その日の夜。
病室の中は静かだった。
窓の外では街の明かりが小さく光っている。
翔は椅子に座り、眠ったままの望琴を見つめていた。
事故の日から何度も見た。
けれど見るたびに思う。
どうして目を開けないんだ。
どうしていつものように。
「翔。」
そう呼んでくれないんだ。
「……望琴。」
名前を呼ぶが返事はない。
「なぁ。」
「聞こえているか。」
そんな言葉にも返事はない。
それでも翔は話し続けた。
「俺。」
「お前に言わなきゃいけないことがある。」
少し間を置く。
「……。」
「たくさんある。」
「最初は変な奴だと思っていた。」
小さく笑う。
「大量の仕事を渡ていたから根を上げて絶対辞めると思っていた。」
「なのに。」
「お前は。」
「文句を言いながらも全部やりきった。」
「すごいと思った。」
「その時から。」
「たぶん。」
「俺はお前を見ていた。」
翔は望琴の手をそっと握る。
「気付いたら。」
「お前がいる場所を見るようになっていた。」
「仕事をしている姿。」
「誰かに優しくするところ。」
「くだらないことで笑うところ。」
「全部。」
「好きになっていた。」
声が少し震える。
「……なのに。」
「俺は。」
「ちゃんと言わなかった。」
「いつでも言えると思っていた。」
「明日でいいと思っていた。」
「だから。」
「頼む。」
「目を覚ましてくれ。」
握った手に力が入る。
「怒っていい。」
「勝手に無茶するなって。」
「俺を頼れって。」
「何回でも言ってくれ。」
「だから。」
「もう一度。」
「俺の名前を呼んでくれ。」
その時。
ほんの僅かに。
望琴の指が動いた。
「……。」
翔は息を止める。
「望琴?」
気のせいかもしれない。
でも確かに今、動いた。
「望琴。」
椅子から立ち上がる。
「望琴。」
もう一度。
今度は祈るように。
「……俺の声。」
「聞こえているか。」
その声に返事はなかった。
それでも。
翔は手を離さなかった。
何日も。
何度も。
この手が動く瞬間を願っていた。
だからほんの少しでも。
望琴がここに戻ってきてくれたことが。
信じられなかった。
「望琴。」
「俺だ。」
声が震えそうになるのを必死に抑えた。
怖かった。
でも大きな声を出したり、焦りを見せたら、目を覚ました望琴が不安になる気がした。
「……。」
「大丈夫だ。」
「ここにいる。」
その言葉に返事はないけれど。
繋いだ手の中でまたほんの少し指が動いた。
「……っ。」
翔の息が止まる。
「望琴。」
その声に反応するように。
ゆっくり。
ゆっくり。
望琴の意識が浮かび上がっていく。
暗くて何も見えない。
でも不思議と怖くなかった。
どこか遠くで誰かの声がする。
「望琴。」
その声を知っている。
ずっと、ずっと聞いていた。
「……翔。」
掠れた声。
自分でも。そんな声が出たことに驚いた。
「……。」
一瞬、時間が止まったようだった。
「望琴……?」
翔の声が揺れる。
「今。」
「今、名前……。」
「呼んだか。」
望琴はゆっくり息を吐く。
身体が重い。
頭もぼんやりする。
何が起きているのか。
まだ全部は理解できない。
でもこれだけは分かる。
すぐ近くに翔がいる。
「……翔。」
もう一度名前を呼ぶ。
「いる?」
その一言に。
翔の胸が締め付けられた。
まるで迷子になった子供が、
大切な人の存在を確かめるような声だった。
「いる。」
即答だった。
「ここにいる。」
「ずっといる。」
その言葉に。
望琴の表情が少しだけ緩む。
「……そっか。」
小さく呟く。
「よかった。」
「……。」
翔は言葉を失う。
普通なら自分の状態を心配するはずだろう。
事故のこと。
身体のこと。
これからのこと。
でも、望琴が最初に口にしたのは。
自分がここにいることへの安心だった。
「……望琴。」
「ん。」
「何か。」
「痛いところはないか。」
「……。」
少し考えて。
「いっぱいある。」
「……。」
「でも。」
「翔がいるなら。」
「大丈夫。」
その瞬間。
翔の中で張り詰めていたものがほんの少し崩れた。
「……。」
「翔?」
返事がない。
「泣いてる?」
「……泣いてない。」
反射的に返す。
いつもの。
素っ気ない否定。
でもその声はいつもよりずっと弱かった。
「嘘。」
「……。」
「分かるよ。」
望琴は目を閉じたまま小さく笑う。
「翔のこと。」
「俺、分かるから。」
その言葉に翔は俯いた。
見られていなくても。
隠したかった。
自分がどれだけ怖かったのか。
どれだけ望琴を失うことに怯えていたのか。
でも、もう隠せなかった。
「……おかえり。」
「え?」
望琴が小さく反応する。
翔は握った手に少し力を込めた。
「……おかえり、望琴。」
何度も、何度も。
心の中で願っていた言葉。
「帰ってきてくれて。」
「ありがとう。」
「……。」
「ずっと。」
「待ってた。」
その言葉の後。
しばらく二人の間には静かな時間が流れた。
翔は握った手を離せなかった。
本当に戻ってきてくれたのか。
夢じゃないのか。
何度も確かめるようにそこにある温もりを感じていた。
でもまだ何も終わっていない。
望琴がこれから向き合わなければならない現実がある。
そして翔自身も。
それを一緒に受け止めなければならなかった。
「……坂城さん。」
静かな声が病室に響いた。
名前を呼ばれて望琴はゆっくり顔を向ける。
声のする方向。
それだけは今まで通り分かる。
「担当の先生が来たよ」
翔の声。いつもなら落ち着いていて何でも判断できる声。
でも今は少しだけ震えていた。
「意識が戻られて、本当に良かったです。」
医師は優しく声をかける。
「ただ。」
その一言で空気が変わった。
「今後のことについて、お話しさせてください。」
「……はい。」
望琴は静かに返事をした。
「今回の事故による外傷ですが。」
「頭部への強い衝撃と、目の周辺への損傷がありました。」
「特に左目については。」
医師は少し言葉を選ぶ。
「視神経への損傷が大きく。」
「現在の医学では、視力の回復は非常に難しい状態です。」
「……。」
部屋が静かになる。
望琴はすぐには何も言わなかった。
ただその言葉を。
一つずつ頭の中で整理していた。
左目が見えない。
その事実が。
少しずつ現実になる。
「右目についてですが。」
「幸い、完全に失われてはいません。」
「ただ、以前と同じように見える状態まで戻るかは分かりません。」
「今後は。」
「残された視力をどう活かしていくか。」
「生活に必要な動作を取り戻していくリハビリが大切になります。」
「……。」
望琴は膝の上で手を握った。
怖くない。
そう言えば嘘になる。
今まで当たり前だったものが突然変わる。
仕事も。
生活も。
これから先のことも。
何も分からない。
でも隣にいる気配だけは分かった。
翔がいる。
震えるほど強く。
手を握りしめている。
「翔。」
「……何だ。」
「顔。」
「見えないけど。」
「たぶん。」
「すごい顔してる。」
翔の呼吸が止まる。
「……。」
「なんで。」
「俺より辛そうなの。」
その言葉で。
翔は初めて気付いた。
自分は。
望琴のためだと思いながら。
一番苦しんでいたのは。
自分自身だったのかもしれない。
「……望琴。」
「ん。」
「怖くないのか。」
少しの沈黙。
「怖いよ。」
即答だった。
翔は顔を上げる。
「怖い。」
「悔しい。」
「これからどうなるんだろうって思う。」
「でも。」
望琴は翔の手を探し、その手に触れる。
「翔がいるから。」
「……。」
「大丈夫って思える。」
その瞬間翔の中で張り詰めていたものが少しだけ崩れた。
