あの日の朝は、何も変わらない朝だった。
カーテンの隙間から差し込む光。
聞き慣れた時計の音。
隣で眠る大切な人の寝息。
数ヶ月前までこんな日が来るなんて思っていなかった。
由城 翔。
俺の上司だった人。
最初は怖い人だと思っていた。
何を考えているのか分からなくて。
言葉も少なくて優しいのか、厳しいのかすら分からなかった。
でも、今は違う。
「……望琴。」
「ん……。」
「起きろ。」
「……あと五分。」
「昨日も言っていたな。」
「……。」
「起きないなら置いていく。」
「嘘。」
「なぜ分かる。」
「翔が俺を置いていけるわけないから。」
そう言うと、翔は少し黙った。
「……。」
「何?」
「いや。」
「?」
「そういうところだ。」
「何が。」
「……何でもない。」
そう言いながら、翔は少しだけ笑った。
昔の翔ならこんな顔、絶対に見せなかった。
俺だけが知っている表情。
俺だけに向けられる優しさ。
それが少しだけ嬉しかった。
「望琴。」
「ん?」
「今日、早く帰れるか。」
「珍しい。」
「予定がある。」
「仕事?」
「違う。」
翔は少しだけ視線を逸らした。
「……覚えてないのか。」
「え?」
「今日。」
「……。」
考える。
そして。
「あ。」
思い出した。
「記念日。」
「そうだ。」
「覚えてたんだ。」
「当然だ。」
即答だった。
思わず笑ってしまう。
「翔ってさ。」
「何だ。」
「そういうところ、本当に真面目だよね。」
「悪いか。」
「いや。」
首を横に振る。
「好きだなって思っただけ。」
「……。」
翔が固まる。
「翔?」
「……。」
「どうした?」
「いや。」
少しだけ耳が赤い。
「急に言うな。」
「本当のことなのに。」
「……。」
「照れてる?」
「照れていない。」
「嘘。」
「……。」
こういうところも可愛いと思ってしまう。
昔の俺なら絶対に思わなかったこと。
この人を大切だと思う日が来るなんて。
「じゃあ。」
玄関で靴を履きながら翔が言う。
「先に行ってくる。」
「うん。」
「帰ってきたらお祝いしよう。」
「分かった。」
「待っている。」
「俺も。」
「……。」
「翔が帰ってくるの待ってる。」
一瞬。
翔の表情が柔らかくなる。
「……あぁ。」
「行ってくる。」
「行ってらっしゃい。」
それが、最後になるなんてこの時の俺は知らなかった。
その日は、とても空が綺麗だった。
雲一つない青空。
風も穏やかで何も起こるはずがないそんな日だった。
仕事も順調でいつも通り。
パソコンの音。
社員たちの話し声。
変わらない日常。そのはずだった。
「坂城さん。」
「はい?」
南さんが声をかけてくる。
「今日、早く帰るんだって?」
「はい。」
「珍しいね。」
「約束があるので。」
そう言うと、南さんは優しく笑った。
「そっか。」
「?」
「なんか安心したな〜。」
「何がですか?」
「前の坂城くんだったら。」
「仕事ばっかりだったから。」
「……。」
「ちゃんと大切なもの、できたんだね。」
その言葉に胸が少し温かくなった。
大切なもの。
昔の俺ならそんな大切にしたいと思えるものができるなんて思わなかった。
でも今は帰りたい場所がある。
待っていてくれる人がいる。
それだけで。
毎日が少し違って見えた。
「じゃあ、また明日。」
「はい。」
会社を出る。
見慣れた夕暮れの街。
スマホを見ると翔からのメッセージがあった。
『もうすぐ終わる。』
短い文章。
でもそれだけで嬉しかった。
『俺も向かう。』
そう送る。
するとすぐに返信が来た。
『気を付けろ。』
思わず笑いが出る。本当に翔らしい。
「……心配性。」
小さく呟く。
でも、そんなところが好きだった。
長い信号を渡っているとその先にかけるの姿が見えた。
嬉しくて思わず声を上げた。
かけ……!
その時、遠くから大きな音がした。
最初は何か分からなかった。
鳴り響くクラクション。
人々の叫び声。
嫌な予感がして視線を向ける。
信号を渡ろうとしている翔のその先には制御を失った車。
その車に当てられこちらに向かってくるもう1台の車。
時間が止まったようだった。
「……翔。」
声が漏れる。
翔も気付いた。
目が合うその瞬間。
翔の顔が変わった。
俺を守ろうとする顔。
分かった。
この人は。
また。
自分より先に俺を守ろうとしている。
だから考えるより先に体が動いた。
「翔!!」
走りながら翔が手を伸ばす。
「望琴!!」
次の瞬間、強い衝撃で身体が浮く。
何かが聞こえる。
誰かの叫び声。
痛い。苦しい。
でも一番最初に思ったことは。
(翔が無事ならそれでいい)
それだけだった。
薄れていく意識の中、最後に聞こえた声。
「望琴!!」
初めて聞いた。
翔の壊れそうな声だった。
