完璧理系男子のギャップに勝てるわけがない

 塾を出る頃には、とっぷり夜が更けていた。
 何かに悩んでいると、夜はその悩みを二倍にも三倍にも大きく見せる……ように思える。

 駐輪場までの短い道のりを、俺はだらだら歩いていた。

 俺のやりたいことって、なんだろう。
 一瞬、理太郎くんの顔がちらついた。だから違うんだってば、と慌てて首を横に振る。

 こういうときは、整理するべきだ。自分への一問一答で気持ちを確かめてみよう。

 生物部の活動を本格的にやりたいか? ノー。
 理太郎くんの役に立って、喜ぶ顔が見たい? イエス。
 理太郎くんの役に立てるなら、生物部の活動をやっても構わないか? イエス。
 イエスだ。俺の心は、そうなんだ。

「うえ」

 いくらなんでも下心が強すぎる。向こうだって、そんなつもりはないんだろうに……。

「うわー……」

 うめき声が漏れた。自分で自分にドン引きする。
 これはもう、絶対そういうことじゃん。悩んでること自体が答えじゃん。
 胸に手を当てると、すごくどきどきしていた。うんざりだ。いくらなんでもチョロすぎるだろ。

 俺は理太郎くんのことを、相当気に入っている。
 というかこれってもしかして……いや。もしかしなくても、好きって気持ちじゃないんだろうか。

 その人のために何かしてあげたい。役に立ちたい。喜んでほしい。
 特別な誰か、みたいな存在になりたいとすら思う。

 そんなの、恋だろ。

「はー……」

 俺はもしかしたら、ちょっと惚れっぽいのかもしれない。いやでも理太郎くんって魅力的な人だから、仕方ないよな。仕方ない。
 だって理太郎くんときたら、ほとんど見ず知らずの女子からあんなに好かれてるくらいなんだからさ……。
 俺は男だ。ついでに、恋する相手に、性別はあまり関係ない。
 いいなぁと思った人を、そのまま好きになるタイプだ。

 フェンスへ寄りかかって、大げさなくらいのため息をついてみる。

 いや、まだ決まったわけじゃない。明日も学校があって、文化祭準備だ。
 今は顔を見ていないからちょっとときめいてる? だけで、顔を見たら案外落ち着くかもしれないぞ?

 悶々としながら自転車を漕いで、家に帰る。

「おかえり」

 兄さんが、わざわざ玄関まで出迎えてきた。なんだと思ってちょっと身構えると、やけにニヤニヤしながら俺の顔を覗き込んでくる。

「理太郎くんと、仲がいいみたいだな」
「は、はあ……」

 何なんだ、一体。うさんくさい。じろりとにらむと、「照れるなって」と兄さんはちゃらついた言い方をした。

「標本の解説するんだって? 理太郎くんから個チャが来た」
「ああ、うん。そうだけど」

 思ったよりも真面目な話題に拍子抜けする。
 兄さんは「いいなー」と言って続けた。

「標本解説、楽しそうだな。俺の頃は研究解説しかしてなかったからさー、ウケが悪いのなんの。理太郎くんはがんばってくれてたけどさ、やっぱ女の子に取り囲まれて困ってたっけ、懐かしい」

 ちょっとだけ、自分勝手にもやもやした。
 俺はその現場を知らない。理太郎くんがかわいそうだ。
 理太郎くんってやっぱり女子にモテるんだな……。

 もちろん俺の気持ちなんか分からない兄さんは「というわけで、これ」と言って、ファイルを押し付けてきた。中には虫の写真がプリントされたコピー用紙が、何枚か入っている。

「な、なんだよ」
「解説。俺もちょっと手伝って、資料作ったから、その分」

 その話をしたのはついさっきなのに。兄さんの仕事が早すぎる。
 驚いて目を見開く俺に、兄さんはへらっと笑った。今度は優しそうな顔だ。

「分かんないところあったら、俺にも聞いてくれよ」

 それだけ言って、兄さんはリビングに戻ってしまった。
 また顔を合わせるにはなんとなく時間を置きたくて、二階の自分の部屋にあがる。

 ぺらぺらと紙をめくると、耳慣れない言葉がたくさん並んでいた。虫の種類なんかもそうだけど、用語も聞いたことがなくて戸惑う。

「雌雄モザイク……」

 ふとその言葉が目に留まって、指先がその写真で止まる。右側と左側で羽の色が違うモンシロチョウだ。掃除で見かけたあの個体だ、とすぐに気づいた。

 兄さんの用意した解説を見るに、右側がメスの特徴、左側はオスの特徴を持っているらしい。

 改めて、理太郎くんの言葉を思い出した。

 この虫の身体には、オスとメス、両方の特徴がある。どちらでもあり、どちらでもないということ……?

 スマホで「雌雄モザイク」と検索してみる。いろんな蝶の写真が出てきた。

 何対もの色の違う羽と向かい合っているうちに、スマホが鳴る。母さんからお風呂に入るようにと言われてしまった。
 既読だけつけて、パジャマを持って一階へ下がった。兄さんはもう部屋に戻ったらしく、リビングには父さんと母さんしかいない。

「お風呂もらう。俺が最後?」
「そうだよー」

 じゃあ、遠慮なく長風呂させてもらおう。
 風呂につかりながら、さっきの蝶の写真を思い出す。

 ああいう個体が、世の中にはいるんだ。

 目を閉じて、左右で羽の違う蝶が飛ぶ姿を想像してみた。そしてそれを捕まえた、俺たちの先輩だっていう人になりきって、気持ちを想像してみる。
 俺とその人では、前提になっている知識や経験が、当然ながら全然違うだろう。だからきっと、ものの見方も全然違うに決まっている。
 それでも、どう考えてもやっぱり、その蝶は綺麗だった。捕まえた瞬間には興奮すると思う。
 というか、蝶そのものが僕にとっては好ましくて、綺麗だ。

 特にあの蝶は、珍しいから綺麗なのかもしれない。

 だけどそれって、ちょっと残酷だな。お湯にぴたりと顎をつけて、ぼんやり天井を見上げる。

 希少価値が高いからという理由で、その見た目にもっと感動するって、見つけた人の特権じゃないのかな。
 少なくとも今、安全圏にいる僕がそういう理由で感動するのは……ちょっと引っかかる。

 だから理太郎くんはあの時、少し言い淀んだんだろうか。

 そんなことをぼんやり考えながら、お湯からあがった。