君が笑う朝に

「話がある。」
向かいに座る恋人が静かにそう言った。
その声を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。
…あぁ、またか。何と言われた訳ではないが何となく、
きっと、別れ話だろうな。そう思った。
だって、これが初めてじゃないから。
「別れよう」そう言われたことは1度や2度じゃない。
まるで挨拶を交わすみたいに、まるで明日の話をするみたいに。万輝は時々そんな言葉を口にする。
だけど俺は、それには絶対に頷かない。
「……別れたくない」
そう言えば、万輝はいつも決まって困ったように笑う。
「なんで?」
「万輝が好きだから」
好きだから一緒にいたいと思うし、好きだから離れたくないと思う。それだけで十分だと思っていた。
けれど万輝からしてみれば違うのだろう。
アイツにとって俺は……消え去ってほしい存在なのかもしれない。俺が一方的に好きでいるから、別れることができないだけのこと。それは相手にとって苦痛でしかないし、世間の言葉で言えば、俺がアイツを束縛しているのかもしれない。それでも俺は、手を離すことができなかった。だって、こうやって繋ぎ止めておかなきゃ。
いつかアイツは消えてしまう気がした。
俺の知らないどこか遠い場所へ行ってしまうような気がしてならない。
そんな俺の恋人は、もうこの世にいたくないのだと言う。生きている意味が分からない。そう言って、何度も自分自身を傷つけようとする。俺が止めても、何を言っても、どうにもならない時がある。
だから最近では、万輝の周りには危険なものを置かないようにしている。少しでも様子がおかしければ、そばにいる。一人にしない。そう決めている。
「大丈夫?」
幾度となくそう聞けば、
「大丈夫だよ」
と笑う。でも、その笑顔が大丈夫じゃないことくらい、俺には分かる。万輝は昔から、何かを隠す時ほどよく笑う。本当に嬉しい時の笑顔とは少し違う。口元だけが柔らかく持ち上がって、目だけがどこか遠くを見ている。
まるで、今ここにいる自分を取り繕うような笑い方。最初は気のせいだと思っていた。けれど、何度も同じ笑顔を見ているうちに、いつの間にか分かるようになっていた。万輝が無理をしている時の顔。辛い時の顔。
そして、何もかもを諦めてしまいそうな時の顔。だから、少しでも様子がおかしいと思えば、そばにいるようにしている。学校でも、帰り道でも。家に帰ってからも、万輝の姿が見える場所にいる。以前はこんなことを気にしたことなんてなかった。同じ部屋にいても、それぞれ好きなことをしていたし、万輝が一人になりたいと言えば、少し離れて見守ることだってできた。でも、今は違う。万輝が一人になることの方が怖かった。
ほんの少し目を離した隙に、どこかへ行ってしまいそうで。
俺の知らないところで、俺の手の届かないところへ消えてしまいそうで。
だから、眠る時でさえ気になってしまう。隣から聞こえてくる寝息に安心して、ようやく眠れる夜も少なくなかった。そんな俺の気持ちなんて知らないように、万輝はいつも通りの顔をしている。今もそうだ。窓から差し込む夕暮れの光が、万輝の横顔を淡く照らしている。少し伸びた髪が頬にかかっていて、万輝はそれを鬱陶しそうに指先で払った。その仕草さえ、いつもと変わらない。
なのに、どうしてだろう。今日は妙に遠く見えた。手を伸ばせば届く距離にいるはずなのに、何枚も薄い膜を隔てた向こう側にいるような感覚がする。
「……」
俺は何も言わず、万輝を見つめた。万輝は気づいているのか、いないのか。膝の上に置いた手をゆっくりと握ったり開いたりしている。何かを考えている時の癖だった。指先が僅かに震えている。それを見て、胸の奥が締め付けられた。また何かを抱えている。そう思った。
けれど、それを無理やり聞き出すこともできなかった。
聞いたところで、万輝はきっと笑って誤魔化す。
大丈夫だよ、と。
何でもないよ、と。
そうやって、いつものように自分の中へ押し込めてしまう。俺がどれだけ手を伸ばしても、そこだけは届かない。万輝の心の奥には、俺の知らない場所がある。
俺と出会うよりずっと前から、万輝が一人で抱えてきたもの。俺には見ることのできない、暗くて深い場所。
そこに何があるのか。万輝が何を怖がっているのか。
どうしてこんなにも、自分のことを大切にできないのか。俺には分からない。ただ、分からないままでも、そばにいることだけはできる。そう思っていた。
それが俺にできる唯一のことだと思っていた。
だから今日も、万輝の隣にいる。何もできなくても。
何を言えばいいのか分からなくても。ただ、そこにいる。それだけでも万輝の支えになれるのなら、それでいいと思っていた。けれどそれは俺のただのエゴかもしれない。万輝を助けたい。そう思っているのは本当だ。
でも、本当に万輝のためを思うなら、俺は手を離した方がいいのかもしれない。そんな考えが頭をよぎることもある。それでも、できなかった。目の前にいる万輝を見てしまえば、そんなことはどうでもよくなる。今だって、少し俯いたまま黙っている万輝を見ていると、胸の奥がざわつく。何か言わなければ。何かしてあげなければ。そう思うのに、何をすればいいのか分からない。
俺はただ、隣にいることしかできない。
「……夏弥」
突然、万輝が顔を上げた。
「ん?」
「今日……」
何かを言いたそうだけど言わない。
何を感じただろう。何を伝えたいんだろう。
分からないけれど何となく寂しそうに見えたから
「どこにも行かないよ」
俺はそう答えて、万輝の隣へ少しだけ身体を寄せた。
万輝の肩が、俺の肩に触れる。それだけで、万輝の表情
がほんの少しだけ緩んだ。その夜、俺は万輝が眠りにつくまで、ずっと隣にいた。そして眠った万輝の顔を見ながら、何度も同じことを考えていた。
どうか明日も、コイツがここにいますように、と。