、「そんなの」と口を開いた。
「お、俺こそ。多分これからもたくさん誤解するし、逆もそうだけど、付き合うよ」
理太郎くんはほのかに笑った。その顔が綺麗で仕方なくて、俺は目を閉じた。
「えっ」
突然理太郎くんが突拍子もない声を出すから、目を開ける。顔が急に遠ざかって、理太郎くんはおろおろしていた。
「僕はまだ、そんなつもりは」
察した。はーん……と俺は半目になって、指を絡める。いじけたふりをした。
「俺とキスしちゃうって思ったんだ?」
「あ……うん……」
「だから逃げたんだ?」
「は、はい」
認め方がかわいい。俺は照れるやら、理太郎くんへの優越感やらで、ふんと鼻を鳴らした。
「別に、いつでもしていいのに」
いやさすがに、調子に乗りすぎ。ちょっと後悔していると、理太郎くんに肩を掴まれた。ぐるりと身体が回って、理太郎くんと向き合う。
「……本当に?」
掌の力強さと裏腹に、理太郎くんの声は頼りない。やっぱりかわいいなぁ、と思って、俺は笑って目を閉じた。
口の端に、ふにっと温かくて柔らかい感触があった。目を開けると、顔を真っ赤にした理太郎くんがいる。
「すまない。外した」
「スナイパーかよ」
俺は軽口を叩いて背伸びをした。俺からのキスは、ちゃんと唇へ当たった。
はー……と息をつく。理太郎くんを見上げると、真っ赤な顔で口をぱくぱくさせている。
この人が俺の恋人。そう思うと誇らしいような嬉しいような、変な気持ちだ。
「俺も、理太郎くんのことが、好きだよ」
そういえば、ちゃんと言っていなかった気がする。
俺がそう伝えると、理太郎くんは心底幸せそうに笑った。
やっと理太郎くんを振り向く。彼はほっとした顔でこちらを見ていた。
「お疲れ様」
そう言って、理太郎くんは白衣を脱ぐ。ふうと一息つく姿に、俺はいろんな気持ちがあった。
「あの……さっきは、ごめんね。勝手にいろいろ口出しして」
理太郎くんは目を丸くして、「ああ……」と呟いた。
視線はそらされてしまったけど、表情は柔らかい。
「情けないところを見せてしまった」
「ううん。そんなの、全然」
家族からの悪意のない発言がどれだけしんどいかは、俺も分かる。
だからあれくらいは全然迷惑とかじゃなくて、逆に俺の方が迷惑をかけてしまったんじゃ……。
「こちらこそ、余計なお世話を」
深々と頭を下げる。
理太郎くんは「朔くん」と慌てた声で言って、俺の顔をあげさせた。
「むしろ、僕がお礼を言うべきなんだ」
そうなんだろうか。首を傾げると、準備室のドアが開いた。焦った顔の太田先生が出てくる。
「悪い、担任クラスの方で忙しくて、こっちに全然顔を出せなかった。何もなかったか?」
理太郎くんはかすかに微笑んで、「はい」と頷いた。
「順調でした」
先生は「そうかそうか」と言って、ほっと肩の力を抜いたみたいだ。
ちょうどその時、文化祭終了のアナウンスが響く。先生は「片づけだな」と言って、俺たちへてきぱきと指示を飛ばした。
「ポスターや冊子類はまるめて部室へ置いておいてくれ。標本類も部室へ戻すこと。俺も手伝うから、はやく終わらせよう」
腕まくりをする先生と一緒に、生物室を片づける。
壁のあちこちへ貼っていたポスター類、展示した研究冊子。蝶の標本。
全部部室へおさめると、生物室はいつも通りの風景に戻った。あっけないくらいだ。
ふー、と息をついて、先生が伸びをする。
「じゃあ俺は、担任のクラスに戻るな。ここは鍵閉めするから、あとは自由解散だ」
生物室を追い出されて、理太郎くんと顔を合わせる。先生は忙しそうに階段を駆け下りていった。
「……帰る?」
俺がそう言うと、理太郎くんは穏やかに笑った。
「打ち上げ、するんだろう」
声が甘い。急に恥ずかしくなってうつむくと、理太郎くんの手が視界に入りこんできた。そっと俺の手を握ったから見上げると、その顔は真っ赤だ。
「……部室に行くのは、セーフだろうか」
グレーゾーンを探る理太郎くんに、グレーと言わずに「セーフだと思う」と返した。
二人で狭い部室へ入って、理太郎くんが後ろ手にドアを閉じる。
鍵なんてかけられない。なのに俺はたまらなくなって、理太郎くんへ飛びついていた。
理太郎くんは固まる。だけど俺はぎゅうぎゅうと抱きしめて、「がんばったね」と呟いていた。
だんだん、腕の中の大きな身体が固くなる。俺の背中におそるおそる腕が回って、抱きしめ返された。
制服越しなのに、お互いの心臓がうるさいくらい高鳴っているのが嫌ってくらい分かる。ぴったりと胸板が合わさって、それで余計にドキドキしているのかもしれない。
「……うれしかった」
理太郎くんの呟きに、俺は何のことなのかなんとなく察した。いやぁ……と言葉を濁す。
「こっちこそ、その……ご迷惑を。ご家族の前でとんだ醜態を……」
「あれが迷惑なわけあるか。醜態なんかでもない」
ただただ真剣な声だ。
俺はどうしたらいいのか分からなくて、理太郎くんの腕の中でへにゃへにゃになるしかない。
「そっか。じゃあ、よかった」
「ああ。よかった。俺を守ってくれて、ありがとう」
理太郎くんの大きな掌が頭に回って、抱え込まれる。
これは嬉しい。いいものだな。安心して、幸せだ。
うっとりしていると、身体が離れる。
奥の窓から差し込む光が、理太郎くんの顔を照らしていた。赤い光が黒々とした瞳を凛と輝かせている。
かっこいい。この人はさっき、俺が守った人だ。
でもそれだけじゃないよな。俺はそっと身体を離して、「理太郎くん」と話しかけた。
「文化祭まで、いろいろ、ありがとう。これからは……」
どうしようかちょっと悩む。だけど、言ってしまおうと思った。
俺の気持ちは、ちゃんと固まったんだから。
「……俺も、ちゃんと活動、やるよ。ば、ばいち? 作る」
理太郎くんの表情が、とたんにぱっと明るくなった。俺はしどろもどろになりながら「べ、別に」と続けた。
「これは恋人であるとか関係なくて。俺が抜けたら、生物部の人数が減って大変だから」
「ああ」
「だから本当に、理太郎くんのためとかじゃないから。……分かってる?」
「分かっている」
ただただニコニコしている理太郎くんは、本当に「分かって」いるんだろう。かなわない。
俺はため息をついて、理太郎くんの肩へくっついた。
「……文化祭、終わっちゃったなぁ」
理太郎くんはなんてことないように「ああ」と言って、でも迷うように目を伏せて唇を噛んだ。
ふと、指と指が触れる。そのまま指が絡まって、俺たちは手を繋いでいた。
大きな掌を、俺はためらいなく親指でさする。
「そろそろ、打ち上げ行く?」
囁くみたいに尋ねると、理太郎くんは首を横に振った。
「それよりはギリギリまで、ここにいたい。外ではこういうことが、できないから」
なんて熱烈なんだ。俺はうつむいて「そう」としか言えなかった。頬が熱い。
理太郎くんがちょっと笑って――初めて聞くようないじわるな、だけど優しい声で言う。
「顔が赤い」
おいおい、俺をこれ以上メロメロにしてどうする。
何も言葉が出てこなかった。二人で手を繋いで、ぼんやりと小さな窓から外を眺める。すっかり夕暮れ時で、雲が綺麗な赤色に染まっていた。青かった空は暗い色に澄んでいて、綺麗だ。
こんな綺麗なものを、この人と一緒に、たくさん見てみたいと思う。
「そういえば理太郎くんは、今もピラニアを飼いたいって思う?」
ふと思い出して尋ねると、理太郎くんは「どうだろう」と首を傾げた。
「率直に言うと、別に飼わなくてもいい。僕は自己投影の対象が、手元に欲しかっただけだから」
そうか。頷いて、理太郎くんを見上げて、続きを促した。
理太郎くんは微笑んで、ちょっとだけ俺に顔を寄せた。
「でも朔くんには誤解されても、逆に僕が誤解しても、それでいいと思った。だからもう、ピラニアは飼わなくていい」
「どういうこと?」
「僕はもう理想を追わなくてもいいと思った。朔くんが、現実の僕を認めようとしてくれているから」
顔がもっと近づく。
このままだと、キスしちゃうんじゃないか? 俺は焦るやらときめくやらで、「そんなの」と口を開いた。
「お、俺こそ。多分これからもたくさん誤解するし、逆もそうだけど、付き合うよ」
理太郎くんはほのかに笑った。その顔が綺麗で仕方なくて、俺は目を閉じた。
「えっ」
突然理太郎くんが突拍子もない声を出すから、目を開ける。顔が急に遠ざかって、理太郎くんはおろおろしていた。
「僕はまだ、そんなつもりは」
察した。はーん……と俺は半目になって、指を絡める。いじけたふりをした。
「俺とキスしちゃうって思ったんだ?」
「あ……うん……」
「だから逃げたんだ?」
「は、はい」
認め方がかわいい。俺は照れるやら、理太郎くんへの優越感やらで、ふんと鼻を鳴らした。
「別に、いつでもしていいのに」
いやさすがに、調子に乗りすぎ。ちょっと後悔していると、理太郎くんに肩を掴まれた。ぐるりと身体が回って、理太郎くんと向き合う。
「……本当に?」
掌の力強さと裏腹に、理太郎くんの声は頼りない。やっぱりかわいいなぁ、と思って、俺は笑って目を閉じた。
口の端に、ふにっと温かくて柔らかい感触があった。目を開けると、顔を真っ赤にした理太郎くんがいる。
「すまない。外した」
「スナイパーかよ」
俺は軽口を叩いて背伸びをした。俺からのキスは、ちゃんと唇へ当たった。
はー……と息をつく。理太郎くんを見上げると、真っ赤な顔で口をぱくぱくさせている。
この人が俺の恋人。そう思うと誇らしいような嬉しいような、変な気持ちだ。
「俺も、理太郎くんのことが、好きだよ」
そういえば、ちゃんと言っていなかった気がする。
俺がそう伝えると、理太郎くんは心底幸せそうに笑った。


