親しき仲に、礼儀なんかいらんじゃろ!

 俺がそう言った瞬間、圭吾はさっき自分の体から離した俺の手を再びがしっと掴んだ。
「待って!」
 圭吾の切羽詰まった視線と俺の視線が、一直線に繋がる。
「それは嫌だ」
 そう口にしてから、圭吾は先ほどの自分の発言との矛盾に気がついたかのように、気まずげな表情で下を向いた。
「別れるのは……嫌です」
 気まずい沈黙が、圭吾の部屋に少しの間流れる。
 圭吾の手が熱い。熱くて、まるで怖がってるみたいに小さく震えている。
 俺は圭吾の手をそっと外すと、そのまま自分の手を圭吾のほっぺたにまで持ち上げて、学祭で姉ちゃんがやったみたいにぎゅうっと頬をつねってやった。
「痛たた!」
「目ぇ覚めたろ?」
 笑っている俺の顔を、圭吾は不安そうな表情でじっと見つめている。
「……達巳、さん?」
「言えたじゃん。ちゃんと自分の意思」
 頬から手を離すと、圭吾は何度か目を瞬かせた。
「ずうっと俺の言いなりなんて、お前らしくないじゃろ?」
「達巳さん、俺は——」
「圭吾が俺のこと、すごい大事にしてくれとるのはよく分かる。でもさ、俺は圭吾とは、ずっと遠慮のいらん仲でおりたいんよ。俺にしてやりたいことばっか考えるんじゃなくて、お前がしたいこともちゃんと言ってほしい。付き合う前は、もっと遠慮なく好き放題やっとったじゃん。それでその都度ケンカして、それでも今までずっと一緒にやってきたじゃん」
「そんなん……俺がしたいことなんて、できるわけないじゃないですか」
 圭吾の眉間に皺が寄っている。こいつ、結構頑固だな。
「俺が全部自分の意思のまま行動したら、絶対達巳さんドン引きします」
「そんなことないって。今までだって……」
「ほんまは俺、達巳さんには、俺以外の誰かとどっか遊びに行ったりとかして欲しくないんですよ」
 ようやく圭吾の本音が溢れ出してくる。ドン引きどころか、俺は思わず顔を綻ばせていた。
 そうだ。これが俺のよく知ってる、本来の圭吾だ。
「景子もそうじゃし、あの亮太とかいう友達とだって」
「うん、悪かった。でも俺にも交友関係はあるけぇ、そこは要相談ってことで——」
「ほんまは、誰の目にも触れん場所に達巳さんを閉じ込めて、俺だけがずっと愛でときたいくらいなんです」
「それはやめて!」
 急に発想が想像の斜め上にぶっ飛んだ! さすがにそれはドン引きだわ!
 圭吾はその発言の異常性には気づいていないのか、さらに指を折って自分の欲望を並べ立てていく。
「ほんまは手ぇだって繋ぎたいし、指輪だってして欲しいし、キスだって——」
「キス?」
 俺が繰り返すと、圭吾ははっとしたように急に黙った。
 キスって——雨の日に一人で妄想した時は、なんかキラキラしたエフェクトがかかってて、もっとこう、軽かった。
 でも、実際こうやって二人きりの部屋で口にされると——
「ちょっ、赤くなんなや! お前が言い出したんじゃろうが!」
「無茶言わんとって下さい! そんなん赤くなるに決まっとるでしょうが!」
 圭吾は文字通り赤くなった顔をぱっと背けた。
「そんなん……俺がしたいことなんて、何想像したって赤くなることばっかりじゃないですか」
 そっか。圭吾、赤くなるようなことばっかり俺としたいんか。
「……それなら確かに、ちょっと遠慮してくれるくらいがちょうどいいかもしれん」
「だから言ったでしょうが」
「いや、でも……! やっぱり溜め込むのは良くないって」
 恥ずかしくて今この場で口にはしたくなかったけど、圭吾がしたいことって、別に俺がしたくないことってわけでもない。
 それに、さっきの監禁発言からするに……こいつそういうの溜め込んだら、爆発した時にちょっと怖い気もする。
「なんでも相談しよ! まずはそっからじゃ」
「でも、そういうことしたいって言って断られたら、結構ショック受けると思うんですけど」
「そこは耐えろや! たとえ玉砕したとしても、次の機会を待つくらいのメンタルでこいや! 俺らの仲なんじゃけぇ」
「じゃあ……」
 圭吾はまだ恥ずかしそうに頬に血を上らせたまま、それでも真っ直ぐ俺の顔を見た。
「じゃあ今、ここでキスしてもいいですか?」
「——っ!」
 ちょっとは覚悟してたし、うっすら期待もしてたけど、改まってド直球にそう言われると——ちょっと恥ずかしすぎる!
「……や、やっぱりさ——」
「だめ?」
「いや、そうじゃなくて……キスする時は、できれば聞かんで欲しい。なんか待ってるの恥ずかし——」
 最後まで言う前に、ふわっと柔らかい感触が俺の唇を覆った。
 あ、ファーストキス。
 思ったほど生々しい感じはしない。肌と肌が触れてる感じ。
 ただ、それが唇同士ってだけで、こんなにも特別感があるのか。
「……どう、でした?」
 唇が離れてから、圭吾がおずおずと聞いてきた。
「うん……そんなに悪くなかった」
「ほんまに?」
「キスってもっとこう、生々しいものかと思っとったから、逆にちょっと物足りん気もした」
「はぁ!?」
 圭吾は俺の肩を掴むと、もう一度ぐいっと顔を近づけてきた。
「俺のこと、煽っとるんですか?」
「いや、率直な感想を述べただけ」
「じゃあ次は、欲求不満の達巳さんがもっと満足できるようなやついきますよ」
「だからキス前の宣言はやめろって」
 もう一度唇が触れ合って、今度はさっきよりずっと深く、唇が重なった。
 うん、こっちの方が、俺が想像しとったキスに近いかも。
 俺も腕を圭吾の体に回して、少しずつ圭吾のキスに応えていった。



 左肩に担いだ通学鞄の上で、アザラシの赤ちゃんキーホルダーが嬉しそうに跳ね回っている。
 俺が自分で鞄を持っているせいで、圭吾の左手はガラ空きだ。
 でも手を繋ぐのは、もうちょっと人目のないところにしよう。
 そこは圭吾とも意見は合致している。
 圭吾が一年間ずっと持ち歩いとった指輪も、一応受け取ることにはしたけど、左手の薬指につけて歩ける場所は限られる。学校は教師に絶対目ぇ付けられるし、友達に冷やかされるのも嫌だし。
 いっそそれなら足の指につけようか? って提案したけど、ソッコーで却下された。
「そんなん、絶対足の指に豆できるでしょうが!」
 指輪を踏まれるのが嫌なんかと思ったのに、そうじゃないんか。
「……てかさ、その敬語、そろそろやめん?」
「なんでですか?」
「いや、だって付き合う前は普通に喋っとったのに、付き合ったら急に敬語とかおかしいじゃろ。逆はあるけど」
 圭吾は通学路を歩きながら、少しだけ視線を遠くにやった。
「……敬語を使う相手って、普通は尊重する相手ですよね」
「慇懃無礼って四字熟語あるけどな」
「それは別として。俺、ずっと景子の歴代彼氏の愚痴聞かされて育ったようなもんなんです。最初は親切なのに、付き合った途端雑に扱われるみたいな話もよくあって。俺は絶対そうはなりたくなかった。達巳って呼び捨てするのと、達巳さんって呼ぶんだったら、印象が全然違うくないですか?」
「確かにそうだけどさ、でもやっぱり敬語って距離を感じるじゃろ?」
「そんな距離気にならんくらい、物理的に近づいたらいいんですよ」
「何なんその屁理屈」
 俺が笑いながら体当たりすると、圭吾はよろめいたフリをしてから、少し考えるように真顔になった。
「でも、そうですね……達巳さんが嫌なら、時々やめてもいいかもです」
「時々?」
「いつも丁寧に喋っとるのに、ふっと砕けた口調になったら、ちょっとドキッとするじゃろ?」
 そう言って、圭吾は微かに口角を上げながら流し目でこっちを見た。
 計算され尽くした角度!
「い、今のは反則じゃろ!」
「あはは! 効いとる効いとる」
 おかしそうに笑いながら、圭吾は鞄からお茶のペットボトルを取り出した。
 くっそー! やられっぱなしは性に合わん。
「……そういえば圭吾、もう小窓からうちには入ってこんの?」
「付き合っとる人のお宅に、玄関から入らんのは失礼だと思いまして」
「親しき仲に、礼儀なんかいらんじゃろ」
「礼儀は要ります」
 ふ〜ん、と俺も圭吾をチラッと横目で見た。
「あのさ……夜這いって知っとる?」
 ぶふっ! っと圭吾が盛大にお茶を吹いたせいで、向こうから歩いてきたおばさんが驚いた顔でこっちを見た。
「ちょっ! 達巳さん、何言って——!」
「わはは! お返しじゃ!」
「それはさすがに反則すぎでしょ!」
 圭吾に小突かれそうになった俺は、身を翻してぱっと駆け出した。
 圭吾の鞄で跳ねているタッちゃんの顔が迷惑そうに見えて、俺は圭吾に追われながら再び大きな笑い声を上げた。
 恋人になったって、俺たちはこれからも、きっとずっとこんな感じだ。
 
終わり。