君が僕に光を与えてくれた。


何が起きたのか。
理解するまでに時間がかかった。
朝には確かに隣にいた。
笑っていた。
帰ったら一緒にご飯を食べようと約束していた。
それなのに。
今、俺の目の前には。

「……望琴。」

呼んでも返事をしない人がいる。

「望琴……?」

もう一度呼ぶ。
いつもなら、

「何?」

少し面倒そうな声で返してくれる。

「翔、呼びすぎ。」

なんて笑う。
そんな当たり前のやり取りが今はどれだけ願っても返ってこない。

「……嘘だろ。」

初めてだった。
自分の声が震えていることに気付いたのは。
仕事でどんな問題が起きても。
冷静に判断してきた。
社員が困っていても。
会社に大きなトラブルが起きても。
感情より先に解決策を考えてきた。
なのに望琴が倒れている。
それだけで何も考えられない。
動きもしない恋人。
辺りには車の破片や望琴の血が飛び散り見ていられない。
胸が苦しい。

「大丈夫ですか!?」

誰かの声が聞こえる。

「救急車、呼びました!」

周囲が慌ただしく動く。
でも俺には。
望琴しか見えていなかった。

「……望琴。」

震える手を伸ばす。
触れていいのか分からなかった。
怖かった。
触れた瞬間、これは夢じゃないと認めてしまう気がした。

「……起きろ。」

「頼むから。」

いつものように少し困った顔で笑ってくれ。

「翔。」

そう呼んでくれ。

「……望琴。死なないで。」

声が掠れる。
その時、救急隊員が俺の肩に触れた。

「あなたはご関係者ですか?」

一瞬、言葉に詰まった。
いつもなら迷わない。
恋人です。
そう答えるだけなのに喉が詰まる。

「……。」

何度も飲み込んだ言葉が。
やっと出た。

「……大切な人です。」

それだけだった。
救急車が到着し、病院へ着くまでの間の記憶はない。
病院の廊下はやけに静かだった。
聞こえるのは遠くで鳴る機械音。
誰かの足音。
そして自分の呼吸だけ。
目の前の扉の向こうには望琴がいる。
それなのにあまりにも遠く感じた。

「……。」

翔は椅子に座ったままただその扉を見つめていた。
いつもならいち早く状況を整理して必要なことを考える。
次に何をするべきか判断する。
それが当たり前だった。
会社で何か問題が起きた時も、
社員が困っている時も、
自分が冷静でいれば。
必ず解決できると思っていた。
でも、今だけは。
何を考えても。
答えが出なかった。

「社長。」

月里の声。

「……。」

返事をしない翔を見て。
月里は少しだけ眉を下げた。

「社長。」

もう一度呼ばれて。
ようやく顔を上げる。

「何だ。」

いつもの声。
いつもの表情。
でも月里には分かった。
これはいつもの翔ではない。
感情を押し込めて無理やり立っているだけだ。

「……自分を責めてますか。」

「……。」

沈黙が流れる。
でもそれが答えだった。
もし、俺がもっと早く気付いていたら。
もし、俺が先に動いていたら。
もし、あの瞬間望琴の前に立てていたら。
そんな考えが何度も頭の中を巡る。

「俺が。」

声が出た。
自分でも驚くほど弱い声だった。

「……俺が守るはずだった。」

月里は何も言わなかった。
いつものように冗談を言うことも。
軽口で空気を変えることもせず。
ただ静かに聞いていた。

「なのに。」

翔の手が強く握られる。

「また。」

「望琴に守られた。」

その言葉を口にした瞬間。
胸の奥が締め付けられるようだった。
悔しかった。
悲しかった。
怖かった。
守りたいと思っていた人に、守られてしまったことが。
そして、その人が今自分の声に答えてくれないことが。

それから数日。
翔は変わらないように見えた。
会社への連絡。
仕事の指示。
必要な判断。
全ていつものようにこなしていた。
周りから見れば、いつもの由城翔だった。
でも月里と南だけは気付いていた。
少しずつ彼の心が壊れていることに。

「社長。」

社長室に入った月里は。
机の上を見て眉を寄せた。
机の上には冷めたコーヒー。
開いたままの資料。
そして同じページを見つめたまま動かない翔。

「……社長。」

「何だ。」

返事はすぐに返る。

「その資料。」

「何か。」

「もう一時間以上、同じところ見ています。」

「……。」

翔の手が止まる。

「考え事をしていた。」

「そうですか。」

月里は小さく息を吐く。

「では質問を変えます。」

「何ですか。」

「いつ寝ましたか。」

「寝ている。」

「何時間ですか。」

沈黙。

「……。」

また答えない。

「食事は。」

「した。」

「いつですか。」

また沈黙が続く。
月里は目を伏せた。

「社長。」

「何だ。」

「それ。」

「大丈夫な人の状態じゃないです。」

翔は何も言わなかった。
言えなかった。
眠ろうとしても、目を閉じれば最後に見た望琴の姿が浮かぶ。
自分に向かって走ってきた姿。
自分を庇った瞬間。
倒れた姿。
何度も、何度も頭の中で繰り返される。

「……。」

「社長。」

月里の声。

「休んでください。」

「無理だ。」

即答だった。

「なぜですか。」

翔は病室の方を見る。

「望琴が目を覚ました時。」

少しだけ声が震える。

「俺がいなかったら。」

「誰が最初に名前を呼ぶ。」

月里は息を止めた。
違う。
この人は会社のことでも。
社員のことでも。
ここまで取り乱したことはない。
それほど坂城望琴という存在が。
この人の中で大きくなっていた。

「……社長。」

「何だ。」

「怖いんですね。」

「……。」

否定しなかった。

「失うのが。」

長い沈黙。
そして小さな声。

「……あぁ。」

「怖い。」

初めて聞いた。
由城 翔の弱音だった。

「……怖い。」

その言葉を口にした瞬間。
翔自身が一番驚いていた。
自分がそんな言葉を誰かに言う日が来るなんて思ってもいなかった。
怖い。失うのが怖い。
そんな感情を自分が持っていることすら今まで認めたことがなかった。

「社長。」

月里が静かに呼ぶ。

「……。」

翔は返事をしなかった。
ただ。机の上に置かれたスマホを見る。
そこには望琴との最後のメッセージ。

『俺も向かう。』

『気を付けろ。』

たったそれだけ。
いつも通りの短いやり取り。
でも今はそれが何より大切なものに感じた。

「……。」

翔はスマホを握りしめる。

「俺は。」

小さく呟く。

「もっと。」

「ちゃんと伝えておけばよかった。」

月里は黙って聞いていた。

「大切だって。」

「好きだって。」

「ありがとうって。」

「いつでも言えると思っていた。」

その言葉に。
月里の胸が痛む。
翔は仕事では誰よりも先を見ている。
未来を考えて。
リスクを考えて。
何が起きても対応できるようにしている。
なのに一番大切な人への言葉だけは後回しにしていた。

「……社長。」

「何だ。」

「坂城さんは。」

「きっと。」

月里は少しだけ笑った。

「同じことを思っていると思いますよ。」

翔が顔を上げる。

「何を。」

「もっと伝えておけばよかったって。」

「……。」

「だから。」

「今は。」

「坂城さんが目を覚ました時に。」

「ちゃんと伝えてください。」

翔はしばらく黙っていた。
そして小さく。

「あぁ。」

と答えた。