結局あの後、俺たちは一言も喋ることなく、一つの傘でゆっくり家まで歩いて帰った。
多分、この世で一番距離の遠い、相合傘。ちょっと大げさか。
期待した親密さとはほど遠かったけど、でも、ようやく一つ恋人らしいことができた。
それだけで、もう今日は良しとしよう。
圭吾は俺の家の前に着くと、傘の柄をぐいっと俺に押し付けてきた。
「……傘、ありがとうございました」
「いや、結局びしょ濡れじゃけどな」
「頭は濡れずに済んだんで」
俺は傘を受け取ると、ニヤニヤしながら圭吾の顔を見上げた。
「水も滴るいい男じゃん。右半身だけ」
「からかわんとって下さい」
圭吾はぎこちなく微笑むと、「それじゃ」と自分家の玄関に向かってぱっと駆け出した。
「あ、ちょっと!」
圭吾の家の前まで送ってやるつもりだったのに。それか、せめて自分家の前で傘返してくれればよかったのに。
そのどっちもしなかった圭吾は、せっかくここまで守ってきた頭を雨に晒しながら、もう一度振り返って笑顔で手を振ってきた。
「また明日!」
「いいから早よ家入れ!」
バタン、と圭吾の家の扉が閉まる。俺は無意識に、指先を自分の唇にそっと当てていた。
(水も滴る……か)
◇
また明日! とか言ったくせに、翌日圭吾は玄関前に現れなかった。
代わりに大学生の景子姉ちゃんが出てきて、圭吾の様子を教えてくれた。
「圭吾、熱38度あるんよ」
どうりで今朝はメッセージが来なかったわけだ。
「雨に濡れたくらいで熱とか、子供みたいでウケるじゃろ」
「いや、濡れたん俺のせいじゃし……」
罪悪感に胸がチクリと痛む。
景子姉ちゃんは俺の表情を見て、驚いたように目を丸くした。
「え、達巳なんも悪くないじゃん。むしろ傘無くした圭吾を傘に入れてくれたって聞いたんじゃけど」
「や、まぁ、そうなんじゃけど。でもあいつ、俺ばっかり傘に入れて、自分ほとんどはみ出しとったから」
「そりゃ、借りとる分際で達巳をはみ出させとったら、そっちのがおかしいじゃろ」
いや、姉ちゃんの言いたいことはわかるんじゃけど。それにしても、そこまでせんでもよかったと思う。
なんとなく沈んだ気分で通学路に向かった俺の背中に、姉ちゃんが追い討ちをかけるように声をかけてきた。
「そうそう。圭吾が言っとったけど、今日は面会謝絶じゃって」
「はぁ!?」
俺は勢いよく振り返ると、進んだ数歩を戻って姉ちゃんの前に立った。
「なに、あいつそんなに悪いん?」
「い〜や? しんどそうじゃけど、面会謝絶は大げさすぎるわ」
「もしかして……俺に会いたくないんかな?」
「まぁ確かに、わざわざ面会に来そうなんは達巳くらいじゃけど」
例えば、髪がボサボサで、目が腫れ上がっているから、俺には見られたくないとか?
気持ちは分かる。あいつはイケメンだし、俺は一応あいつの好きな人で——だから、カッコ悪い姿を見られたくないのかも知れない。
でも、何だろう。それってなんか、胸の奥がモヤッとする。
ほら、アニメでもよくあるじゃん。弱ってる時の看病イベント。付き合ってたら、そういう時頼りたくなるもんじゃないのか?
姉ちゃんは不思議そうに俺の顔をじっと見てから、ひょいっと片方の眉を上げた。
「圭吾の部屋の窓の鍵、いっつも開いとるよ」
「……え?」
「ほら、昔は達巳もよく窓から入って来とったじゃん。久々に使ってみたら? 別にドクターストップかかっとるわけでもなし。あんなこと言っとるけど、あいつ寂しがり屋じゃけぇ。顔くらい見せたったら?」
「でも……いいんかな? 圭吾怒ったりせん?」
「もしなんか言ってきたら、私んとこ遊びに来たって言えばいいよ。誰がお前の見舞いじゃ! 自意識過剰にも程があるわ! って、いつものノリでいいじゃん」
景子姉ちゃんもうちの母さんと似ていて、清楚な見た目のくせに妙に豪快なところがある。
「あ、お見舞いは駅前のカツサンドでよろしく」
「熱あるのにそんながっつりしたもん食えるん?」
「圭吾が残したら私がもらうけぇ」
それ、姉ちゃんが食べたいだけだよね?
そんなの分かりきっとったけど、俺は結局カツサンドの香ばしい匂いを漂わせながら帰宅した。
階段横の小窓はそこまで大きくないけど、圭吾が通り抜けられるくらいの大きさはあるから、俺に通れないはずがなかった。
久しぶりの通り抜けだ。ちょっと緊張してきた。
「よいしょっと」
まずはうちの小窓を開けてから、少し身を乗り出して圭吾の家の窓に手をかける。
そういえば……最近あいつ、ここから入って来とらんな。
ただ単に、付き合ってからうちに来る機会がたまたまなかっただけかもしれんけど——なんだか少しだけ気になった。
久々に手をかけた窓は、思ったより少し固かった。
「ふんっ!」
なかなか開かない窓につい気合を入れたら、逆にシャッと勢いよく開いてしまった。
スライドした窓がガツンと反対側にぶつかる音に、部屋の中でビクッと起き上がる気配がする。
(やっべ! 気づかれた!)
面会謝絶って言われたのに侵入する罪悪感とか、考えてる場合じゃなかった。
俺は圭吾が窓から顔を出す前に、階段横の小窓にガッと片足をかけると、そのまま一気に圭吾の部屋へ転がり込んだ。
「うわっ!」
ベッドが無い! と思った瞬間、俺は熱い体に抱きとめられていた
家具の配置が記憶と違っている。ここにはベッドがあったはずなのに。
がらんとした空間で、俺はポカンとしながら圭吾の顔を見上げていた。
「景子のやつ、なんも言っとらんかったですか!」
圭吾はガラガラ声でそう言うと、俺からぐいっと体を離した。
俺は思わず、さっきまで圭吾に掴まれていた自分の二の腕に手を当てた。
久しぶりの、圭吾の体温。めっちゃ熱かった。熱あるから当たり前だけど。
「……面会謝絶って言っとった」
「その意味分かっとります?」
「でも、あいつ寂しがり屋じゃけぇ、顔くらい見せたったら? とも言っとった」
「いらんことを」
ゴホッ、と咳き込みながら、圭吾はよろよろと自分のベッドに戻って行った。
「風邪うつったらいけんと思って、面会謝絶って言っとったのに」
(あ、そっちか……)
圭吾は顔色こそ悪かったが、目も腫れてないし、いつも通りのイケメンだった。
俺のこと、気遣ってのことだったんか。
俺は小さくため息をつくと、カツサンドの入ったビニール袋を圭吾に向かって突き出した。
「はい、お見舞い」
圭吾はベッドの上に上半身を起こして、ガサガサと音を立てながら袋を受け取った。
「ありがとうございます」
「え、そんな脂っこいもんでほんまに良かったん?」
病人にカツサンドかよ! ってツッコミを期待しとったのに。
「だってこれ、結構高いやつでしょう?」
「まぁ、高校生の財布にはまあまあ痛い値段じゃけど」
「達巳さんにもらったもんに、ケチなんかつけられませんよ」
なんなんそれ。調子狂うんじゃけど。
「じゃあ、今食べさせてやろうか?」
「……後でゆっくり食べます」
圭吾は横にある勉強机にカツサンドの袋を置くと、ベッドの上に倒れるように横になった。
「思ったよりしんどそうじゃね」
「そんなことありません」
「だったら、風邪うつるようなことする?」
圭吾はチラッと俺の顔を見てから、掛け布団を頭の上まで引っ張り上げた。
「しません!」
「看病くらいさせてや!」
「看病かよ!」
あ、圭吾の敬語じゃないツッコミ来た。
てか、看病じゃないことって……あ、そういうことか。
「え〜? 圭吾、何想像しとったん?」
ついふざけた調子で続けようとしたけど、圭吾からの返事はなかった。
被った布団が小刻みに上下している。これ以上、病人をからかうのはやめようか。
俺は鞄の中から別のビニール袋を取り出して、カツサンドの横に並べて置いた。
「そんじゃ、俺もう行くわ。本物のお見舞いこっちに置いとるから」
「偽物のお見舞いなんかあるんですか?」
「カツサンドは景子姉ちゃんにでもあげて、こっちの経口補水液でも飲んどきな」
「やっぱり奴のせいか」
布団の下のくぐもった声でも、姉に対してイラついているのがよく分かった。
仲良いよな。景子姉ちゃんと圭吾。俺は一人っ子だから、そういうのってちょっと憧れる。
鞄を担いで窓に向かった時、ふと気になって俺はもう一度ベッドに潜っている圭吾を振り返った。
「そういえば、ベッドの位置変えたん?」
「え? ああ、ちょうど一昨日ぐらいに変えたんです。前は窓から出るのに踏み台にしとったけど、もういらんかと思って」
チク、と胸の奥を、針の先で刺されたような小さな痛みが走った。
(……え? もう、ここからうちには来んってこと? 十年くらい、ずっとここから入って来とったのに?)
多分、この世で一番距離の遠い、相合傘。ちょっと大げさか。
期待した親密さとはほど遠かったけど、でも、ようやく一つ恋人らしいことができた。
それだけで、もう今日は良しとしよう。
圭吾は俺の家の前に着くと、傘の柄をぐいっと俺に押し付けてきた。
「……傘、ありがとうございました」
「いや、結局びしょ濡れじゃけどな」
「頭は濡れずに済んだんで」
俺は傘を受け取ると、ニヤニヤしながら圭吾の顔を見上げた。
「水も滴るいい男じゃん。右半身だけ」
「からかわんとって下さい」
圭吾はぎこちなく微笑むと、「それじゃ」と自分家の玄関に向かってぱっと駆け出した。
「あ、ちょっと!」
圭吾の家の前まで送ってやるつもりだったのに。それか、せめて自分家の前で傘返してくれればよかったのに。
そのどっちもしなかった圭吾は、せっかくここまで守ってきた頭を雨に晒しながら、もう一度振り返って笑顔で手を振ってきた。
「また明日!」
「いいから早よ家入れ!」
バタン、と圭吾の家の扉が閉まる。俺は無意識に、指先を自分の唇にそっと当てていた。
(水も滴る……か)
◇
また明日! とか言ったくせに、翌日圭吾は玄関前に現れなかった。
代わりに大学生の景子姉ちゃんが出てきて、圭吾の様子を教えてくれた。
「圭吾、熱38度あるんよ」
どうりで今朝はメッセージが来なかったわけだ。
「雨に濡れたくらいで熱とか、子供みたいでウケるじゃろ」
「いや、濡れたん俺のせいじゃし……」
罪悪感に胸がチクリと痛む。
景子姉ちゃんは俺の表情を見て、驚いたように目を丸くした。
「え、達巳なんも悪くないじゃん。むしろ傘無くした圭吾を傘に入れてくれたって聞いたんじゃけど」
「や、まぁ、そうなんじゃけど。でもあいつ、俺ばっかり傘に入れて、自分ほとんどはみ出しとったから」
「そりゃ、借りとる分際で達巳をはみ出させとったら、そっちのがおかしいじゃろ」
いや、姉ちゃんの言いたいことはわかるんじゃけど。それにしても、そこまでせんでもよかったと思う。
なんとなく沈んだ気分で通学路に向かった俺の背中に、姉ちゃんが追い討ちをかけるように声をかけてきた。
「そうそう。圭吾が言っとったけど、今日は面会謝絶じゃって」
「はぁ!?」
俺は勢いよく振り返ると、進んだ数歩を戻って姉ちゃんの前に立った。
「なに、あいつそんなに悪いん?」
「い〜や? しんどそうじゃけど、面会謝絶は大げさすぎるわ」
「もしかして……俺に会いたくないんかな?」
「まぁ確かに、わざわざ面会に来そうなんは達巳くらいじゃけど」
例えば、髪がボサボサで、目が腫れ上がっているから、俺には見られたくないとか?
気持ちは分かる。あいつはイケメンだし、俺は一応あいつの好きな人で——だから、カッコ悪い姿を見られたくないのかも知れない。
でも、何だろう。それってなんか、胸の奥がモヤッとする。
ほら、アニメでもよくあるじゃん。弱ってる時の看病イベント。付き合ってたら、そういう時頼りたくなるもんじゃないのか?
姉ちゃんは不思議そうに俺の顔をじっと見てから、ひょいっと片方の眉を上げた。
「圭吾の部屋の窓の鍵、いっつも開いとるよ」
「……え?」
「ほら、昔は達巳もよく窓から入って来とったじゃん。久々に使ってみたら? 別にドクターストップかかっとるわけでもなし。あんなこと言っとるけど、あいつ寂しがり屋じゃけぇ。顔くらい見せたったら?」
「でも……いいんかな? 圭吾怒ったりせん?」
「もしなんか言ってきたら、私んとこ遊びに来たって言えばいいよ。誰がお前の見舞いじゃ! 自意識過剰にも程があるわ! って、いつものノリでいいじゃん」
景子姉ちゃんもうちの母さんと似ていて、清楚な見た目のくせに妙に豪快なところがある。
「あ、お見舞いは駅前のカツサンドでよろしく」
「熱あるのにそんながっつりしたもん食えるん?」
「圭吾が残したら私がもらうけぇ」
それ、姉ちゃんが食べたいだけだよね?
そんなの分かりきっとったけど、俺は結局カツサンドの香ばしい匂いを漂わせながら帰宅した。
階段横の小窓はそこまで大きくないけど、圭吾が通り抜けられるくらいの大きさはあるから、俺に通れないはずがなかった。
久しぶりの通り抜けだ。ちょっと緊張してきた。
「よいしょっと」
まずはうちの小窓を開けてから、少し身を乗り出して圭吾の家の窓に手をかける。
そういえば……最近あいつ、ここから入って来とらんな。
ただ単に、付き合ってからうちに来る機会がたまたまなかっただけかもしれんけど——なんだか少しだけ気になった。
久々に手をかけた窓は、思ったより少し固かった。
「ふんっ!」
なかなか開かない窓につい気合を入れたら、逆にシャッと勢いよく開いてしまった。
スライドした窓がガツンと反対側にぶつかる音に、部屋の中でビクッと起き上がる気配がする。
(やっべ! 気づかれた!)
面会謝絶って言われたのに侵入する罪悪感とか、考えてる場合じゃなかった。
俺は圭吾が窓から顔を出す前に、階段横の小窓にガッと片足をかけると、そのまま一気に圭吾の部屋へ転がり込んだ。
「うわっ!」
ベッドが無い! と思った瞬間、俺は熱い体に抱きとめられていた
家具の配置が記憶と違っている。ここにはベッドがあったはずなのに。
がらんとした空間で、俺はポカンとしながら圭吾の顔を見上げていた。
「景子のやつ、なんも言っとらんかったですか!」
圭吾はガラガラ声でそう言うと、俺からぐいっと体を離した。
俺は思わず、さっきまで圭吾に掴まれていた自分の二の腕に手を当てた。
久しぶりの、圭吾の体温。めっちゃ熱かった。熱あるから当たり前だけど。
「……面会謝絶って言っとった」
「その意味分かっとります?」
「でも、あいつ寂しがり屋じゃけぇ、顔くらい見せたったら? とも言っとった」
「いらんことを」
ゴホッ、と咳き込みながら、圭吾はよろよろと自分のベッドに戻って行った。
「風邪うつったらいけんと思って、面会謝絶って言っとったのに」
(あ、そっちか……)
圭吾は顔色こそ悪かったが、目も腫れてないし、いつも通りのイケメンだった。
俺のこと、気遣ってのことだったんか。
俺は小さくため息をつくと、カツサンドの入ったビニール袋を圭吾に向かって突き出した。
「はい、お見舞い」
圭吾はベッドの上に上半身を起こして、ガサガサと音を立てながら袋を受け取った。
「ありがとうございます」
「え、そんな脂っこいもんでほんまに良かったん?」
病人にカツサンドかよ! ってツッコミを期待しとったのに。
「だってこれ、結構高いやつでしょう?」
「まぁ、高校生の財布にはまあまあ痛い値段じゃけど」
「達巳さんにもらったもんに、ケチなんかつけられませんよ」
なんなんそれ。調子狂うんじゃけど。
「じゃあ、今食べさせてやろうか?」
「……後でゆっくり食べます」
圭吾は横にある勉強机にカツサンドの袋を置くと、ベッドの上に倒れるように横になった。
「思ったよりしんどそうじゃね」
「そんなことありません」
「だったら、風邪うつるようなことする?」
圭吾はチラッと俺の顔を見てから、掛け布団を頭の上まで引っ張り上げた。
「しません!」
「看病くらいさせてや!」
「看病かよ!」
あ、圭吾の敬語じゃないツッコミ来た。
てか、看病じゃないことって……あ、そういうことか。
「え〜? 圭吾、何想像しとったん?」
ついふざけた調子で続けようとしたけど、圭吾からの返事はなかった。
被った布団が小刻みに上下している。これ以上、病人をからかうのはやめようか。
俺は鞄の中から別のビニール袋を取り出して、カツサンドの横に並べて置いた。
「そんじゃ、俺もう行くわ。本物のお見舞いこっちに置いとるから」
「偽物のお見舞いなんかあるんですか?」
「カツサンドは景子姉ちゃんにでもあげて、こっちの経口補水液でも飲んどきな」
「やっぱり奴のせいか」
布団の下のくぐもった声でも、姉に対してイラついているのがよく分かった。
仲良いよな。景子姉ちゃんと圭吾。俺は一人っ子だから、そういうのってちょっと憧れる。
鞄を担いで窓に向かった時、ふと気になって俺はもう一度ベッドに潜っている圭吾を振り返った。
「そういえば、ベッドの位置変えたん?」
「え? ああ、ちょうど一昨日ぐらいに変えたんです。前は窓から出るのに踏み台にしとったけど、もういらんかと思って」
チク、と胸の奥を、針の先で刺されたような小さな痛みが走った。
(……え? もう、ここからうちには来んってこと? 十年くらい、ずっとここから入って来とったのに?)



