君が笑う朝に

万輝がこんな風に人を頼ることが極端に苦手なのには訳がある。万輝がこうなってしまったのは、幼い頃の環境のせいだ。ここからは、万輝から聞いた話になる。その話を聞いたのは、今から少し前のことだった。その日は珍しく、万輝の方から昔の話をしてくれた。いつものように俺の隣に座っていたけれど、どこか様子がおかしかった。窓の外をぼんやりと眺めながら、万輝はぽつりぽつりと言葉をこぼしていった。
万輝は4人家族で、万輝の下には、5歳離れた弟がいる。弟が生まれてから、父親のDVが始まったそうで、それまで優しかった父親が、別人のようになったと話してくれた。そのクソみたいな父親は、弟ばかりを可愛がり、万輝には何かにつけて怒鳴るようになったそうだ。母親も、そんな父親を止めようとはしなかったらしい。
「お兄ちゃんなんだから」
その言葉を、万輝は何度聞いただろう。
弟が泣けば万輝のせい。
弟が怪我をすれば万輝のせい。
弟がわがままを言えば、万輝が我慢する。
そんな事が当たり前になって万輝は自分の気持ちを押し殺すことを覚えたのだ。そこまで話したところで、万輝は一度言葉を止めた。
「……変だよね」
「何が?」
「こんな話を今さらしてるの」
万輝は笑った。けれど、その笑顔はいつものものとは違った。
「俺、両親のこと……憎くてたまらなかったんだ」
少しの沈黙が流れる
「でも、無理やり施設に預けられるまでは、両親のことを嫌いになれなかった」
俺は何も言えなかった。なにか深い訳があるんだろうとは思っていたが、仲が悪くて…という話しか知らず……もしかしたら母は知っていたかもしれないがあえて伝えてなかったのだろう。何か言わなければと思うのに、口を開けば余計なことを言ってしまいそうだった。
だから、ただ隣にいることにした。万輝が話し終えるまで。
途切れ途切れに話す万輝。
「だって殴られたり、叩かれたり、嫌だったけど……時々優しくしてくれたんだよね」
万輝は自分自身の指先を見つめていた。
「欲しそうにしてたからって、おもちゃ買ってくれたりね」
「だから当時の俺は、父親ってやっぱり優しいんだって勝手に舞い上がってさ」
そこで万輝は、小さく笑った。
「だから、嫌いになれなかったんだよね」
笑っているのに、目には涙が溜まっていた。
「でも離れて初めて、自分の家がおかしいんだって気づいた」
「その時にはもう、どうしようもないところまで来てたんだけどね」
そう言って笑う万輝を、見ていられなかった。
呼吸が少しずつ早くなっていく。それでも万輝は泣かないようにしていた。いや、泣いているのに、泣いていないふりをしていた。俺はそんな万輝を見ながら、何もできない自分が嫌になった。抱きしめていいのかも分からない。大丈夫だと言っていいのかも分からない。
「辛かったね」なんて、簡単な言葉で済ませていい話じゃない。俺には分かってあげたくてもできないほどの痛みだったと思う。
大好きな家族に。
頼れるはずだった人に。
愛情をもらうはずだった人に。
そのすべてを期待していた相手から、愛情と一緒に傷つけられた。
そんな経験をした万輝が、人を頼ることができるわけがない。
「助けて」と言えるわけがない。
小学生の時に出会えたことが、奇跡だったのかもしれない。そんな環境の中で、万輝は自分を守るために、自分の気持ちを消すしかなかった。そんな環境下であったから辛くても、辛いと言わない。泣きたくても、泣かない。助けてほしくても、助けてと言わない。自分さえ我慢すればいい。自分がいなくなれば、みんな楽になる。そんな考えが、いつの間にか万輝の中に根付いてしまった。と言うより、そうするしか無かったのだ。5歳の年の差があったとしても、万輝だってまだ幼い子供だった。
「どうして?」
「僕には?」
「もしかしたら今日は……」
そんな小さな希望が、きっと何度もあったのだと思う。それでも、実の親から透明人間みたいに扱われる日々が続けば、それが万輝にとっての「普通」になってしまう。自分のことを話すことにも、時間がかかって当然だった。そんな話を聞いて、俺の中で何かが決まった。俺が万輝を救えるなんて思っているわけじゃない。俺一人で、万輝の過去をなかったことにできるわけでもないそれでも、もう、この人を一人にしたくないと思った。
「絶対に、この手を離さない」
そう、心の中で決めた。