あの日。
俺はまだ知らなかった。
由城翔という人間が、俺にとってどれほど大きな存在になるのか。
ただの上司。
少し変わった社長。
それくらいにしか思っていなかった。
……あの時の俺に言ってやりたい。
数年後、
一生大切にしたい人になるということを。
社長の帰りを、毎日待つ日が来るなんて思ってもみなかった。
「望琴?」
「ん?」
「ねぇそういえばさ、」
「どうした?」
「転勤初日に俺に無理難題書類突きつけた時に20時まで残ってたよね。」
「……。」
「あの時、翔って意外と面倒見いいんだなって思ったよ。」
「違う。」
「え?」
「勘違いするな。あれは……あれだよ。お前が倒れそうだったから。」
勘違い??倒れそうだったのを心配してくれてたんだよね?
それを面倒見がいいって言っただけなのに。
違うって全くもって意味が分からない。
いつまで経っても、翔はこういうところだけ素直じゃない。
でも、そんな風に必死に否定する姿が、昔よりもずっと近く感じられて可愛いと思ってしまった。
「……。」
「何笑ってる。」
「え?」
「今、笑っただろ。」
「いや?」
「嘘だ。」
「翔には分かるの?」
「分かる。」
即答だった。
その返事に、思わず口元が緩む。
「そうだよね……やっぱり、すごいね。」
「何が。」
「昔はさ。」
「?」
「俺、翔が何考えてるか全然分からなかった。」
「……。」
「怖い社長だと思ってたし。」
「それは今でも失礼だろ。」
「だって初日にあの量の書類渡してきたじゃん。」
「お前ならできると思った。」
「……。」
あまりにも当たり前のように言うから、一瞬言葉に詰まった。
「そういうところ。」
「何が。」
「そういうところがずるいんだよ。」
「?」
「本人は何でもないことみたいに言うから。」
翔は少し黙った。
そして小さく息を吐く。
「望琴。」
「ん?」
「お前も変わったな。」
「そう?」
「あぁ。」
「どこが?」
少し考えるような間。
「前より、俺を見るようになった。」
「……。」
胸の奥が少しだけ温かくなる。
目が見えなくなってから俺はたくさんのものを失った。
でも、見えなくなったからこそ、分かるようになったものもある。
声の揺れ。
呼吸の間。
歩く音。
そして翔が、どれだけ俺のことを大切にしてくれているか。
「翔。」
「ん。」
「ありがとう。」
「……急だな。」
「言いたくなった。」
「……。」
少しの沈黙。
すると、
「俺の方こそ。」
小さな声が返ってきた。
「え?」
「何でもない。」
「今、何か言った?」
「言ってない。」
「絶対言った。」
「気のせいだ。」
「また強がってる。」
「……。」
「翔。」
「なんだ。」
「そういうところ、可愛いよ。」
「……。」
「照れた?」
「照れてない。」
「分かりやすい。」
「望琴。」
「ん?」
「うるさい。」
そう言いながらもきっと今、翔は笑っている。
俺にはもう、表情ははっきり見えない。
それでもこの人がどんな顔をしているのか。
今なら分かる気がした。
