あの日。
翔が自分の気持ちを認めてから、
何かが大きく変わったわけではない。
仕事は仕事。
社長は社長。
部下は部下。
その関係は何一つ変わらない。
……はずだった。
変わったのは、翔の心だけだった。
「坂城くん。」
資料を整理していると、聞き慣れない声に呼び止められた。
顔を上げると、他部署の課長だった。
「はい。」
「少し時間ある?」
「大丈夫ですよ。」
「昼でも食べながら話さない?」
「分かりました。」
仕事の相談だろう。
そう思って、何の疑いもなく頷いた。
翔の視線は自然とその二人へ向いていた。
「……。」
「社長。」
月里が隣に立つ。
「何だ。」
「見てますね。」
「見ていない。」
「今ので十九回目です。」
「数えるな。」
「今日は少なめですね。」
「……。」
「午前中だけなら。」
翔は何も返さない。
ガラス越しに見える望琴は、課長と楽しそうに笑っていた。
笑っている。
ただ、それだけ。
それだけなのに胸の奥が少しざわつく。
(……何の話だ。)
気になる。
仕事の話だとは分かっている。
それでも、気になってしまう。
翌日。
「坂城。」
「はい。」
「昨日は何の話だった。」
「あぁ、昨日ですか?」
望琴は思い出したように笑う。
「異動の話でした。」
「……。」
その一言で翔の手が止まる。
「異動?」
「はい。」
「向こうの部署に来ないかって。」
「……。」
静かな空気が流れる。
「もちろん断りましたけど。」
「……そうか。」
短い返事。
それだけ、それだけなのに。
胸の中に張り詰めていた何かが、ふっとほどけた。
安心した。
……安心?
(俺は、何を。)
その日の夕方。
「社長。」
「何だ。」
「顔に出てますよ。」
「……。」
「安心しました?」
「……。」
「坂城さんが引き抜かれなくて。」
翔は答えない。答えられなかった。
それから数日後。
望琴は体調を崩し仕事を休んだ。
朝、いつもなら一番に届くはずの「おはようございます」が聞こえない。
「南。」
「はい?」
「坂城は。」
「今日はお休みです。」
「熱が出たみたいで。」
「……そうか。」
短く返す。
だが、その日。
翔は何度も時計を見ていた。
いつもなら聞こえるタイピングの音。
資料をめくる音。
「はい。」と返事をする声。
全部ない。会社はいつもと同じなのに。
何かが足りなかった。
「社長。」
「何だ。」
「静かですね。」
「いつもだ。」
「違います。」
月里は笑う。
「坂城さんがいないからですよ。」
「……。」
「朝から何回入口見ました?」
「見ていない。」
「七回です。」
「……。」
「来るわけないのに。」
翔は目を閉じ、小さく息を吐いた。
「仕事をしろ。」
「しています。」
「それを言うなら…」
「?」
「社長も、仕事してください。」
「……。」
そう月里に言われ返す言葉もなかった。
その日の仕事終わり、翔はスマートフォンを手に取る。
画面を開いては閉じる。
そしてまた開く。
それを何度も繰り返したあと、ようやく一通だけ送った。
体調は。
たった4文字。
送信を押したあと、自分でも苦笑する。
(短すぎるだろ。)
一方、その頃。
望琴は熱でぼんやりした頭のままスマホを見る。
《由城 翔》
「……社長?」
メッセージを開く。
体調は。
それだけ。たったそれだけ。
思わず笑ってしまった。
「社長らしいな……。」
すぐに返事を打つ。
ご心配ありがとうございます。
熱も下がってきたので大丈夫です。
明日には、出社できると思います。
ご迷惑おかけしました。
送信すると、数分後。
無理するな。
その一言だけ返ってきた。
「……。」
望琴は画面を見つめたまま、小さく笑う。
「本当に社員思いだな。」
その様子を、もし南や月里が聞いたら間違いなく叫ぶだろう。
「違うーーーそうじゃないーーーー!!」
と。
でも、当の本人だけは気付かない。
翔が特別に気に掛けていることも。
誰よりも心配していることも。
全部。
“社長だから”
そう思っているのだから。
月里が翔に静かに言う。
「社長。」
「何だ。」
「もう、失いたくないんでしょう。」
翔は否定しない。
その沈黙が答えになる。
そして月里が最後に背中を押す。
「だったら、伝えてください。」
「坂城さんは、本当に気付かない人ですから。」
翔は少し笑って、
「……あぁ。」
とだけ答える。
