親しき仲に、礼儀なんかいらんじゃろ!

 明日は絶対、圭吾に「手ぇ繋ごう」って言う!
 そう心に固く誓った、カラオケの翌日。
 ザーッ、という自然のBGMに、俺はベッドの上でゆっくりと重たい瞼を開けた。
(……え、あれ、うそぉ)
 シャッとカーテンを半分ほど引き開けると、どんよりと薄暗い湿った世界が目に飛び込んでくる。
「マジかよ〜」
 手繋ぎイベント、自然の力で強制終了。
「あ〜あ、てるてる坊主でも作っとくんだったかなぁ……」
 せっかく昨日、亮太とシミュレーションまでして予習しとったってのに。
 先延ばしにしたら、決心が揺らぎそうだ。
 まあでもこればっかりはどうしようもない。俺はため息をつくと、あくびをしながらのっそりと起き上がった。
 身支度を済ませて家を出ようとした時、ポンッと通知が鳴った。
 三日連続で同じ時間。彼氏からのメッセージっていうより、ただのアプリのリマインダー機能みたいだ。
『雨ですね。外で待ってます』
 雨ですね、なんて見れば分かること、前は一度も送ってきたことなんかなかったのに。
 付き合い始めたら、メッセージに季節の挨拶みたいなのが入り始めた。
 そのうち『拝啓』とか入れだすんじゃないだろうか?
 玄関の扉を開けると、ザーッという雨音が急に大きくなった。結構強めに降ってる。
 圭吾は大きめの黒い傘をさして、俺が出てくるのを待っていた。
「おはよう!」
「おはようございます!」
 うるさい雨音に負けないように、お互い大声で挨拶する。敬語でハキハキと挨拶されたら、まるで運動部の後輩みたいだ。
 傘の柄で塞がった圭吾の左手を恨めしげに眺めてから、俺は持ってきた自分の傘をバサッと広げた。
 大きめの傘のせいで、横に並んでも昨日より圭吾との距離が離れてしまっている。
(雨、最悪……)
 湿気のせいで髪もうねるし、空気もまとわりつく気がするし、低気圧で頭も痛い。
 運動靴が濡れないように気を遣って歩くのも、地味にストレスだ。
「体調、大丈夫ですか?」
 足元を見ながら歩いていたら、傘の向こうから圭吾がこちらを覗き込んできた。
「大丈夫。雨だから、ちょっと憂鬱なだけ」
「眉間に皺寄ってますよ」
「雨ってだけでテンション下がるくない?」
 俺の質問に、圭吾は少しだけ考えるような素振りをした。
「そう、ですかね……」
「荷物一個余分に増えるだけでうざいじゃん」
 もう一度圭吾の左手をチラッと見てから、俺は少し苛立ったような口調で言った。
 と、次の瞬間、急に圭吾が俺との距離を詰めてきた。
「……え?」
 圭吾の傘が、俺の傘の上に半分くらい重なる。
 前を歩く人は誰もいない。後ろからは、傘の影になって俺たちの姿は見えないはずだ。
「——っ!」
 俺の脳内に、パステルカラーの妄想が広がっていく。
『圭吾……! こ、こんな人前で——』
『傘が守ってくれてるから大丈夫』
 傘に隠れて白昼堂々公道でキス!
 俺は思わず目を瞬かせながら、こちらを覗き込んでいる瞳を見返した。
 圭吾の顔が近い。傘があるだけで、こんなに大胆な行動に出れるとは。雨、やっぱ最高!
 キ、キスする時って、どうするんだっけ? 目ぇとかつぶらんといけんのだっけ?
(で、でも、俺たちまだ手も繋いだことないのに——?)
 が、次の瞬間。
 圭吾はさっと傘の柄を右手に持ち替えると、空いた左手で俺の鞄を取り上げた。
「……え?」
「これで荷物一個減ったでしょ?」
 圭吾は得意げにそう言うと、両肩に鞄、右手に傘の柄を持って、再び通学路を歩き始めた。
(……あ、俺の鞄が濡れんように、傘重ねてくれたのね……)
 一瞬ぽかんとその場に突っ立っていた俺は、道の先で振り返った圭吾に呼ばれて、慌てて彼のところまで駆けていった。
「さ、さすがに雨の日まで持ってもらうのは悪いわ」
「今さら返す方が面倒なんで」
「えぇ〜……」
 確かに、もう一回傘が重なるまで近づいて、鞄が濡れないように受け取って……ってせんといけんけど。
「それに俺の傘、達巳さんのよりおっきめなんで」
「ほんまじゃ。なんでそんな傘おっきいん?」
 俺の質問に、圭吾はほんの一瞬だけ目を逸らした。
「……家にあったんで」
「いや、普段もっと小さいの使っとるじゃん」
「今日は、まあ……雨なんで」
 何その答え。
 まさか俺の鞄を持つために、わざわざ大きめの傘を用意してたとか?
 一瞬 “相合傘”が頭をよぎったけど、俺は一人で小さく首を振った。
(いや、もう何回も肩透かし食らってんだ。相合傘よりも、荷物持ちのための大きい傘って方が現実的じゃろ)
 俺は小さくため息をついてから、相変わらず手持ち無沙汰な右手を何度か開いたり閉じたりした。
 手元も寂しかったけど、それよりも——何となく唇の方が、物足りない気分だった。



 結局その日は一日中降り続いて、ジメジメとした空気にずっとまとわりつかれているような気分だった。
「今日は誰とも遊びに行かんのですか?」
「行かん行かん! みんな湿気にやられて、テンション下がっとるし」
 気怠い口調でそう言いながら、俺はチラッと圭吾を小さく睨みつけた。
 こいつが傘で隠れて——ってイベントをきちんと遂行してくれさえすれば、こんな曇天でももうちょっと鮮やかに見える一日だったろうに。
 圭吾は一瞬視線を泳がせてから、小さい声でボソッと呟いた。
「だったら——」
 しかし、続きを口にする代わりに、圭吾は軽く息を呑んだ。
「えっ、どしたん?」
「……傘が無い」
「ええっ! ちゃんと探したんか?」
 俺も圭吾と一緒に、玄関の傘立てを隅から隅まで探したが、本当にあのでっかい傘は見つからなかった。
 確かに朝、傘立てには似たような黒い傘がたくさん並んではいたけど——
「嘘じゃろ……あんなでかい傘間違うやつとかおるんか? 名前書いとらんかったん?」
「書いてませんでした。あれ、父さんの傘だったんで」
「マジかよ」
「すみません。達巳さんは先帰っとって下さい」
「まだ探すん?」
「いや、雨が弱くなったタイミングで走って帰ります」
 ザーッという雨音が、俺たちの立っている玄関まで響いていた。
 今日一日、ほとんど変わらないペースで降り続いている。
「……多分これ、弱くなるタイミングとかないんじゃね?」
「だから、俺はいいんで先に——」
「だったらさ」
 俺は圭吾の言葉を遮りながら、自分の傘を傘立てから引き抜いた。
「一緒に帰ろうや。俺の傘で」
 圭吾は一瞬ピタリとその場で動きを止めたが、すぐに慌てた様子で首を振った。
「ダメです! その傘じゃはみ出して濡れます」
「どうせ濡れて帰るつもりならいいじゃん」
「いや、俺じゃなくて達巳さんが……」
「家隣なのに、圭吾を見捨てて帰ったってバレたら母さんに叱られる」
 小学生の頃からずっとお隣さんの圭吾は、俺がしょっちゅう母親に怒られているのをよく知っていた。うちの母さん、見た目清楚な感じのくせに、怒るとめっちゃ口悪くなるんよね。
 圭吾は少し考えてから、渋々といった様子で頷いた。母さんの威力、絶大。
「分かりました。その代わり、傘は俺に持たせて下さい」
「え? まぁ、別にいいけど」
 圭吾は俺から傘を受け取ると、下校ラッシュを過ぎて閑散とした玄関の外でバサッとそれを広げた。
「……どうぞ」
 曇天の下で、すらっと足の長いイケメンがこちらに向かって傘を傾けている。
 こいつ、何やっても絵になるな。
「ほいじゃ、お邪魔しまーす。って、俺の傘なんじゃけど」
 軽くふざけた調子で傘の下に入ると、圭吾は俺の歩幅に合わせてゆっくりと歩き出した。
 これが、相合傘。
(……うん、これは悪くないかも)
 男同士だから、周りの目を気にする必要もないし。けど、一応ちゃんと恋人らしいシチュエーションだ。
 でも、何だろう……思ったより距離近くない気がする。もっとこう、肩とかぶつかるもんだと——
「——って圭吾、お前びしょ濡れじゃんか!」
 俺と肩が触れないように間を空けてるくせに、こっちに傘を思いっきり傾けてるから、圭吾の右半身はほとんど雨ざらしになっていた。
「頭は守られてるんでいいです」
「風邪引くぞお前」
「達巳さんの傘がちっさいんですよ」
 俺は黙って、中学の頃から使っている傘の錆びた骨組みを見上げた。
「だって……この傘、意外と壊れんし」
「物持ちいいですよね」
 圭吾はそう言いながら、ふっと目を細めた。
「友達も大事にするし、恋人もきっと、長く大切にしてくれそう」
 ……今なんか、恥ずかしい褒め方されんかったか?
 思わずじっと見つめると、圭吾も急に恥ずかしくなったのか、ふいっと顔を背けてしまった。
 ……え、ちょっと、どうしてくれるんこの空気! 俺濡れたくないし、相合傘で逃げ場なんかないのに!