その日から、望琴の長いリハビリ生活が始まった。
最初は何もかもが思うようにいかなかった。
ベッドから起き上がること。
歩くこと。
食事をすること。
今までなら何も考えずにできていたこと。
それが一つ一つ。
「できるようになるための練習」になった。
「……っ。」
手を伸ばす。
目の前に置かれたコップ。
距離は分かっているはずなのに、あと少しのところで手が届かない。
「……。」
何度目か分からない失敗。
望琴は小さく息を吐いた。
「悔しいな。」
ぽつりとこぼれた言葉。
その横で。
翔は何も言わなかった。
以前なら。
すぐに手を貸していた。
危ない。
無理するな。
そう言って全部自分がやろうとしていた。
でも今はただ隣にいる。
望琴が自分の力で掴むまで。
待っている。
それが、今の翔にできることだった。
「……翔。」
「何だ。」
「今。」
「助けようとしたでしょ。」
「……。」
図星だった。
「顔見えなくても分かるから。」
「……。」
「ほんと分かりやすいよ。」
望琴が笑う。
翔は少し困ったように目を逸らした。
「……悪い。」
「謝ることじゃない。」
「でも。」
少し間を置いて。
「ありがとう。」
その言葉に、翔は黙った。
それから少しずつ望琴は新しい生活に慣れていった。
右目の視力は完全に戻ることはなかった。
でも距離が近ければ。
輪郭が分かる。
人の存在を感じることができる。
そして何より、
声が分かる。
足音が分かる。
誰よりも。
翔だけは。
どんな場所にいても分かった。
[newpage]
退院の日。
病院を出る時、望琴は少しだけ立ち止まった。
「……。」
「どうした。」
翔が聞く。
「いや。」
「なんか不思議だなって。」
「何が。」
「事故に遭う前は。」
「当たり前に見えてたものが。」
「今は見えない。」
「でも。」
少し笑う。
「見えなくなったから分かったこともあるなって。」
翔は黙って聞いていた。
「声とか。」
「温度とか。」
「誰が近くにいるかとか。」
「前より分かる気がする。」
そして。
「翔がいるってこと。」
その言葉に翔は少し俯いた。
それから数ヶ月後。
生活も少しずつ落ち着いてきた頃。
二人で静かな時間を過ごしていた。
望琴は隣にいる翔の気配を感じながら。
ふと口を開く。
「翔。」
「何だ。」
「まだ俺のこと。」
「守れなかったって思ってる?」
翔は答えないそれが答えだった。
「……。」
望琴は小さく息を吐く。
「翔。」
「俺さ。」
「事故の日から。」
「何回も思ったんだ。」
「目が見えなくなって怖かった。」
「何も分からなくなって。」
「もう前みたいには生きられないって思った。」
少し間を置く。
「でも。」
「翔の声が聞こえた。」
「翔が隣にいた。」
「それだけで大丈夫だって思えた。」
翔の手が少し震える。
「だから。」
「俺に光をくれたのは翔だよ。」
「……。」
翔は俯いた。
「……違うか。」
望琴は小さく笑う。
「俺が翔に光をあげたのかもね。」
「……望琴。」
「だって翔。」
「自分が暗闇にいること。」
「気付いてなかったでしょ。」
その言葉に翔は何も言えなかった。
俺は昔光を与える側だと思っていた。
誰かを守ることが。
誰かを支えることが。
自分の役目だと思っていた。
でも違った。
俺もまた誰かに支えられていた。
暗闇の中で俺を見つけてくれた人がいた。
俺に光をくれたのは、
坂城望琴だった。
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ある休日。
「望琴。」
「ん?」
「少し出掛けるか。」
「いいよ。」
二人で家を出る。
行き先は言わない。
望琴も聞かない。
「翔が連れて行ってくれるなら、どこでもいい。」
その一言に。
翔は少しだけ照れくさそうに笑った。
「責任重大だな。」
「うん。」
「任せた。」
その返事が嬉しくて。
翔は自然と望琴の歩幅に合わせて歩いた。
以前なら、
「危ない。」
「段差だ。」
「こっちだ。」
そんな言葉ばかりだった。
でも今は違う。
「望琴。」
「ん?」
「右に二歩。」
「了解。」
「その先に少しだけ段差。」
「ありがとう。」
必要なことだけを伝える。
望琴も、自分で歩く。
困った時だけ翔の腕にそっと触れる。
その距離が、今の二人にはちょうどよかった。
しばらく歩くとふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。
「……。」
望琴が立ち止まる。
「花?」
「あぁ。」
「分かる?」
「匂い。」
少し笑う。
「前より敏感になったから。」
翔は小さく頷く。
「着いた。」
「ここ。」
「覚えてるか。」
望琴は周囲へ耳を澄ませる。
風が葉を揺らす音。
遠くで遊ぶ子どもたちの笑い声。
そして。
優しく風に乗ってくる花の香り。
「あ……。」
思い出した。
「ここ。」
「うん。」
「初めて一緒に来た公園。」
「そうだ。」
事故の少し前。
仕事帰りに缶コーヒーを飲みながら座った、あの場所。
ベンチへ腰を下ろす。
「懐かしいね。」
「あぁ。」
「ここで。」
「翔、変なこと言ったもんね。」
「……。」
「『お前が笑うと安心する』って。」
「……忘れろ。」
「まだ言う?」
望琴が声を上げて笑う。
「俺、あの時嬉しかったんだから。」
「……。」
「でも。」
「社長って社員思いなんだなって思ってた。」
翔は静かに額へ手を当てた。
「思い出させるな。」
「ふふ。」
「今なら分かるよ。」
望琴は隣へ少し身体を寄せる。
「あれ。」
「告白だったんだよね。」
「……。」
翔は返事をしなかった。
代わりに少しだけ肩が触れる距離まで近付いた。
「遅すぎる。」
ぼそっと呟く。
「半年くらい。」
「勘違いしてた。」
「ごめん。」
「……。」
「でも。」
望琴は笑う。
「ちゃんと言葉にしてくれたから。」
「今がある。」
翔はゆっくり空を見上げた。
青空だった。
事故の日と同じくらい綺麗な空。
でもあの日とは違う。
隣にいる温もりを失ってはいない。
「望琴。」
「ん?」
「ありがとう。」
「何が?」
「生きていてくれて。」
望琴は少しだけ目を細める。
右目に映る翔の姿は輪郭しか分からない。
それでもその声も。
温もりも。
握ってくれる手も。
全部分かる。
「こちらこそ。」
「ありがとう。」
「翔。」
「ん?」
「これからも。」
「俺の隣にいて。」
翔は迷わなかった。
「あぁ。」
その返事と同時に。
そっと望琴の手を握る。
今度は守るためじゃない。
支え合うために。
二人で歩いていくために。
その手を翔はもう二度と離さなかった。
