理太郎くんが塩タブレットを舐めて、水筒のお茶を飲むところまで見届けて、俺たちはプリントに戻った。
部室から標本も持ってきて、解説の練習をする。
「これがアゲハチョウ。か……柑橘類の葉に卵を産む。春から秋ごろにかけて見られるチョウで……幼虫の頭には……」
俺がたどたどしくプリントを見ながら言うと、理太郎くんは「大丈夫」「上手だ」と褒めてくれる。好きな人が俺に優しくて嬉しい……。
やっぱり、俺の気持ちは錯覚とかじゃなかった。本人を前にして、しっかりとときめいている。
なんだかとんでもないことになってしまった。じんわりと身体が汗ばんで、曲げた肘のところが少しだけ湿る。
一通り読み終えると、理太郎くんは「いいな」と言った。こんなにたどたどしい解説を褒めてくれるなんて、やっぱり優しい……。
「あとは暗記して、その時々で言い方を変えられるとさらにいい。ついでに、もう少し複雑な解説ができるようにした方がベターではあるな」
いやストイックだ。厳しい。そんなところも素敵だ……。
好きと自覚した瞬間、理太郎くんのやることなすこと、なんでも魅力的に見えてしまう。
うん、うん、と頷きながら理太郎くんの指導を受ける。
その日の準備は、俺への指導だけで終わってしまった。
外を見て、理太郎くんがあっと声をあげる。
「日が暮れたな。帰ろう」
たしかに、外はだいぶ暗くなっている。
俺たちは慌てて荷物をまとめて、標本を片づけて外へ出た。
暑さは、ほんの少しずつマシになってきている。そよ風に吹かれながら、二人で並んで歩いた。
沈黙だ。僕と理太郎くんはいつも、どんな会話をしていたっけ。それとも、そもそも会話自体なかったんだっけ。
欲を言うなら、理太郎くんと話したい。
「そ、そういえばさ」
共通の話題を探しながら口を開いた。理太郎くんがこちらを見て小首を傾げる。
実はまだ話したいことが固まり切っていない。そのー、と口ごもりながら続けた。
「解説の資料、昨日兄さんから見せてもらったんだけど」
「ああ。三浦先輩か。すごいよ、あの人は」
ふっと笑う顔が優しくて、ちょっとむかっとした。今話しているのは俺なのに、別の人間のことを思いだすな。兄さんを褒めるな。
理不尽な怒りを押しのけて、「そうそう」と話を合わせる。
「雌雄モザイクって言葉、初めて知ったよー」
どういう喋り方が普通だっけ? どきどきしながら切り出すと、「雌雄モザイクか」と理太郎くんはすぐに分かったみたいだった。
俺は俺で、言葉を選びきる前に口からいろいろ漏れる。
「他の蝶とは違うわけじゃん。特別な感じ? っていうか」
「うん」
「でも姿とか、性別とかって、どこまでその人の存在における本質なのかなぁ?」
「うん……?」
理太郎くんが怪訝な顔をしている。でも今更止まれない。
俺、理太郎くんに恋しちゃってるんだ。賢い理太郎くんから失望されたくない。だけど、言葉を上手く吟味できない。落ち着け。でもどんどん頭がぐるぐるする。
「俺は雌雄モザイクを見たことがないから、珍しいな~とか特別だな~って思うけど、雌雄モザイクの蝶は生まれたときからそうなわけで」
「そうだな。後天的にはならないだろう」
「じゃあその、オスでもメスでもない姿が持って生まれたものなら、『珍しいなぁ』とか『特別だなぁ』って俺の勝手な感想じゃん」
「うん」
「例えば左利きの人を見ると、俺は『珍しいな』って思うけど、右利きだからそう思うだけかもしれないし。左利きに生まれてたらさ、たぶん、今俺が持っている左利きであることへの印象って違うと思うし。いや性別と利き手がどっちって全然関係ない話で、今のたとえは絶対適切じゃないんだけど」
あ~おしまい。おしまいです。止まれません。
ぼろぼろと語りながら歩いているうちに、校門までたどりついてしまった。
「……ってわけでさ、今朝は早起きできたから、雌雄モザイクで一本書いたんだよね」
ちゃっかり宣伝するな。へへ……と誤魔化し笑いを浮かべると、理太郎くんは真剣な顔をして俺を見つめた。
その凛々しい眼差しに、どきっとする。
「読ませてほしい」
胸を撃ち抜かれたかと思った。思わず心臓の辺りを手で押さえる。
「……読みたいの?」
「ああ。読ませてほしい」
理太郎くんは、力強くそう繰り返した。俺は「えーっと」とうつむいて、もじもじと指をいじる。
「ス、スマホのメモ帳にしかないし、すごーく短い話で」
「じゃあ、今読ませてくれないか?」
「今!?」
ぎょっとして声が出る。今、リアルタイムで読んでくれるのか?
理太郎くんは俺の叫び声にびっくりしたのか、ぱちりと瞬きをする。
「朔くんさえよければ、読ませてほしい」
どっどっどっ、と心臓が痛いほど跳ねる。
気づくと俺は、ポッケからスマホを取り出していた。
メモ帳アプリを立ち上げて、今日書いたばかりの小説を差し出す。
「はい。……三分もあれば、読めると思う」
ほんの短いショートショートだ。
理太郎くんは俺のスマホを受け取って、「ありがとう」と微笑む。
夕日はどんどん沈んでいく。薄暗くなっていく校門で、俺たちは二人きりで立ちすくんでいた。
理太郎くんは真剣な顔でスクロールしている。その横顔が綺麗だとか、目の前で読まれるのはやっぱり恥ずかしいだとか、いろんな気持ちがあった。
だけどやっぱり一番強いのは、嬉しさだ。
理太郎くんが、俺に……いや。俺の作品に興味を持ってくれて、嬉しい。
理太郎くんの親指が止まる。ふっと息を吐いて、理太郎くんは俺にスマホを返してくれた。
「……どうだった?」
喉から声を絞り出しても、掠れた小さな声にしかならなかった。
だけど理太郎くんには、しっかりと聞こえたみたいだ。
「すごかった。僕は雌雄モザイクについて、こんなに深く考えたことがなかったから」
褒められた。嬉しい。
頬が熱くなっていくのを感じる。頬の内側を噛んで、にやけるのを我慢した。
「ん。そっか」
理太郎くんは俺をじっと見つめている。ちょっと恥ずかしくてうつむくと、「生物学では」と理太郎くんは言った。
「オスとメスという概念はあるが、それは絶対に線引きできるものではないんだ」
顔をあげる。なんだか難しくて……大切な話をしてくれているみたいだ。
「オスとして、メスとして、それぞれの特徴や機能がある。だけどその両方を兼ね備えるものもあれば、ないものもいる。生物学は、そういった個体を正常である、異常であると判断する学問では、ないはずで」
理太郎くんは、ほんのりと微笑んだ。少し寂しそうだけど、優しい笑みだ。
「ありのままの生物を、ありのままに観察する。正しい、正しくないで判断するのはすべて、人間の勝手だと……思っているはずなんだけどな」
俺は理太郎くんが寂しそうで、悲しくなった。だけどここからさらに踏み込んでいいのか分からない。
ほんの少し迷った後、俺は大きく頷いた。
「もうちょっと話そうよ」
そう言うと、理太郎くんは驚いたように目を丸くした。俺はにやっと笑って、校門の方を見る。
「近所にうどん屋あるじゃん。そこ行こう」
「う、うどん屋?」
珍しく理太郎くんが驚いている。いつもは俺が驚かせてばかりだから、ちょっと面白い。
「うどん一杯くらい食べても、そんなん誤差じゃん」
理太郎くんは結構食べるタイプだ。うどんなんかおやつだろう。
俺のさそいに、理太郎くんは少し迷う様子を見せた後、「行く」とのってくれた。
「あそこに行くのは、初めてなんだ」
こっそりそう言われて、俺の気分はあからさまに上向いた。
だって正直、優越感ってやつを感じる。
あの名前も知らない元生物部の女子、見ているか? 俺は理太郎くんをうどん屋へ誘ったぞ。
部室から標本も持ってきて、解説の練習をする。
「これがアゲハチョウ。か……柑橘類の葉に卵を産む。春から秋ごろにかけて見られるチョウで……幼虫の頭には……」
俺がたどたどしくプリントを見ながら言うと、理太郎くんは「大丈夫」「上手だ」と褒めてくれる。好きな人が俺に優しくて嬉しい……。
やっぱり、俺の気持ちは錯覚とかじゃなかった。本人を前にして、しっかりとときめいている。
なんだかとんでもないことになってしまった。じんわりと身体が汗ばんで、曲げた肘のところが少しだけ湿る。
一通り読み終えると、理太郎くんは「いいな」と言った。こんなにたどたどしい解説を褒めてくれるなんて、やっぱり優しい……。
「あとは暗記して、その時々で言い方を変えられるとさらにいい。ついでに、もう少し複雑な解説ができるようにした方がベターではあるな」
いやストイックだ。厳しい。そんなところも素敵だ……。
好きと自覚した瞬間、理太郎くんのやることなすこと、なんでも魅力的に見えてしまう。
うん、うん、と頷きながら理太郎くんの指導を受ける。
その日の準備は、俺への指導だけで終わってしまった。
外を見て、理太郎くんがあっと声をあげる。
「日が暮れたな。帰ろう」
たしかに、外はだいぶ暗くなっている。
俺たちは慌てて荷物をまとめて、標本を片づけて外へ出た。
暑さは、ほんの少しずつマシになってきている。そよ風に吹かれながら、二人で並んで歩いた。
沈黙だ。僕と理太郎くんはいつも、どんな会話をしていたっけ。それとも、そもそも会話自体なかったんだっけ。
欲を言うなら、理太郎くんと話したい。
「そ、そういえばさ」
共通の話題を探しながら口を開いた。理太郎くんがこちらを見て小首を傾げる。
実はまだ話したいことが固まり切っていない。そのー、と口ごもりながら続けた。
「解説の資料、昨日兄さんから見せてもらったんだけど」
「ああ。三浦先輩か。すごいよ、あの人は」
ふっと笑う顔が優しくて、ちょっとむかっとした。今話しているのは俺なのに、別の人間のことを思いだすな。兄さんを褒めるな。
理不尽な怒りを押しのけて、「そうそう」と話を合わせる。
「雌雄モザイクって言葉、初めて知ったよー」
どういう喋り方が普通だっけ? どきどきしながら切り出すと、「雌雄モザイクか」と理太郎くんはすぐに分かったみたいだった。
俺は俺で、言葉を選びきる前に口からいろいろ漏れる。
「他の蝶とは違うわけじゃん。特別な感じ? っていうか」
「うん」
「でも姿とか、性別とかって、どこまでその人の存在における本質なのかなぁ?」
「うん……?」
理太郎くんが怪訝な顔をしている。でも今更止まれない。
俺、理太郎くんに恋しちゃってるんだ。賢い理太郎くんから失望されたくない。だけど、言葉を上手く吟味できない。落ち着け。でもどんどん頭がぐるぐるする。
「俺は雌雄モザイクを見たことがないから、珍しいな~とか特別だな~って思うけど、雌雄モザイクの蝶は生まれたときからそうなわけで」
「そうだな。後天的にはならないだろう」
「じゃあその、オスでもメスでもない姿が持って生まれたものなら、『珍しいなぁ』とか『特別だなぁ』って俺の勝手な感想じゃん」
「うん」
「例えば左利きの人を見ると、俺は『珍しいな』って思うけど、右利きだからそう思うだけかもしれないし。左利きに生まれてたらさ、たぶん、今俺が持っている左利きであることへの印象って違うと思うし。いや性別と利き手がどっちって全然関係ない話で、今のたとえは絶対適切じゃないんだけど」
あ~おしまい。おしまいです。止まれません。
ぼろぼろと語りながら歩いているうちに、校門までたどりついてしまった。
「……ってわけでさ、今朝は早起きできたから、雌雄モザイクで一本書いたんだよね」
ちゃっかり宣伝するな。へへ……と誤魔化し笑いを浮かべると、理太郎くんは真剣な顔をして俺を見つめた。
その凛々しい眼差しに、どきっとする。
「読ませてほしい」
胸を撃ち抜かれたかと思った。思わず心臓の辺りを手で押さえる。
「……読みたいの?」
「ああ。読ませてほしい」
理太郎くんは、力強くそう繰り返した。俺は「えーっと」とうつむいて、もじもじと指をいじる。
「ス、スマホのメモ帳にしかないし、すごーく短い話で」
「じゃあ、今読ませてくれないか?」
「今!?」
ぎょっとして声が出る。今、リアルタイムで読んでくれるのか?
理太郎くんは俺の叫び声にびっくりしたのか、ぱちりと瞬きをする。
「朔くんさえよければ、読ませてほしい」
どっどっどっ、と心臓が痛いほど跳ねる。
気づくと俺は、ポッケからスマホを取り出していた。
メモ帳アプリを立ち上げて、今日書いたばかりの小説を差し出す。
「はい。……三分もあれば、読めると思う」
ほんの短いショートショートだ。
理太郎くんは俺のスマホを受け取って、「ありがとう」と微笑む。
夕日はどんどん沈んでいく。薄暗くなっていく校門で、俺たちは二人きりで立ちすくんでいた。
理太郎くんは真剣な顔でスクロールしている。その横顔が綺麗だとか、目の前で読まれるのはやっぱり恥ずかしいだとか、いろんな気持ちがあった。
だけどやっぱり一番強いのは、嬉しさだ。
理太郎くんが、俺に……いや。俺の作品に興味を持ってくれて、嬉しい。
理太郎くんの親指が止まる。ふっと息を吐いて、理太郎くんは俺にスマホを返してくれた。
「……どうだった?」
喉から声を絞り出しても、掠れた小さな声にしかならなかった。
だけど理太郎くんには、しっかりと聞こえたみたいだ。
「すごかった。僕は雌雄モザイクについて、こんなに深く考えたことがなかったから」
褒められた。嬉しい。
頬が熱くなっていくのを感じる。頬の内側を噛んで、にやけるのを我慢した。
「ん。そっか」
理太郎くんは俺をじっと見つめている。ちょっと恥ずかしくてうつむくと、「生物学では」と理太郎くんは言った。
「オスとメスという概念はあるが、それは絶対に線引きできるものではないんだ」
顔をあげる。なんだか難しくて……大切な話をしてくれているみたいだ。
「オスとして、メスとして、それぞれの特徴や機能がある。だけどその両方を兼ね備えるものもあれば、ないものもいる。生物学は、そういった個体を正常である、異常であると判断する学問では、ないはずで」
理太郎くんは、ほんのりと微笑んだ。少し寂しそうだけど、優しい笑みだ。
「ありのままの生物を、ありのままに観察する。正しい、正しくないで判断するのはすべて、人間の勝手だと……思っているはずなんだけどな」
俺は理太郎くんが寂しそうで、悲しくなった。だけどここからさらに踏み込んでいいのか分からない。
ほんの少し迷った後、俺は大きく頷いた。
「もうちょっと話そうよ」
そう言うと、理太郎くんは驚いたように目を丸くした。俺はにやっと笑って、校門の方を見る。
「近所にうどん屋あるじゃん。そこ行こう」
「う、うどん屋?」
珍しく理太郎くんが驚いている。いつもは俺が驚かせてばかりだから、ちょっと面白い。
「うどん一杯くらい食べても、そんなん誤差じゃん」
理太郎くんは結構食べるタイプだ。うどんなんかおやつだろう。
俺のさそいに、理太郎くんは少し迷う様子を見せた後、「行く」とのってくれた。
「あそこに行くのは、初めてなんだ」
こっそりそう言われて、俺の気分はあからさまに上向いた。
だって正直、優越感ってやつを感じる。
あの名前も知らない元生物部の女子、見ているか? 俺は理太郎くんをうどん屋へ誘ったぞ。


