完璧理系男子のギャップに勝てるわけがない

 やっぱり帰ろうか。
 生物室の引き戸を前に、卑怯な考えがちらついた。

 夏休み中の登校日に、生物部の部員で部室の掃除をするとグループラインで回ってきたのが三日前。幽霊部員だけど行くべきかとうじうじ悩み続けて、兄さんから「いや行けよ」と蹴りだされて、とうとうやってきた今日。
 あまり冷房が効いていない特別教室棟のムシムシした空気を、肺いっぱいに吸い込んで、長い溜息をつく。

 これは別に強制参加じゃない。だけど今生物部は兄さん含めた三年生が三人で、二年生は俺と部長の結城理太郎くんの二人だけ。一年生はいない。三年生は受験勉強で忙しいから、実質的に掃除へ参加可能なのは二年生の、俺と結城くんだけ。

 俺は文系選択だしろくに研究の手助けもできないとはいえ、今たったひとりで生物部として活動している結城くんには、さすがにちょっと申し訳ないと思ってはいる。兄さんの言いなりに籍だけ貸している状態とはいえ、さすがに……。

 だからこそ、合わせる顔がないわけだけど。
 それに俺個人としては、結城くんにちょっと怖いイメージがある。

 結城くんは、ものすごい美青年だ。

 入部後の顔合わせのとき、結城くんはほとんど黙っていた。俺も先輩と、なぜか女子ばかりの空間で何も言えなくて、ものすごく気まずかった。それを言い訳にさせてもらうんだけど、結城くんと友達になり損ねてしまった。
 結城くんは成績優秀、文武両道。その名は入学後のゴールデンウィークまでには、当時の一年生の間に轟いていた。
 文系と理系で分かれた今も、同級生で結城くんと言えば「ああ、あのめちゃくちゃ頭と顔のいい生物部の人」とピンとくるくらいだ。全校集会で表彰されたことも何回かあるし、遠目に見ても分かる美形の迫力がすごかった。
 俺もがんばって地元でいちばんの進学校に入学したとはいえ、本物の天才――兄さんや、結城くんにはとても敵わない。
 要は引け目と劣等感で、ちゃんと話せる自信がないんだ。

 だから二人きりで掃除するのは、ものすごく気まずい。でも帰ったら結城くんがひとりで掃除する羽目になってしまう……。そっと壁際に視線をやって部室をのぞきこむと、半開きのドアの向こうに、おびただしい量の荷物が見えてしまった。
 さすがにこれをひとりで片づけさせるのは酷だ。俺にだって良心がある。

 思い切って引き戸に手をかける。ちょうどその時、背後の方からぺったんぺったんと足音がした。先生が来たんだろうか。なら、結城くんと二人きりにならずに済む。
 ほっとして振り向いた。
 階段を昇りきってこちらへ顔を出したその人は、結城くんその人だった。

 腕にぴかぴかのでかい水槽を抱えている。身長が百八十センチ近いだろう結城くんが、やっと一抱えできるくらいの大きさだ。
 そのまま、ゆったりとした足取りで近寄ってきた。逃げることもできずにそのまま立っていると、目の前にやってきた。最近になって身長がやっと百六十を超えた僕のちょうど目線の高さに、水槽のへりがある。

「ん。失礼」

 失礼って武士かよ。そんなことを思っていると、結城くんは「失礼」と繰り返した。
 俺は思わず一歩引いて、引き戸を開けた。高身長の美形には迫力がある。

「ど、どうぞ」

 結城くんは「ありがとう」と丁寧に頭まで下げた。

「三浦先輩の弟の、三浦朔くんだな」

 その言葉に、俺は「まあ」とあいまいに頷いた。
 兄さん……三浦充は、前生物部部長。ものすごく頭がいい。傾いていた生物部に入部して、一年生の頃からバリバリに研究をはじめて、研究発表会で賞金を荒稼ぎした武勇伝は入学前から散々に聞かされてきた。

 だからこの学校の先生たちからは、俺は「三浦朔」というより、「天才生物部部長・三浦充の弟くん」と認識されている。同級生からも「すごいね」とよく言われる。
 でもそれって、俺の手柄じゃない。

 微妙な気分になっていると、結城くんはきっぱり頷いた。

「では朔くんと呼ぶ」
「え?」
「同じ『三浦』だと、ややこしいだろう」

 まあそうなんだけど、ちょっと距離感バグってないか?
 呆気に取られていると、結城くんは水槽を抱えたまま生物室に入る。危なげない足取りを慌てて追いかけた。
 いや、というか。

「そのでかい水槽、なに?」
「ピラニアを飼うんだ」

 ピラニア? 今、ピラニアって言った?
 あまりにも淡々としているから、もしかしたら俺の聞き間違いかもしれない。
 結城くんは生物室の長机の最後列に、でかい水槽を置いた。
 夏休み前には見たことのない水槽が、長机の上にずらりと並んでいる。全部に水がなみなみと入っていた。

「生物室でピラニア飼っていいんだ?」
「フフ」

 今のはもしかして、誤魔化されたんだろうか。結城くんも笑って誤魔化すことあるんだ。

「そもそも学校で勝手に生き物飼っていいの?」
「僕から顧問の先生には、話を通してある」

 一応筋は通してあるらしい。
 俺がなんと言えばいいのか言葉を選んでいると、理太郎くんは机に置いてあった黒いリュックを開けた。中から出てきたのは個別包装のチョコチップクッキーだ。

「とりあえず、来てくれてありがとう」

 そっと握らされて「あ、はい」としか言えない。結城くんは俺の顔を覗き込んで、じっと目を見つめてきた。

「な、なに?」
「人手が増えて、嬉しくて……」
「あ、ああ。そう」

 なんだろう、この独特のペース。身構えていたのが馬鹿みたいだ。力が抜ける。
 俺がリュックを机に置くと、結城くんもクッキーの封を開けて食べ始めた。僕も封を切ってクッキーを食べる。

「準備室の掃除だが、それなりに手間と時間がかかると思う。ざっと見たところ、数十年前の部員が作った標本類、研究発表会の冊子、昔の文化祭で使ったらしい謎の機材、座布団などがあるな」
「座布団? なんでそんなものが」
「馬の被り物もあった。そっちは文芸部に譲った」
「そう……」

 すべてが謎すぎるし、このイケメンが次々とパワーワードを繰り出してくるインパクトに耐えられない。

「結城くんは、部室の掃除の下見をしたんだ」

 話をそらすと、結城くんは深々と頷いた。

「理太郎でいい」
「おん……理太郎、くん」

 いきなりぶっこんでくる。びっくりした。
 俺がなんとか返事をすると、結城……理太郎くんはちょっとだけはにかんだ。

「ありがとう。みんなからは理太郎くんと呼ばれているんだ」

 なんだこの男。急にかわいげを見せるな、びっくりするだろ。
 理太郎くんはクッキーを食べ終わると、ゴミになった包装を丁寧に畳んだ。

「預かる」

 それが包装のことだと気づいて、とっさに渡す。理太郎くんはゴミ箱に包装を捨てて、「行こう」と俺を呼んだ。そのまま開きっぱなしの引き戸から出ていく。
 慌てて追いかけると、理太郎くんは部室のドアを全開にした。

 改めて中を見ると、ひどい。謎の角材、謎の黒い布、謎のポール。机には木箱が山積みになっていて、奥には椅子が雑に積み上げられている。隙間を埋めるみたいに座布団やらクッションやらが敷き詰められていた。
 俺が絶句している間に、理太郎くんは中に入っていった。荷物をかき分けてえっちらおっちら奥へと行って、首だけ回して俺を見た。

「一旦、廊下へ荷物を出そうか」

 こうなったら、やるしかない。俺はため息を押し殺して、「分かった」と大人しく返事をした。