その後の記憶はおぼろげだ。
完全下校のチャイムで太田先生に、理太郎くんと一緒に生物室から追い出されて、自転車に乗って、今いる塾へ来たことは確かだ。
ラウンジでぼんやりパンをかじりながら、理太郎くんのことを思いだす。
俺は、理太郎くんから頼りにされているのか。それで俺は、これだけのことでめちゃくちゃ嬉しがっているのか。
それだけじゃない。俺は理太郎くんのことを、面白くてかわいくてかっこいい存在だと思っている。
相当好きだろ、こんなの。
俺はたしかに、理太郎くんのことを気に入っているけど……。
これは……ちょっと、並々ならぬもの、というか……。
「三浦くん」
いきなり名前を呼ばれて、身体が跳ねるくらい驚いた。振り向くと梶原くんだった。怪訝な顔をしながら「そんなに驚かなくても」と近づいてくる。
慌ててそちらへ手を振った。
「いや、ごめん。ちょっと考え事を」
「ふうん……? まあ、今の時期はいろいろあるよなぁ」
梶原くんはなぜかしたり顔で言って、俺の隣の椅子へどっかりと座った。ついでのように、うわーっと喚き立てる。
「文化祭準備が大詰めなのに、そろそろ進路のことも考えなくちゃいけないし、考えることが多すぎる!」
そうだった。高校二年生の夏休みも終わったんだから、進路のことも考えないといけない。
俺の顔を見て、梶原くんが「そんなに絶望した顔しなくても」と同情したように言った。
「まあでもやっぱり、いろいろあるよな。三浦くんの家は、お兄さんが今年受験なんだろ」
「ん。でもあの人はたぶん、大丈夫だし」
あの人は偏差値で志望校を選んだ。この国で一番偏差値が高くて、大学名を言ったら誰もが「すごいね」と言うようなところだ。
ついでに、俺にはとても行けそうにないところだ。パンにかぶりついて、むしゃくしゃした気持ちごとかみ砕く。
「あーあ。俺も進路、どうしよっかなぁ」
梶原くんの言葉で現実に引き戻される。俺はパンを口いっぱいに詰めて、曖昧にうなった。
「んー。ん」
今この胸にあるもやもやの、明確な言語化は難しい。とにかく「分からない」というのが直感に近い。
理太郎くんと、進路と、兄さん。この三つの問題が未解決のまま、頭の中でぐるぐる居残っている。
梶原くんは「あーあ」とため息をつきながら俺の方を向いた。
「三浦くんは文系だろ。将来、どの学部に行くかとかは決めてる?」
俺はパンを丁寧に、何度もかみ砕きながら首を傾げる。
飲み込んで、小さな声で呟いた。
「あんまり考えれてない」
「そっか。まだ二年生の夏休みだもんなぁ」
「文学とか、哲学とか、興味がある分野がないわけじゃないけど……就職を考えるとさ」
「あー……。たしかに、就職先がないってよく聞くよな」
進路が決まり切らない同士、はあと大きなため息をつく。
「三浦くんのお兄さんは、いつ頃進路を決めたんだ?」
「ああ……あの人はずっと『俺の偏差値に相応しいところ』としか言ってなかったから、たぶん最初からブレてない」
「い、言ってみたいな、それ」
梶原くんは震えつつ、でも、と続けた。
「学部とか、ほら、いろいろあるだろ。それについてはどうなんだ?」
「さあ……。生物系に行くんじゃない?」
曖昧な返事に、梶原くんは「そっか」とだけ頷いた。恥ずかしい話、梶原くんには俺の兄さんへのコンプレックスはもろにバレているから、これ以上は踏み込めないって分かっているんだろう。
「……三浦くん。今年はダメだって分かってるけど、来年こそ、うちの部誌に小説を載せてくれないか」
その代わりに、いつもの口説き文句が始まる。俺はちらりと梶原くんを見て、すぐに目をそらした。
「どうだろ。来年、俺が抜けても大丈夫なくらい、生物部に人がいたらいいけど」
「そうじゃない。俺は今、三浦くんがどうしたいか聞いているんだ」
困った。俺がどうしたいかなんて、俺自身もよく分かっていないことを聞かれている。視線が上擦って、頼りない声しか出ない。
「い、今すぐどうとは言えない。そもそも、来年は受験で忙しいから、たぶんどっちにしろ無理だろ」
どもりつつ無難なラインを見繕って返事をする。そっと視線を梶原くんに戻すと、むっと唇を突き出していた。見るからに不満そうだ。
だけどすぐにへッとニヒルに笑って、前かがみになって俺をにらむ。
「三浦くん。あんまりビビるなよ」
「ビ、ビビる」
「そう」
突然飛び出してきたその強い言葉に、俺はすっかりビビッてしまった。梶原くんは脚まで組んで悪い顔をする。
「三浦くん本人さえ動けば、どうとでもなる状況に見えるけどな。ほら、本心を言ってみなって」
おらおら、と梶原くんが俺を促す。
俺の本心。自分の胸の中を慎重に探って、考えて……。それでも俺は結論が出なかった。
やりたいことも、やりたくないこともよく分からない。それが今の俺の、正直な答えだ。
途方に暮れて、肩の力を落とす。
「本心か……」
これまでは、生物部に籍だけ置いているのが嫌だった。兄さんに言われたからって、ちゃんと活動できるわけでもない部活に所属して、関係ない他の部活に入り浸って。
中途半端な自分が嫌だ。勇気を出して辞めるべきなのかもしれない。
でもそうしたら、理太郎くんがひとりになってしまう。
「ごめん。生物部は、辞めたくない、かも」
俺の気持ちは、理太郎くんとやっている生物部としての活動へ、ほんの少しだけ傾いている。もう理太郎くんを一人にしたくない。
でもそれって下心込みだよな。その下心って? ひそかにささやく雑念から逃げるみたいに、深く頷く。
「だから今は、文芸部には行かない」
素直に言うと、梶原くんはじっとりと俺をにらんだ。
「まーたお兄さんに忖度してるのか?」
「いや、違う。これは、俺自身の気持ち」
本当の本当だ。これは絶対に、嘘なんかじゃない。
梶原くんは「そっかぁ」と目を伏せた。俺はむっつりと唇を真横に引き結んで、しばらく黙る。
しばらく経って、梶原くんは顔を上げて、軽い口調で言った。
「じゃあ、心変わりしたら教えてくれ」
「分かった」
これで手打ちだ。梶原くんは立ち上がって、「帰る」とひらひら手を振る。
俺はそれに手を振り返して、パンにかぶりついた。
完全下校のチャイムで太田先生に、理太郎くんと一緒に生物室から追い出されて、自転車に乗って、今いる塾へ来たことは確かだ。
ラウンジでぼんやりパンをかじりながら、理太郎くんのことを思いだす。
俺は、理太郎くんから頼りにされているのか。それで俺は、これだけのことでめちゃくちゃ嬉しがっているのか。
それだけじゃない。俺は理太郎くんのことを、面白くてかわいくてかっこいい存在だと思っている。
相当好きだろ、こんなの。
俺はたしかに、理太郎くんのことを気に入っているけど……。
これは……ちょっと、並々ならぬもの、というか……。
「三浦くん」
いきなり名前を呼ばれて、身体が跳ねるくらい驚いた。振り向くと梶原くんだった。怪訝な顔をしながら「そんなに驚かなくても」と近づいてくる。
慌ててそちらへ手を振った。
「いや、ごめん。ちょっと考え事を」
「ふうん……? まあ、今の時期はいろいろあるよなぁ」
梶原くんはなぜかしたり顔で言って、俺の隣の椅子へどっかりと座った。ついでのように、うわーっと喚き立てる。
「文化祭準備が大詰めなのに、そろそろ進路のことも考えなくちゃいけないし、考えることが多すぎる!」
そうだった。高校二年生の夏休みも終わったんだから、進路のことも考えないといけない。
俺の顔を見て、梶原くんが「そんなに絶望した顔しなくても」と同情したように言った。
「まあでもやっぱり、いろいろあるよな。三浦くんの家は、お兄さんが今年受験なんだろ」
「ん。でもあの人はたぶん、大丈夫だし」
あの人は偏差値で志望校を選んだ。この国で一番偏差値が高くて、大学名を言ったら誰もが「すごいね」と言うようなところだ。
ついでに、俺にはとても行けそうにないところだ。パンにかぶりついて、むしゃくしゃした気持ちごとかみ砕く。
「あーあ。俺も進路、どうしよっかなぁ」
梶原くんの言葉で現実に引き戻される。俺はパンを口いっぱいに詰めて、曖昧にうなった。
「んー。ん」
今この胸にあるもやもやの、明確な言語化は難しい。とにかく「分からない」というのが直感に近い。
理太郎くんと、進路と、兄さん。この三つの問題が未解決のまま、頭の中でぐるぐる居残っている。
梶原くんは「あーあ」とため息をつきながら俺の方を向いた。
「三浦くんは文系だろ。将来、どの学部に行くかとかは決めてる?」
俺はパンを丁寧に、何度もかみ砕きながら首を傾げる。
飲み込んで、小さな声で呟いた。
「あんまり考えれてない」
「そっか。まだ二年生の夏休みだもんなぁ」
「文学とか、哲学とか、興味がある分野がないわけじゃないけど……就職を考えるとさ」
「あー……。たしかに、就職先がないってよく聞くよな」
進路が決まり切らない同士、はあと大きなため息をつく。
「三浦くんのお兄さんは、いつ頃進路を決めたんだ?」
「ああ……あの人はずっと『俺の偏差値に相応しいところ』としか言ってなかったから、たぶん最初からブレてない」
「い、言ってみたいな、それ」
梶原くんは震えつつ、でも、と続けた。
「学部とか、ほら、いろいろあるだろ。それについてはどうなんだ?」
「さあ……。生物系に行くんじゃない?」
曖昧な返事に、梶原くんは「そっか」とだけ頷いた。恥ずかしい話、梶原くんには俺の兄さんへのコンプレックスはもろにバレているから、これ以上は踏み込めないって分かっているんだろう。
「……三浦くん。今年はダメだって分かってるけど、来年こそ、うちの部誌に小説を載せてくれないか」
その代わりに、いつもの口説き文句が始まる。俺はちらりと梶原くんを見て、すぐに目をそらした。
「どうだろ。来年、俺が抜けても大丈夫なくらい、生物部に人がいたらいいけど」
「そうじゃない。俺は今、三浦くんがどうしたいか聞いているんだ」
困った。俺がどうしたいかなんて、俺自身もよく分かっていないことを聞かれている。視線が上擦って、頼りない声しか出ない。
「い、今すぐどうとは言えない。そもそも、来年は受験で忙しいから、たぶんどっちにしろ無理だろ」
どもりつつ無難なラインを見繕って返事をする。そっと視線を梶原くんに戻すと、むっと唇を突き出していた。見るからに不満そうだ。
だけどすぐにへッとニヒルに笑って、前かがみになって俺をにらむ。
「三浦くん。あんまりビビるなよ」
「ビ、ビビる」
「そう」
突然飛び出してきたその強い言葉に、俺はすっかりビビッてしまった。梶原くんは脚まで組んで悪い顔をする。
「三浦くん本人さえ動けば、どうとでもなる状況に見えるけどな。ほら、本心を言ってみなって」
おらおら、と梶原くんが俺を促す。
俺の本心。自分の胸の中を慎重に探って、考えて……。それでも俺は結論が出なかった。
やりたいことも、やりたくないこともよく分からない。それが今の俺の、正直な答えだ。
途方に暮れて、肩の力を落とす。
「本心か……」
これまでは、生物部に籍だけ置いているのが嫌だった。兄さんに言われたからって、ちゃんと活動できるわけでもない部活に所属して、関係ない他の部活に入り浸って。
中途半端な自分が嫌だ。勇気を出して辞めるべきなのかもしれない。
でもそうしたら、理太郎くんがひとりになってしまう。
「ごめん。生物部は、辞めたくない、かも」
俺の気持ちは、理太郎くんとやっている生物部としての活動へ、ほんの少しだけ傾いている。もう理太郎くんを一人にしたくない。
でもそれって下心込みだよな。その下心って? ひそかにささやく雑念から逃げるみたいに、深く頷く。
「だから今は、文芸部には行かない」
素直に言うと、梶原くんはじっとりと俺をにらんだ。
「まーたお兄さんに忖度してるのか?」
「いや、違う。これは、俺自身の気持ち」
本当の本当だ。これは絶対に、嘘なんかじゃない。
梶原くんは「そっかぁ」と目を伏せた。俺はむっつりと唇を真横に引き結んで、しばらく黙る。
しばらく経って、梶原くんは顔を上げて、軽い口調で言った。
「じゃあ、心変わりしたら教えてくれ」
「分かった」
これで手打ちだ。梶原くんは立ち上がって、「帰る」とひらひら手を振る。
俺はそれに手を振り返して、パンにかぶりついた。


